0.
さてここで、とある一人の少年の話でもすることにしようか。
今から十七年前のとある日に、少年は健やかな産声を上げた。五体満足な健康体として。一つ違っていたのは、少年が一人で生まれたわけではないというところか。そう、少年は双子だったのだ。
弟として生まれた少年は、すくすくと成長した。頭もよく顔もよく、運動神経も抜群の上愛想もいい。そうなれば、周囲が放っておかないのは当然の流れだ。
どこに行っても、少年は人に囲まれた。持ち前の明るさもさることながら、いつしか覚えた父親譲りのマジックを披露すれば、歓声を貰うことは容易かった。そうして少年はますます、周囲の人間を笑わすことを、マジックを、好きになっていった。
少年は日々すくすくと成長していく。共に生まれた兄も同じように。けれど少年と兄は、全く違う存在だった。似ているのはその容姿ばかりなり。何をしても、少年は兄に敵うことはなかった。
喋るようになるのも、歩くようになるのも、必ず兄の方が早かった。少年がやっと平仮名を読めるようになった頃、兄はすらすらと活字ばかりの本を読んでいた。少年がやっとその本を読めるようになった頃、兄は外国の本を読んでいた。全てはその繰り返しだった。
兄はいつでもどんな時でも、少年の三歩先―――いや、三十歩先を歩いて行く存在だった。
そんな兄の存在を、少年が疎ましく思うかと言えば、事実はその反対だった。少年は何でもできる兄を好いていたし、兄もまた、手のかかるであろう弟を、よく可愛がってくれていた。父親が不慮の事故で亡くなった後は、二人で母親を守っていこうと、よりその絆を強めたものだった。
少年も兄も成長する。二人の身長が、亡き父のそれに近づいた今も、少年は兄に敵うことはなかった。むしろ二人の差は広がる一方で、そんな兄を、少年はまるで父のようだとすら思うようになっていた。それぐらい、兄というのは完璧な存在で、少年が敵うことなど何一つもなかったのだ。
いつでも冷静で、我を忘れることがなく、頭脳明晰で思慮深い。時に勘任せ、その時の気分次第で行動してしまう少年には、ついぞ真似することのできない姿がそこにあった。叱られたことはあっても、怒鳴られたことはない。少年は腹を立てれば、すぐに兄に八つ当たりをしてしまうというのにだ。
そんな、文句のつけどころもない兄にも、ある一つの秘密があった。兄は人間ではなかったのだ。
彼の有名なフレーズにのっとるのならばこうだろう。『奥様は魔女だったのです』ならぬ、『兄は吸血鬼だったのです』。
そう、少年は人間、兄は吸血鬼。
そんな特異な環境で生まれ育った少年は、けれどこれからも、すくすくと育っていくのである。兄と一緒に。
1.
ここ最近、兄の帰りが遅い。
生活時間の違う兄であるから、最初は気にも止めていなかった。というよりは、気付かなかったという方が正しい。一体いつから、兄は夜遊びを繰り返していたのだろうか。いつからオレの兄は不良になってしまったのだ。
とにもかくにも、気付いてしまえば、問い正さずにはいられない。昼間に尋ねようにも、兄は寝ているか、あるいははぐらかされるのがオチだとわかっていたから、オレは現行犯を狙うことにした。つまりは兄の帰宅を待ち伏せたのだ。
「お帰り」
「うわっ」
オレがこの時間―――何せ深夜の二時半だ―――に起きているとは思わなかったのだろう。さすがの兄も、声を上げながらに身体を跳ねさせた。
「……び、びっくりした。驚かせないで下さい、快斗。何をしているんですか、こんな時間に」
「それはこっちの台詞だっつーの」
「人間はもう寝ている時間でしょう」
子供は、と言われないところが、まだマシなのだろうか。同い年だというのに、そこは精神面が影響するのか、どうにもこの家でオレの発言権は弱い。悔しい限りだ。
「明日は休みだし、夜更かししたい年頃なんだよ」
「夜更かししたい年頃だと、意味もなく玄関先に突っ立っているんですか、あなたは?」
「意味なくじゃないぜ? ちゃーんと兄を出迎えてやるって目的があるんだからな」
「……気付いていたんですか」
少々罰が悪そうな顔にも見えたが、気の所為だと思える範疇にも見えないことはなかった。あるいは、諦めているようにも。
兄はいつもと変わらない服装をしている。跳ねた髪、細身の身体。目に見える場所にホクロもないから、オレと兄は一見そっくりな容姿をしている。違うところいえば、兄は眼鏡をかけているぐらいか。
「毎晩どこほっつき歩いてるんだよ」
「毎晩ではありませんよ。昨日は家でゆっくりしていました」
「昨日は、な。それでもここ最近、夜中の外出が多くなったんじゃねえの? そりゃあオメーにしたら、今が一番の活動時間なのかもしんねぇけどな。それにしたって、ちょっと前まではここまでしょっちゅう出かけることもなかっただろ。恋人でもできたっつーのなら、オレだって下手な干渉なんかはしねぇけどな?」
ありえないことだと思って尋ねるオレに、案の定、兄は軽く肩をすくめて返してきた。
「あなた以上に、大切に思う相手なんていませんよ」
腰を抱きよせて、オレの頬に軽いキス。いつもの態度だ。兄は亡き父にそっくりだが、こんなところまで似なくてもいいだろうにと、オレは今更ながらに思う。そんなことを言いながらも、この調子では、泣かした女は星の数程いるんじゃなかろうか。
「……じゃあ何で」
「恋人ができたわけではありませんが、私もこの年ですし、色々と付き合いというものがあるんですよ」
「ふうん。そっちの?」
「えぇ、こちらの」
そう言われてしまえば、オレにはそれ以上何も言えなくなる。
オレと兄は、所詮生きる世界が違うわけで、オレは夜に寝て昼に高校に行くけれど、兄にはそれは当てはまらない。つまらない数学の授業を受けるのも、毎日三食の食事を必要とするのも、『さ』のつくアレが嫌いなのも、オレだけの宿命なのだ。いや、最後のそれは違うかもしれないけれど。
「詳しいことは話せませんが、あなたに心配をかけるようなことはしていません。安心して下さい。毎晩こうしてきちんと帰ってきているでしょう? もし気になるというのなら、今度はきちんと話してから出かけると約束しますから―――」
「どこ行くかも知らされねぇのに、出かけるって宣言だけもらっても、安心なんかできるかよ」
「……快斗」
困ったように兄は眉を寄せる。オレは何も、兄を困らせたいわけではない。誤解をしないでもらいたい。それでも、オレの言っていることは、あながち間違ってはいないと思うのだ。
兄には兄の事情があるのだろう。それはわかる。今までだって何度も繰り返されてきたことだ。頭ではわかっている。ただし、納得はできない。
「……おまえだけいっつも、澄ました顔しやがって」
何とも面白くない。
くるりと踵を返したオレを、兄は追ってはこなかった。疲れているのか、今のオレを追いかけても無駄だと思ったのか、そのどちらなのかはわからない。
自室に戻り、オレはベッドの中へと潜った。兄と同じ部屋だった頃には、兄もまた、夜は同じように眠っていたと思う。中学に上がった頃部屋が分かれ、いつしか生活時間もずれるようになった。それが自然なことだと母は言うが、オレにはどうもわからない。納得しきっていないオレは、ただただ子供なだけなのだろうか。
「……昔は、何するのも一緒だったのに」
今はオレだけは置いてけぼりだ。
それが悲しいし、寂しい。こんな気持ちを、きっと兄はわかってなどいないのだろう。
あの兄にもわからないことがあるのだと思えば、それは少しばかり留飲の下がる心地だった。唇に小さな笑みをはきながら、オレは毛布を口元まで引っ張り上げた。
兄はオレに隠し事をしている。それは明白な事実だった。
なぜオレにそれがわかるのかと言えば、実のところ、オレはなぜ兄が夜な夜な出かけているのか、その真実を知っているからだった。
持ちこんだ新聞を、椅子の上でばさりと広げる。今日も今日とて、派手に一面を飾ってくれているものだった。
『怪盗キッド、次の獲物はイエローダイヤモンド!』
ここ最近、新聞やテレビで、その名を目にしないことはない。世間を騒がす大怪盗は、今や国民の人気の的で、なぜ盗人がそれだけの歓声を集めているかと言えば、何てことはない。この怪盗はわざわざ予告状なんてものを出した上で宝石を盗み出し、けれどせっかく盗んだ宝石も、すぐさま持ち主やら警察やらに返してしまうことで有名なのだ。加えて言えば、その犯行はどれも目立つ有様で、さながらどこかのマジックショーだ。
私利私欲のために宝石を盗んでいるわけでもなければ、人を傷付けたり、あまつさえ殺すようなことはない。そんな怪盗は、泥棒という身分であっても、だから人気の的なのだ。退屈を持て余した世間にとっては、それこそ格好の獲物なのだろう。好奇心という名の。
もちろん中には、そうでない人間もいるわけだが。
「もうっ、だれもかれもがキッドキッドって! あんなのただの迷惑なコソ泥なのに!」
今日もさぞかし機嫌は悪いだろうとは思っていたが、案の定だ。
頭の上から降ってきた幼馴染の怒声に、オレは内心で苦笑しながら顔を上げた。
「まあ、そう言うなって。確かにただの迷惑なコソ泥だろうけど、それをいつまで経っても捕まえられない、おまえの親父さんも問題なんじゃねえの?」
「何よ、快斗までそんなこと言って! お父さんは毎日がんばってるんだから。絶対に、キッドを捕まえるのは、うちのお父さんなんだからね!」
それをオレに宣言したところで、一体どうなるというのだろう。
呆れる気持ちもあったが、ひたむきに父親を応援するところは微笑ましくもある。幼馴染の父親とは、当然オレも面識はあるわけだから、なおさらそう思うのかもしれない。
「どうせ快斗は、キッドが捕まらなきゃいいって思ってるんでしょ」
まるで見透かしたようなことを言われ、内心で驚いた。けれどこんな時こそポーカーフェイスだ。亡き父に、そうして今では、兄に言われている言葉を思い出す。
「何でだよ。オレは別に怪盗好きでも何でもねぇぞ」
「だって快斗、キッドが載ってると、必ず新聞チェックしてるじゃない。キッドもマジックが得意だし、快斗は応援したいんじゃないの?」
「そりゃまあ、見てる分には楽しいけどな」
キッドが世間から持て囃される理由は、そこにあるのだろう。
犯行の度に、キッドは派手なマジックを披露する。空中を舞ってみたり、空間転移をしてみたり、何もない所から鳩を取り出してみたり、エトセトラエトセトラ。いくら優秀な警官でも、さすがにマジシャン相手の対応は教わっていないらしく、今のところ警察は負けが続いているのだ。何て話だろうか、全く。
「ほら、やっぱり楽しんでるんじゃない」
「あのなぁ、誤解すんなよ。あいつの怪盗業を楽しんでるんじゃなくてな、マジックに感心してるだけだっつの。あんなマジシャンが身近にいたら、オレも勉強になるのになって」
オレの父親は、マジシャンとしてはそれなりに名の知れた存在だった。日本を代表するマジシャンだったと、今でもオレは思っている。世界一のマジシャンだと。
そんなオレの父親を、幼馴染はもちろん知っている。オレが幼馴染の父親を知っているように。家族ぐるみの付き合いだったのだ。
「そっか。今快斗、だれからもマジック教わってないもんね」
「ま、オレは天才だから、だれに教わらなくても十分だけどな」
湿っぽい雰囲気になるのは苦手だ。とくにこの幼馴染相手だと。こいつはいつだって、馬鹿みたいにはしゃいで笑っているのがお似合いなのだ。頼むからそうしていて欲しい。
「ま、快斗は、確かにマジックだけは上手だよね」
にっこりと笑って幼馴染は言う。妙な空気が消えたのは嬉しいが、その言葉は微妙に引っかかる。
「おい、マジックだけはって何だよ。勉強にしたって運動にしたって、何だってオレはピカイチだろうがよ」
「もう、自分でそういうこと言っちゃうから、快斗は女の子にモテないんだよ!」
「うるせぇ! オメーみたいな、ろくに胸もねぇような奴に言われたくねーっつの。小学生の時から何も変わってねぇじゃねーか」
「あー、ひっどい! 青子だってねぇ、ちょっとは成長してるんですからね!」
「微々たるものすぎてわからねぇっつの」
降ってきた鞄を、オレはすかさず避ける。そんな見え見えの攻撃など、オレに通用するはずがないというのだ。思い切り舌を出してやれば、幼馴染は腹立たしそうに机を叩く。
「……でもさ」
散々オレに鞄をぶつけようとした後で、ぽつりと幼馴染は呟いた。
「兄弟とかいればいいのにって、たまに思うよね」
幼馴染は母親を、オレは父親を、それぞれ幼い頃に亡くしている。
だからこそ出た言葉なのだろう。同じその境遇を、身近で共にしてくれる相手がいたらいいのにと、思う気持ちは確かにわかった。
そう、同じ境遇だと、同じ一人っ子同士だと、幼馴染は思っているのだ。
確かに世間的には、オレはそうした扱いになっている。
オレに兄弟はいない。表面的には。戸籍的には。
オレの『兄』という存在は、普通に見れば、この世のどこにも存在してはいないことになっているのだ。
オレの兄は、戸籍的にこの世には存在してはいない。
その理由は単純で、兄が吸血鬼だからだ。人ではない存在だからだ。この世の憲法も戸籍も法も何もかも、それは人間が人間のために作ったものであり、それ以外の存在なんて認識してはいない。吸血鬼なんて存在を、世界は認めてはいないのだ。
だから兄は学校に通ったこともなければ、病気になって医者にかかったこともない。兄程の頭脳があれば学校での勉強なんて必要はないものだし、辺りを漂う病原菌も、吸血鬼の身体を犯すには至らない。歯磨きをしなくても虫歯にならないのだと聞いた時には、心底から羨ましいと思った。寝る前でもチョコが食べ放題ではないか。
「……ま、いいことだらけではないんだろうけど」
つまらない数式や古文と向き合わないで済むことは羨ましいが、それでも学校というのはそれなりに楽しい場所だとオレは思う。例えば明日から学校に行かなくていいと言われても、オレは素直に喜べやしないだろう。それ以外の生活を知らないだけなのかもわからないが。
「おっし」
母は昨日から出かけている。友人と旅行に行っているのだ。息子たちを残して何とも気楽なものだとは思うが、それも兄がいるからこそなのだろう。幼い頃から、兄は両親の信頼を一身に受けているのだ。オレとは違って。
帽子をかぶり、上着を羽織る。時刻は夜中の十二時。高校生が出歩く時間では無いが、それも咎める人がだれもいないのだから仕方ない。そう、今日も兄は出歩いているのだ。
辺りには人の姿は見えない。住宅地なのだから当然だろう。足早に抜け、目的地を目指す。町内の美術館。普段は絵だか彫刻だか、よくわからないものが展示されているらしいが、そこに突然宝石が舞いこんできたのだから驚きだ。世間を騒がす怪盗は、もちろんそれを見逃すことはしなかった。
今夜の犯行は、とっくに終わった頃だろう。結果なんて、見なくともわかっている。あの怪盗が、警察に捕まるなんてヘマをするわけがないのだ。オレはそれを知っている。
それでも犯行現場の、その美術館にやってきたのにはわけがある。現場検証のためか、それともまだ警部は怪盗を追っているのか、残された警官の姿が見えた。裏口に近づき、そこを守っていた警官にしゅっとスプレーを吹きかける。
「おやすみー」
オレ特製の催眠スプレーだ。恐らく一時間程はぐっすり寝込んでくれることだろう。それだけあれば十分だ。
足音を潜めて、ゆっくりと階段を登る。携帯の明かりで足元だけは照らしたが、それでも十分とは言えない。夜目の効かない自身の目が、こんな時ばかりは不満でならなかった。どうしてオレはただの人間なのだろうか。
けれど、生まれは変えられない。だれを恨んだところで、どうしようもないことはある。そもそも、恨んでいるのかどうかすらもわからない。人生なんてそんなものだろう。
屋上へと続く扉は、普段ならきちんと施錠されているのだろう。客が間違ってでも入り込んでしまったら困る。
「―――」
けれど今は、その鍵も空けられていた。オレは冷たいドアノブを掴み、両手でしっかりと扉を押し開けた。
途中からは、もう、足音を忍ばせようという気もなかった。オレが警戒していたのは警察相手であって、当の目当ての人物には、そんなこと無駄だと知っていたからだ。何せ人間よりも、数十倍優れた聴覚を持っているのだ。いや、聴覚だけではない。味覚も嗅覚も、何もかも、だ。
「人間は、もう寝ている時間でしょう」
オレがわかっていることを、相手もまた理解しているのだろう。だから、いつもと変わらない台詞が飛んでくる。その言葉だけを聞いていると、錯覚してしまいそうになる。まるで家にいる時のようだと。
違っていたのは、その服装だ。シルクハットに白いマント。絶えず風に揺れている。白いスーツに白ズボン。両手をそのポケットに突っ込んでいる様は、少し意外にも思えた。家では見ることのない仕草だった。
「それとも眠れなくて、こんな所まで来てしまったんですか、……快斗?」
「……まあ、そうかもしれねぇな」
双子の兄のことを思ったら、到底大人しくベッドに入ってなどいられなかったのだ。ここ最近、オレの睡眠時間が短くなっているのは、間違いなくこいつの所為だった。
「悪い子ですね」
まるで年上のような声音で兄は言う。
同じ年の同じ月の、同じ日の同じ時間に確かに一緒に生まれたはずだというのに、どうしてそんな目で見られなければならないのかがわからなかった。普段は眼鏡のレンズ越しに見る瞳が、今日はモノクルの奥にあった。どちらにしろ、何かを付けずにはいられないのかと思えば、笑いだしたくなるような気持ちも覚えた。本当はこいつには、そんなもの必要ないというのにだ。
「夜な夜な辺りを飛び回っては、宝石を盗み出すのも、いい子のすることじゃあねぇんじゃねーの?」
「……そうですね、確かに褒められたことではないのでしょうね」
そんなことはわかっているのだと、そう言いたげな声音だった。無駄に聞き分けがいいのも昔からだ。そんな態度を見ていると、妙に苛立ちを覚えて仕方ないのも、これもまた昔からのことだった。多分オレ達は、何も変わってなどいないのだ。
「いつから気付いていたんですか」
軽い口調で兄は尋ねてくる。絶え間なくそのマントはなびいている。今日は風が強いのだ。ここに来る道すがら思ったが、屋上に出ればなおのこと、寒さが身体に辛い。
思わずぶるりと身体を震わせば、とたん兄は眉を寄せた。そうして、かつかつと靴の音を響かせながらこちらに近づいてくる。その右手が、手際良くマントの留め具を外した。
「いいって」
意図を察して首を振ったオレにも、兄は止まらなかった。
「寒いのでしょう。羽織ってなさい」
「上着あるし、大丈夫だって」
「あなたの大丈夫は信用ならないんです」
「何でだよ! つーか、怪盗のマント借りるとかだせぇ!」
「快斗」
どうして盗みなんて働いている奴に、オレは凄まれなければならないのだろう。
この上もなく不満でたまらないが、力で兄に勝てるはずもないのだ。無理やり羽織らされてしまえば、抵抗もできない。何より、布一枚だというのに温かさは段違いで、抵抗しようという気力が無くなってしまったのだからどうしようもない。
「……いつから気付いてたって聞いたよな」
マントを借りながら、何を言っているのだろう。
特別格好を付けたかったわけではないが、これではあまりにマヌケすぎる。泣きたくなってくる。ここに鏡が無いことが幸いか。
「逆に聞くけどよ。オレが気付かないと思ったのかよ」
「普通、兄が夜歩きをしているというだけでは、それを世間を騒がす怪盗とは結びつけないものですよ」
「あぁ、そんだけならそうだろうな。オレだって、オメーの夜歩きとイコールで繋げたわけじゃねぇよ」
「ほう、ではなぜ?」
面白がっているような顔だった。事実そうなのだろう。この後に及んでも、どこまでも兄は余裕なのだ。いつだっていっぱいっぱいなのはオレだけで、兄はと言えば、そんなオレが寒くないか辛くないか、お腹は減っていないかと、そんな心配ばかりするのだ。冗談じゃない。
「……世間を騒がす怪盗の名前はキッド。その上、何でかオレの兄の名前もキッドときた。キッドが世間を騒がし始めた頃、同じく家の『キッド』も夜歩きが激しくなった。なあ、これがただの偶然だと思うか? だとしたら、よっぽど頭がおめでてぇんだろうな!」
吐き捨てるように言ったオレにも、やっぱり兄は―――いや、キッドは表情一つ変えなかった。いつもと同じ穏やかな瞳が、オレを見つめるだけだった。
唇を開こうともしない態度に、オレの方が焦れてくる。おかしい。オレはあくまでも、問い詰める立ち場だというのに。
「……言い訳ぐらいしたらどうだよ」
「この後に及んで、何も言い訳などできる立ち場ではありませんよ」
「じゃあオレが、今ここで警察を呼んでもいいっつーのかよ。現行犯だぞ。おまえどうせ、盗んだ宝石だって、まだ持ってるんだろ」
「あなたに通報されるというのなら、それも仕方のないことなのかもしれませんね」
そんなこと、思ってもないくせに。
一人で牢屋などに行けるわけがないのだ。だってそこにオレはいない。オレを残して、キッドが一人で行くわけがない。それをだれよりもオレはよく知っている。嫌という程に。
「しらばっくれるのもいい加減に……あぁくそっ、何だよ、オレが単刀直入に聞けばいいのかよ? あくまでも自分からは言わない気かよ! そんなにオレに言うのは嫌か? そりゃあオレはただの人間だけど、おまえのことなんて何もわからねぇけど! でも家族なんだぞ、話すぐらいしてくれたっていいじゃねぇか。おまえがそんだけ腹が減ってるって言うのなら……!」
オレは人間で、キッドは吸血鬼だ。
オレは一日に三度食事を取る。キッドは何も食べない。オレに付き合ってチョコレートを少しかじることはあっても、基本的には食事はしない。『人間』の食事を、その身体は必要となんてしていないのだ。
キッドの身体が求めるのは、人間の生き血。
怪盗キッドがなぜ敢えて予告状を出すのか、犯行現場に人を集めるのか、盗んだ宝石を返すのか、その答えは全てそこにあるのだ。警察は間違っても辿りつけない答えに。オレだけは辿りついてしまう。キッドのことをだれよりも知っているから。
「……警官か、集まった観客かは知らねぇけどな。見ず知らずの人間を襲うくらいなら、オレの血を飲めばいいだろ! 何のための家族だよ、何のためにオレはいるんだよ。おまえの空腹くらい満たせなくて、オレは何のためにおまえの傍にいるんだよ……!」
「―――快斗」
「こんな時ぐらい、たまにはオレを頼ればいいじゃねぇか! どんだけオレのことを、頼りにならない奴だと思ってんだよ!? 冗談じゃねぇよ! オレはただ、おまえに守ってもらうだけの人形じゃねえよ。オレだっておまえの助けにぐらい……っ!」
「快斗、大丈夫ですから」
「何が―――っ!」
大丈夫だと。
どの口が、そんなことを言うのだろう。
呆れすぎて、とっさに怒鳴る言葉も出てこなかった。そんなオレを、痛ましそうな顔をしながら、キッドが引き寄せた。
「……どうしてわかったんです」
先ほどとは打って変わって、か細い声だった。こいつは本当に、どれだけオレのことを見くびっているのだろう。怪盗騒ぎを起こす目的に、オレが気付かないとでも思ったのだろうか。
「……盗みに行く前と帰って来た後じゃ、おまえの気配は全然違うんだよ」
「……気配? そんなもの、わかるんですか」
「おまえのはわかる」
どれだけ一緒に居ると思っているのか。片割れの気配ぐらい、いくら人間のオレだってわかるというのだ。だってこの世に生まれる前から、馴染んだそれだというのだから。
「オレにはそんなこと、どうせわかりっこねぇって、思ってたのがおまえの敗因だよ」
突きつけてやれば、キッドは目に見えて辛そうな顔をした。可哀相だと思わないわけではなかったが、それ以上に、馬鹿だと思う気持ちの方が強かった。こいつは馬鹿だ。
「わかったら、もうこんな馬鹿な真似するな。腹が減ったら、オレの血を飲んでいいから」
「無理ですよ」
間髪いれずにキッドは言う。どこまで諦めの悪い奴なのか。
「うるせぇな! オレがそうしろっつったらそうするんだよ! こんな馬鹿みたいな騒ぎ起こすよりも、そっちの方がよっぽど……」
「現実的に無理なんですよ。あなた一人の血では到底足りません」
「え……」
告げられたその言葉に、オレは数秒の間、ぱちぱちと瞬きを繰り返す他なかった。それは予想だにしない言葉だった。
「あなた一人の血では、私は飢えを満たすことはできないんですよ、快斗」
馬鹿みたいに丁寧な声音で、キッドはそう繰り返してくれる。幼い子供に言い聞かすような声だと思った。
「……足りない、って」
そういえばこいつは、一度にどれだけの血を飲むのだろう。そんな根本的なことすら、オレは何も知らなかった。キッドはオレの食事量を把握しているのだろうに、なぜオレは知らないのかなんて、それは今まで目の前で、キッドの食事風景を見たことがないからで。
そう、オレは双子の兄の食事姿すら、今まで見たことがないのだ。何てことだろうか。
「……今日、何人の血を飲んだんだ」
「十人ほどでしょうかね」
「十人……」
「あぁ、大丈夫ですよ。だれも殺してません。殺さずに飲もうとすると、どうしてもそのぐらいの人数になってしまうんです。飲んだ後には記憶もいじらせてもらいましたから、もちろん吸われたことなどは覚えていませんよ」
あっさりとした声音だった。淡泊な、と言えばいいのだろうか。
血を飲んだことを、そうして記憶を弄ったことを、何とも思っていないかのような声音だった。吸血鬼らしいと、言えばそれまでなのだろう。
頭の中がぐるぐるとする。考えがまとまらない。オレの当初の予定とは、何もかもが狂いすぎてしまっている。オレが血を提供すれば、それで済む話だとばかり思っていたのだ。人生とはかくも上手くいかないものなのか。
「快斗」
力が抜けて、その場にしゃがみこんだオレに、キッドが声をかけてきた。
「私のことが、怖くなりましたか?」
「……バーロ」
馬鹿な質問だった。悩む必要もない。
「何でオレが、おまえのことを怖がらなきゃならねぇんだよ。なるわけねーだろ。ただ、びっくりしただけだよ。あと、これからどうすりゃいいのか考えてる」
「人の生き血を飲んでいるんですよ、私は。あなたと同じ人間の血を……。少しは怖がるべきではありませんか?」
「だってそうしなきゃ、おまえは生きてけねぇだろ」
すぐさまそう言えてしまう時点で、オレもだいぶ、人間としてはどうかしているのかもしれない。こればかりは、生活環境のなせる業と言えばいいのだろうか。オレが鶏や豚を食べるのと同じで、キッドには人の血液が必要なのだ。ただそれだけの話だ。
それだけの話だが、キッドの求める食事は、スーパーに行っても売ってはいない。ならばオレが提供しようにも、オレだけでは不足ときている。そこが問題なのだ。
「……例えば私が、あなたの友人の血をすすっても、あなたはそう言っていられるのですか?」
何でこの場で、そんな質問を投げかけてくるのか、オレにはまるでわからない。意味のない質問だった。
「おまえはそんなことしねぇだろ。オレが嫌がるようなことは」
「ですから、例えばの話ですよ。どうしようもない空腹を覚えた時に、もしあなたの友人に襲いかかったら?」
「おまえがどうしようもない空腹を覚えたとしても、それでもオレの友達に襲いかかるような真似はしねぇよ」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「だっておまえ、オレの嫌がるようなことはしねぇだろ」
簡単な話だ。少なくともオレにとっては。
キッドが何を考えているのか、それはわからない。多分どうでもいいことを考えているのだろう。顔を見ればわかった。
「問題はな、そんなことじゃねぇっつの」
例えば、なんてことを、いくら考えたところで仕方ない。もっと現実的なところにこそ目を向けてほしい。
「何もこんな、泥棒騒ぎを起こさなくてもいいだろ。そりゃおまえにとっては、こんなの他愛もないことなのかもしれねぇけどな、だけどもっとやりようってのはあるだろ」
「興奮状態の方が、暗示にかけやすいんですよ」
「そこはおまえががんばれ」
「他人事だと思って」
キッドはやれやれと肩を下ろした。本当に他人事だと思っていたら、こんな真夜中に、わざわざこんな所までやって来ないというのだ。こいつは何もわかってなどいない。
「とにかく、今の目立つやり方はどうにかしろ。おまえが強いことは知ってるけど、警察だって馬鹿じゃねぇんだぞ。万が一ってことがあるだろうが」
「人間に捕まえるようなヘマはしませんよ、安心して下さい」
「安心できるかよ! あのな、おまえはそうやって簡単に言うけどな、少しは心配してるこっちの身にも……」
「おや、心配して下さっていたんですか? 嬉しいですね。あなたがそれだけ私のことを考えていてくれたというだけで、私は世界一の幸せ者です」
「だあああ、そんなことどうでも……ばっ、ちょ、止めろって、キスすんなば……っ」
言っている途中で、むちゅっと唇を塞がれる。ご丁寧に片腕を頭の後ろに回されているとなれば、避けることもできない。
ただの家族のキスだとキッドは言うが、それにしてはずいぶんと
濃厚だ。もっとも、平均的な家族のキスがどういうものなのか、統計を取ったわけではないから、これはあくまでもオレの個人的な見解なのだが。それにしたって、毎回どうにも息が苦しい。いい加減にしてほしい。
オレが拳で胸を叩いて、ようやくキッドは身体を離してくれた。自由になった口で、オレは思い切り息を吸う。冷たい空気が肺に痛いが、そんなことはどうでもいい。
「そろそろ家に帰りましょうか。警部も捜査を引き上げた頃でしょうしね」
オレが深呼吸を繰り返しているというのに、どうしてこいつは涼しい顔をしているのだろう。吸血鬼だからか。そうなのか。
「快斗? 大丈夫ですか?」
「……うるせぇ」
口を塞いでくれた張本人に、そんなことは尋ねられたくなどないというものだ。気遣うぐらいなら、そもそも人の口を塞ぐなというのだ。
「少し寒いですが、家の近くまでは飛んで帰りましょうか。もうこんな時間ですからね」
「飛んで……?」
「怪盗キッドは、空を駆ける怪盗ですよ」
片目を瞑ってキッドは言う。ハンググライダーで逃走する怪盗ときているのだから、それは警察も苦労していることだろう。今夜はまた明後日の方向にパトカーが走って行ったが、恐らくはダミーを飛ばしているのだろう。
「何で怪盗キッドなんだよ」
いくらキッドが戸籍には載っていない存在だと言っても、当然オレは何もかもを知っているのだ。本気でオレにも隠したいと思えば、まずは名前を変えるべきだろう。そのままだなんてどうかしている。
「私たちにとって、名前とはその本質をあらわすものですから。例え偽名とはいえ、自ら名乗るわけにはいかないのですよ」
「何でだよ」
「名乗ると本来の力が使えなくなります」
真面目な顔は、到底嘘をついているようには見えなかった。
オレの身体を覆っていたマントを再び留め、次の瞬間にはばさりとハンググライダーの翼が現れる。こんなものがなくても、恐らくキッドは空を飛べるはずだが、やはり世間的にまずいのだろう。いくらマジックでも、何の種も仕掛けもなく、空を飛ぶことなどはできないのだからして。
「……あー、禿げてる奴が、周囲からハゲって呼ばれて振り返ったら、もう禿げキャラとしてしか生きられないようなもんか」
「……えぇっと、それはよくわかりませんが」
オレにだって、キッドの言っていることはいまいちわからないのだからおあいこだ。
「いらっしゃい、快斗」
装備を整えたキッドが、オレにそう手まねきをする。嫌な予感を覚えて、オレは思わず顔を顰めた。
「……なあ。まさかとは思うけど、お姫様抱っことか言わねぇよな?」
「ちゃんと気配を隠して飛ぶから、大丈夫ですよ」
にっこりと笑ってキッドは言う。が、そのどこが一体大丈夫だというのか。
「オレ、歩いて帰るから」
これ以外に選択肢なんてあるものか。真っ直ぐにオレはドアへと向かったが、直前でそのドアはばたりと閉まる。もちろん、だれの仕業かなんて言うまでもない。
「おい!」
振り返って怒鳴るオレにも、キッドは澄ました顔を見せるだけだ。
「ドア開けろよ、このバカっ!」
「私がこんな夜中に、あなたを一人で帰らせると思っているんですか?」
「だったら、おまえも一緒に歩いて帰ればいいだろって……!」
「飛んだ方が早いですよ」
頑として譲らない声音だった。優等生みたいな顔をして、その実こいつはけっこうな頑固者なのだ。その癖ちょっと人より頭がいいからって、家では大人のような顔をして。だから腹が立つのだ。
「快斗、大人しく言うことを聞いて下さい」
近づいてきたキッドは、そのまま両腕でオレを浚って行く。所謂お姫様抱っこという形で。恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。
「わああああ、離せってバカ! 何しやがるんだよ……っ!」
「家までは飛べばあっと言う間ですから。大人しくしていて下さい」
「そういう問題じゃねえって……!」
高校生の男が、同い年の男相手に、なぜこんな恥ずかしい真似をされなくてはならないというのか。オレは夢見る乙女ではないのだ。
それでも、オレがどれだけ暴れようとも、キッドの腕は外れない。元々の腕力からして違うのだ。頭でも力でも、今まで一度だってキッドに勝てた試しなんてない。どうしようもない。
「一度あなたに、この夜景を見せたいと思っていたんですよ」
フェンスに足をかけるキッドは、どことなく嬉しげな顔をしていたりして。
そんな顔を見に来たわけじゃないんだけどなと、思いながらも、オレはそれ以上何も言えなくなってしまったのだった。
2.
吸血鬼と言うのは、夜闇の中動き、昼間は寝ている生き物だ。
だというのに、オレが朝リビングに降りていくと、そこには新聞を広げている兄の姿があった。
「あぁ、快斗。おはようございます」
「……おはよ。何してんの、おまえ」
こんな朝っぱらから。吸血鬼の時間で言うなら、多分今は『真夜中』にあたるわけで。
「それが、今日はどうにも寝付けなくて。目が冴えてしまっていたので、どうせならあなたの顔を見てから寝ようかと」
立ち上がったキッドは、オレの額に軽いキスをしてから、至近距離で微笑む。
「今日も可愛いですね」
「……なら、鏡でも覗いてれば? 一日中その可愛い顔とやらを見てられるぜ」
「あなたと私の顔は、全然違いますよ」
何を言っているのだろう。オレ達は双子だというのに。実の母親だって、オレ達の顔をそっくりと評すぐらいだ。
満足そうにオレの頭を撫でてから、キッドはキッチンへと向かって行った。
「朝食を作りますよ。卵は何がいいですか?」
「あのなあ、いいって、そんなことしなくて。どうせオメーは食わねぇんだろ。自分の分ぐらい自分でやるから」
「たまにはやらせてくれたっていいでしょう。料理もしばらくやらないと、腕が鈍りそうです」
これまた何を言っているのだろう。料理の腕なんて、いくら鈍ったところで困らないだろうに。なぜって、こいつは人間の食事なんて必要とはしていないのだ。本来は。
「それで、卵は何がいいですか、快斗?」
「……とろっとろのオムレツ。ほうれん草と、中にチーズが入ったやつ」
それなら腕が鈍らないようにと、精々面倒なリクエストをしてやったのだが、そんな嫌がらせも通用しない相手なのだった。
「わかりました。座って待っていて下さい」
ご機嫌に言うキッドを見ながら、オレはやれやれと言われた通りに椅子に腰かけた。開いたままの新聞を引き寄せ、片手でテレビのリモコンを握る。朝は必ず星座占いを見るのが、オレの日課なのだ。
とはいえ、星座占いまではまだ時間がある。アナウンサーが語るのは、どれもこれもつまらないニュースばかりだ。どこそこに強盗が押し入っただの、大雨が続いているだの。
そんなつまらないニュースを眺めている内に、美味しそうな香りが漂ってきた。思わず鼻を鳴らしてしまう。くんくんくんくん。
「何か面白いニュースでもありましたか?」
キッドが皿を持ってやってくる。形も完璧なオムライスと、マーガリンの塗られたトースト。それからコンソメスープにレタスを千切ったシーザーサラダ。朝から豪勢な食事だ。
「別に、特には」
ちっとも腕なんて鈍ってはいないじゃないかと、思いながらにトーストにかぶりついた。いつも思うが、どうしてこいつはわざわざマーガリンを塗ってから焼いてくれるのだろう。そんなこともできない子供だと思われているのだろうか。そんなバカな。
「どっかの怪盗も、最近は大人しくしてるしなぁ」
様子見をちらり。
向かいの席に座ったキッドは、新聞を引き寄せ何食わぬ顔で開いている。ポーカーフェイスはいつものことだ。こんなかまかけに引っかかるような男だとは、はなからオレも思ってはいない。
「味はどうですか?」
「……美味いけど」
オムレツは卵がとろとろ、中のチーズもとろとろ、スープはしょっぱくもなく薄過ぎることもなく。クルトンを口の中でさくさくとかじる。
料理なんて日頃はしてもいないのに、どうしてこうまで上手いのか。オムレツのこの見事な焼き加減は、一体どういうことだろう。こいつが料理をする時だけ、うちのフライパンはティファールにでも変わっているのか。そうなのか。
「おまえは食わねぇの?」
「必要ありませんから」
それでも時たま、キッドは食事を取る時がある。オレに付き合ってだったり、あるいは本当に気が向いた時に。それもまれなことだ。
「食いたくならないって、どういう感じなの」
「どういうと言われましても……普通に食べたくないだけです」
「でも、たまに食べるだろ」
「たまの話でしょう、それも」
キッドは水すら必要としない。それでも幼い頃は、二人そろってジュースをたらふく飲んでいたような記憶もあるから、成長と共に必要としなくなっているのだろうか。おかげで黒羽家のジュースを、オレは今や一人でたらふく飲めるわけだが。
「つまんねぇよなあ、それって」
便利なようにも思えるが、食事の嬉しさがないだなんて、ただただつまらないことに思えて仕方ない。人生というのは、無駄なことが多い方が楽しいものなのだからして。
「快斗がいれば、つまらなくなどありませんよ」
だからどうしてそこにオレが出てくるのだ。オレは娯楽品か。
「そういや千影さんは?」
「週末辺りには戻ってくると言ってましたが、まあどうなることやら……自由な人ですからね。今月中に、一度ぐらいは帰ってくると思いますが」
「自由にも程があんだろって」
高校生の息子を置いて、全く自由に世界を放浪しすぎだというのだ。生活には全く困ってはいないが、それにしたって母親としてどうなのだろう。息子が心配ではないのだろうか、まったく。
「千影さんに、何か用事でも?」
「そういうわけじゃねぇけどさ」
「私一人では不満ですか」
「だから何でそうなるんだよ!」
こいつの思考回路は、どうにもよくわからない。兄一人では不満だとか、そもそも何の話なのだ。
「食パン、まだあったっけ?」
「残ってますけど、食べるんですか?」
「おう。あ、マーガリン塗らないで、そのままでいいから。あとスープまだ残ってたりする?」
「よく食べますね」
感心したように言いながらも、キッドはいそいそと立ち上がった。全てやってもらうのは居心地が悪い反面、まぁそうしてくれるというのなら、ありがたくやってもらうとしようではないか。何せオレは、今はレタスを咀嚼するのに忙しいのだ。しゃくしゃくしゃく。
「子うさぎみたいですね」
おかわりのスープを持ってきたキッドは、そんなわけのわからないことを言う。オレの食べっぷりはウサギにも匹敵するというのか。
「子は余計だっつの」
「可愛いと言っているんですよ」
「だからそれが余計なんだよ」
キッドとの会話が、キャッチボールにならないのなんていつものことだ。オレは至極普通のボールしか投げていないというのに、キッドときたらわけのわからない変化球しか投げてこないのだ。
軽く焼かれたトーストを、オレは小さくちぎって、流れ出したオムレツの卵へと浸していく。こうすれば卵も残さず食べることができるし、パンも美味しい。一石二鳥というやつだ。
「快斗、時間は大丈夫なんですか?」
「走れば大丈夫だよ」
「送って行きましょうか」
「……ハンググライダーで?」
「もちろん、車ですよ」
にっこりと微笑んでキッドは言う。オレと同い年だというのに、こいつは平気で車を運転しているのだ。いや、年齢よりも、問題なのは戸籍を持っていないことだろうか。
ひらひらと見せてくる免許証は、オレの目から見ても本物にしか見えない。それにこいつの術があれば、その辺の警察官なんて目ではないことだろう。警官をおちょくることには慣れているのだから。
「……走ってくからいい」
いつもよりしっかりとした朝食を取った所為で、確かに時間はまずかった。口をゆすぐだけゆすいで、すぐさま鞄を掴む。
「帰りは?」
「いつも通り」
とは言っても、オレが帰ってくる時間というのは、キッドが起床しているのかどうか、至極微妙な時間だ。起きていることもあれば、眠っている時もある。今日は遅くまで起きているから、きっと起床もまた遅いのだろう。
「気を付けて」
ご丁寧に、キッドは玄関先までオレを見送ってくれる。実の母親でもそこまでのことはしないというのに。
「知らない人に声をかけられても、ついて行っちゃいけませんよ、快斗」
「オレは幼稚園児かっ!」
最後にそう怒鳴ってから、オレは家を出た。いつもより十分近くも遅い。気合いを入れて走り出した。
キッドはこれからベッドに入るのだろう。朝の空気は冷たく、こんな時ばかりは自由な生活が羨ましい。でも、血を飲む生活なんてのはまっぴらごめんだ。キッドには悪いが、オレは人間に生まれて良かったと思っている。
信号待ちをしている間に、友人からメールが届いた。遅刻? と笑い声が聞こえるようなメールに、心の中だけで「うるせぇ」と返す。青になれば、再びマラソンの始まりだ。
学校までは、そう遠い距離でもない。以前から、家を出るのがギリギリになった時には、平気で走っていた距離だ。だというのに、今日は学校に着いた時には、息も絶え絶えになっていた。朝食で摂取したカロリーが、まだ栄養に変わっていないらしい。あるいは、いつも以上に食べ過ぎた所為で、身体が重くなっていたのか。
「もー、快斗おっそい! 遅刻かと思ったじゃない」
「……うる、せぇ」
文句の声も出てこない。ようやっと席に辿りついたオレを、幼馴染は呆れたような眼差しで見下ろしてきた。顔を上げているのも億劫で、オレは机にへばりつく。
「どうせ朝寝坊でもしたんでしょ」
降って来る声の、何て冷たいことか。
寝坊をしたのではない、朝食を食べ過ぎたのだと、言いたいが言えない。どちらにしろ情けない理由には変わりなかったし、そんな無駄口を叩く暇があるのなら、その分新鮮な空気を肺に取り込むので精一杯だったのだ。
「……ちょっと快斗、大丈夫? 家からずっと走ってきたの?」
さすがのオレの様子を見て、少しは心配になったようだ。それはそれで、どうにも背筋がむず痒かったりするのだが。
「……まあ、そんなところ」
家からずっと走ってきたことには変わりない。
ただ、途中途中で信号には引っかかっていたし、何も玄関を出てからずっと、全力疾走をしていたわけではない。それではさすがに力尽きてしまう。
去年の持久走だってこれ以上の距離を走っていたというのに、なぜこうまで息切れをしているのか。やはり朝食の量が堪えたのか。
「もう、しっかりしてよね」
そう言いながらも、さすがの幼馴染も心配げな顔は拭えない。適当な笑みを浮かべながら、オレは呼吸を整えた。お代わりをするのは、せめてスープだけにしておくべきだったのか。
声をかけてくるクラスメイトにも、ひらひらと振る手の平だけで返す。心臓がいつまでも、ばくばくとうるさかった。オレはいつの間に、こんな虚弱体質になってしまったのか。
「そういえば最近、キッドは予告状を出さないよね」
返事を期待している声音ではなかった。小さな電子音が聞こえる。恐らくはきっと、携帯をいじっているのだろう。独り言のような呟きだった。
「とうとうお父さんに、恐れをなしたのかな。また予告状なんて出したら、今度こそ捕まるかもしれないって思ったのかも」
「……あんなヘボ警部に、キッドが捕まるかっての」
「もー、だれも快斗になんて言ってないでしょ! 何よ、いっつも泥棒なんかの味方しちゃって。ちょっとキッドがマジックが上手いからって、バッカみたい」
吐き捨てるように幼馴染は言う。下手に口を挟んで、また鞄で殴られてはたまらない。それ以上に息が苦しく、オレは机に額をくっつけた。机の冷たさが心地良い。
「……でもキッド、本当に最近は現れないよね。どうしちゃったのかな」
「何だよ。泥棒なんて現れない方が、警察としては喜ばしいんじゃねえのかよ」
「だってキッドは、お父さんが捕まえるんだから! その前に引退しちゃったり、他のだれかに先を越されたり、キッドが死んじゃったりしたらどうするのよ!」
いや死なねぇよ。
と、どれだけ突っ込みたかったことだろうか。まったく、縁起でもないことを言わないでもらいたい。幼馴染は何も知らないのだから、仕方ないと言えばそうなのだが。
「どうせその内、またひょっこり予告状を出してくるだろ」
「何でわかるのよ」
「あんだけ毎回派手な犯行を繰り返してる怪盗だぜ? 引退する時は、ちゃーんとド派手な引退声明でも出すだろうよ」
もっとも引退する日が来るのかどうか、甚だ怪しい。
あれから怪盗キッドは現れないが、それも時間の問題だろうと、オレはそう睨んでいるのだ。
キッドは何も言ってはこない。
改めて話そうと思えば、オレも何をどう言えばいいのかわからなくなるやらで、あれからキッドの『食事事情』には首を突っ込んではいない。
仕方の無いこととは言え、一応は人間側であるオレが、もっと他の方法で血を吸ってこいと言うのも変な気がするし、かと言って血を吸うなとは言えない。それではキッドが死んでしまう。
何かいい方法があればいいのだが、この状況を解決してくれる魔法など、どこを探してもありはしないのだ。そんな方法があれば、とっくにキッドが実践しているというのだ。
「……あー、くっそ」
それにしても昔は、一体どうやって血を確保していたのだろう。
いくら頭がいいとはいえ、兄にも子供時代はあったわけで、そんな時分にも夜な夜な辺りを飛び回っていたとは思えない。その辺りの食事事情を、全くオレには話してくれないのだ。そりゃあオレにはどうしようもないことではあるけれど。
それでも家族なのにと思えば、これ以上水臭い話があるだろうか。その上オレらは一緒に生まれ落ちた間柄だというのに。
「……うー、ただいまぁ」
家までの道のりを、今日程遠く感じたことはなかった。ようやく辿りついた玄関で、オレはやれやれと座りこんだ。身体が重い。
朝の出だしが悪かったからか、今日は一日体調が悪かった。息切れはすぐに治ったものの、体育でちょっと準備運動をすれば、またすぐに息切れの再発だ。あまりのひどさに、体育教師からすぐさま見学を言い渡されてしまうぐらいだというのだから、オレは一体どうしてしまったのだろうか。
「美人薄命ってよく言うしな」
オレは自他共に認める美形であるから、何とも危ない。靴を脱ぎながら、ため息も零れるというものだ。
「快斗、お帰りなさい」
声と共に、玄関の明かりがぱちりとついた。
「起きてたのかよ」
今日は遅くまで起きていたから、てっきりまだ眠っているとばかり思っていた。起きていてもこいつの場合、部屋の明かりをつけないのだ。
「私が起きていたら、何か問題でも?」
「バーロ、だれもンなことは言ってねぇだろ」
軽く笑ったオレが、いつまでも玄関先に座りこんでいることを、当然キッドは不審に思ったのだろう。
「快斗?」
「あー、うん」
すぐさま立ち上がって部屋に入りたいのだが、いかんせんここに来るまでで疲れてしまったのだ。もう少し座っていたい。だが、キッドにあらぬ心配もかけたくない。何と言うか、こいつはいささかオレに対して過保護すぎるものだから。
「いや、大丈夫大丈夫。今日体育があったから、ちょっと疲れただけで」
疲れと過保護さを天秤にかけた結果、後者の方が厄介だなと判断したオレは、何事も無かったかのように立ち上がった。
ポーカーフェイスは完璧だったはずだ。ただ、やはり身体の方は万全とはいかなかった。とたんによろけたオレは、それでも廊下に倒れ込むような羽目にはならなかった。オレと同じく細い腕の、一体どこにそんな力があるのだろうか。
「具合が悪いんですか、快斗」
「いや、そんなおっかねぇ顔する程のことじゃねぇんだけど……」
最後までオレの台詞を聞かずに、キッドはそのままひょいっとオレのことを抱き上げると、すたすたと歩き出してしまった。十分予想のできる展開であったから、オレも大人しく運ばれるままになっていた。自動的にソファの元まで行けるのなら、まあ悪い話でもない。
「熱は? いつから具合が悪いんですか。どこか痛む所などは……」
「やー、あの、大丈夫だから。深刻な顔してるとこ悪ぃけど、ただちょっと立ち眩みがするってだけだから。マジで」
オレの額に手の平をあてるキッドの顔は、まるで重病人を前にしているかのようなのだ。このまま救急車でも呼びかねない勢いだ。それだけは勘弁してほしい。
「立ち眩み?」
「何か息切れっつーか、眩暈っつーか……あー、でも熱もねぇだろ、ほら。別に座ってる分には何ともねぇし。学校からここまで帰ってくるんで、ちょっと疲れただけだよ」
「どうして私に連絡をしないんですか。具合が悪いのなら、すぐにでも迎えに行ったんですよ」
「いや、こんぐらいで迎えも何もねぇだろ。ただちょっと息が切れるってだけのことで……」
オレが何を言おうが、キッドは表情を緩めない。近くにあったブランケットを手に取ると、無言でオレの肩にかけていく。別に寒くはないのだが、下手なことを言うのは得策ではない。オレはされるがままになっていた。
「いつから具合が悪いんですか」
「……んー、朝学校に行く時から、何か息切れするなとは」
「朝から? どうしてその時間から体調を崩していながら、私に何の連絡もせずに……!」
「だあああ、ちょっと息が切れたぐらいで連絡とかねぇから! オレは重度の喘息患者じゃねえっつの! どんだけ過保護だよっ!」
素直に答えたことをとたんに後悔する。死ぬ気で学校からここまで、全力疾走してきたとでも言えば良かった。でもそれはそれで、何かまたうるさいことを言われそうな気がするのだ。
「過保護で何が悪いんですか。兄が弟の心配をするのなんて、いたって普通のことでしょう」
「……ええー」
これをいたって普通と言うか。その神経の方が心配になる。
「あなたのことが心配なんですよ、快斗。あなたは昔から、人一倍無茶ばかりするから」
隣に腰掛けたキッドは、そう言いながらオレの手を握る。これが可愛い彼女ならともかく、兄相手というのが何とも色気に欠ける。オレは確かにイケメンだが、さすがに双子の兄相手ではときめけない。ナルシストではないのだから当然だ。
「お願いですから、心配させないで下さい。あなたが無茶をする度に、私がどれだけ不安になるかわかりますか?」
まったくもって大袈裟だ。
そう笑うことができたらまだマシなのだが。
わかっている。生まれてから一度も病気にかかったことがない兄に比べて、オレはもう何度も寝込んでいるし虫歯にだってなる。比べれば、どうしたって弱い存在なのだ。それだけできっと、こいつは不安になるのだろう。
だれの所為でもない。もちろんオレの所為でもない。かと言ってキッドの所為でもない。だから話はややこしい。
「……わあったよ」
それでもオレは大人だから、静かに頷いてやるのだ。だれも悪くなかったとしても、それでもだれかが妥協してやらねば話は進まない。オレは精神的に成熟しているのだ。
「心配かけるような真似はしない。約束する」
「具合が悪くなったら、すぐさま私に連絡をすると誓いますか?」
「誓う誓う」
「眩暈でも息切れでも、何であれ。どこにいようが昼間だろうが、あなたから連絡があればすぐに向かいますから」
「だからわーったって」
そりゃあオレが呼べば、どこにいたって駆け付けてくれることだろう。荷物が多いから迎えに来てと、そんな連絡をしたって、嫌な顔一つしない奴なのだから。
「約束ですよ」
どこまでも真摯な顔がむず痒い。まるでここが戦地で、オレ達はこれから生き別れてしまう兄弟のようだ。映画だったらさぞや感動シーンなのだろうが、あいにくとここは戦地などではなく、いつもと変わらず平和な江古田町だ。
「約束約束。……な、それより今日のなに?」
こいつがこの時間に起き出しているということは、きっと夕食も作ってくれるのだろう。期待して尋ねたオレに、キッドは静かに眉を寄せて見せた。
「具合が悪いのでしょう。夕飯はおかゆかおじや辺りにして、早く休んだ方が……」
「だーかーら、ただちょっと眩暈がしただけっつってんだろ! 腹だって普通に減ってんだよ。成長期の夕飯がおかゆとか冗談じゃねえよ」
成長期の身体は、肉とか、肉とか、あるいは肉とか、とにかく肉を欲しているのだ。オレの無言の圧力を感じ取ったのか、「……確か冷凍庫に鶏肉が入っていましたね」と立ち上がった。それで良し。
「すぐに用意しますから、それまで大人しく休んでいるんですよ」
「へーい」
「返事は『はい』」
こいつはオレのお袋か。
本物の母親が滅多に家にいないのだから、兄が多少口うるさいぐらいでちょうどいいのかもしれない。そう思う他無いのだ。
出された大量のからあげは、もちろんオレが一人でしっかり胃袋に収めてやった。キッドは何やら呆れた顔をしていたが、成長期の食欲を甘くみないでもらいたい。その頃には、すっかりオレの体調も良くなっていた。
良くなっていた、と思ったのだが、それはその時だけだった。
何もぶっ倒れるとか、顔が青白いとか、そんなことはないのだが、あれ以来どうにも息切れが続く。以前なら軽く走れた距離を、今はぜえはあと息を切らせながら進んで行く。
「貧血のようですね」
そんなオレの体調を見ながら、キッドは静かにそう言った。
「……貧血ぅ?」
「症状から見てもそうでしょう。そこまで重いものとは思えませんが、食事にレバーやほうれん草を増やした方がいいでしょうね」
「ええー」
別にレバーもほうれん草も嫌いではないけれど。
「貧血って、ンな女子みてえな……」
例えば朝礼でぶっ倒れるのだって、それが女子生徒ならか弱くて結構なことだが、男子生徒だったら笑いの的だ。オレは絶対にごめんこうむる。
「症状に、男性も女性も無いでしょう」
キッドは当たり前のようにそう言うが、心境としては微妙なところなのだ。健康優良児のようなオレが、なぜまた貧血などに。
「とにかく、あまり走り回ったりしないように」
「したくてもできねーよ」
オレの呟きをさらりと笑って流したキッドは、今夜もオレのために夕飯を作ってくれた。ほうれん草の味噌汁に、ほうれん草とトマトの入ったオムレツ。レバニラ炒めに、最後もやっぱりほうれん草の胡麻和え。全体的に緑色な食卓だった。
「……おまえさぁ、オレの血を緑色にでもしたいわけ?」
ほうれん草もレバーも嫌いではないが、何も食事全体をそれで統一しなくてもいいだろうに。まさか今日からずっと、こんな食卓が続くのだろうか。冗談じゃない。
「鉄分を取るに越したことはないでしょう」
「いやだからって、限度っつーもんがあるだろうがよ」
料理上手なことがまだ幸いか。今日もオムレツはとろとろで、確かに美味しい。レバニラ炒めも、独特のレバー臭さが全くない。自分ではこんな品数を作ろうとは到底思えないから、作ってくれることはまあありがたい。
「明日はメニューを変えますよ」
オレの心を読んだかのように、向かいの席に座ったキッドは小さく笑う。
「ほんとに?」
「ほうれん草のシチューに、ほうれん草とベーコンのサラダ、ほうれん草のキッシュ辺りでいかがですか?」
「……うわあすげぇ楽しみ」
ほうれん草の、全くなんて活用性のあることだろう。当分オレの食卓が緑色になるのは、免れないようだった。オレの身体を流れるヘモグロビンは、どうしてしっかり働いてくれないのか。
「楽しみにしてて下さい。腕をふるいますから」
オレの嫌味に気付いていないのではなく、気付いた上でそう言っているのだろう。厚かましいと言おうか、面の皮が厚いと言おうか。どちらにしろ、厚いことには変わりがない。
「おまえもしかして、オレが寝てる間に、こっそりオレの血飲んでたりする?」
澄ました顔が気に入らなくて、もっと直球な嫌味を投げつけてやれば、とたんにキッドの顔が険しいそれになった。
「……快斗」
「あ、いや」
お得意の厚顔無恥で、さらりと交わすと思っていたら。どうにもオレは言ってはいけないことを言ってしまったらしい。
「私が本当に、そんなことをすると、あなたは思っているんですか? あなたに噛みつくなど……それも、あなたが寝ている間にだなんて。私があなたを、傷付けるような真似をするとでも?」
「ちょ、冗談だっつの。本気で思ってたら言うわけないって……」
オレの身体の、どこにも噛み痕なんて見当たらない。そう言ってやろうかと思ったが、それはそれで余計に怒らすだけのような気がして、オレは箸を握ったままキッドの顔を見つめた。
「……ごめん。悪い冗談だった」
「……いえ」
小さく答えると、オレが食べ終えたオムレツの皿を手にして、キッドはキッチンへと向かっていった。聞こえる音からして、食器を洗っているらしい。オレはまだ夕食の最中だというのにだ。
急いで夕飯を食べて食器を持って行くべきか、ゆっくり食べて距離を取るべきか悩んだ結果、いつも通りの速度で食べるに至った。
慣れてはいても、やはり一人の食卓というのは味気ない。何であんなバカなことを言ったんだと、後悔したところで後の祭りだ。
一体いつまで、キッドは皿洗いをしているのか。オレが食べ終わり、残りの食器を運んでいけば、しまってあったグラスまでを、一つ一つご丁寧に磨いていた。
「足りましたか?」
「……あ、うん」
声はすっかりいつもの兄だ。
それにほっとしつつ、オレは言い忘れていたことを口にした。言い忘れていたと言おうか、夕飯中に言おうと思っていたことを。
「あー、あのさ。オレ、これから出かけてくるから」
「これから? もう夜ですよ」
「まだ七時だろ。友達がバイトしててさ、終わったらみんなで集まろうって話になってて。十時ぐらいまでには帰ってくるから」
「何も平日の、こんな時間から遊ばなくても……」
「そいつ土日もバイト入ってて……つーか、今日誕生日なんだよ。だからケーキ買ってカラオケにでも行こうって」
「そうですか」
日頃口うるさい割には、キッドはそこまで門限にはうるさくはない。今日も「気を付けて」と言うだけだった。オレは携帯を確かめてから、上着を羽織る。
場所がカラオケで良かった。これがボウリングだったらと思うと、それだけで眩暈を覚えそうだ。あまりはしゃがないようにしよう。得意のマジックを披露した後は、大人しくケーキを食べているのだ。
オレが準備を済ませて二階から降りてきても、まだキッチンからは水音が響いていた。家中の食器をぴかぴかに磨き上げる気だろうか。パーティーの前日でもないというのに?
「……キッド」
「まだ行かないんですか?」
再びキッチンに足を踏み入れれば、驚いたようにキッドは振り返った。玄関までは行ったのだ。ただ、どうにも気になって戻ってきてしまった。
「……あのさ、さっきは本当にごめん。おまえが、その、オレに何かするとか、本当思ってないから。思ってないのに、あんなひどいこと言ってごめん」
別に、オレへの当てつけで食器を洗っているわけではないだろう。そもそも、当てつけに食器を洗う意味もわからない。キッドの皿洗いに文句をつけたわけではないのだから。
それでも普段と違うことをしているのには、何か理由があるように思えたのだ。例えばそうやって、一心不乱に食器を磨くことで、心を落ちつかせようとしているのだとか。
「ごめん、キッド」
「気にしてませんよ。あなたが本気でないことなんてわかってます」
「……怒ってない?」
「こんなことで怒る程、私の心が狭いとでも?」
からかうように笑う。すっかりいつもの様子だと思って、オレもようやく安心する。
「早く行かないと、友達が待ちくたびれてしまいますよ」
「わあってるよ」
オレの額に軽いキス。むず痒いが、これが普段のキッドなのだ。だからオレも大人しく受け入れておく。
帰りに何か、そう、チョコアイスでも買って帰ろう。そう思いながら家を出る。人間の食事は必要としないキッドだが、それでもチョコレートは時たま口にしているのだ。オレもチョコは大好きだから、そんなところばかり似たもの兄弟だと思っている。
兄好みの濃厚チョコアイスが、確かこの季節はコンビニにあったなと思えば、それだけで何となく嬉しくなる。家でだれかが自分の帰りを待っているというのはいい。これで兄がいなければ、オレは正真正銘、真っ暗の家に帰るしかないのだから。
そんな風に、帰路に着く頃を、思い浮かべていられたのは、ごくわずかな間だった。
時刻は二十二時半。オレは今、都内の某ビルへと向かっていた。
店を出てからずっと、ここまで走り通しだった。息が切れるのを通り越して、胸が痛い。この辺りの酸素濃度を、いっそ疑いたくなる程だった。吸っても吸っても、酸素を取り込めている気がしないのだ。
「……くっそ」
まったく今日は何て日だ。
友達の誕生パーティーが一転、こんな酸素濃度の薄い場所を走らされているとは。いや、濃度が薄いのは、オレの身体にとってだけなのだろうか。ヘモグロビンよしっかり働け。
「……も、終わっちまった、か、な……」
身体が悲鳴を上げ、オレは倒れ込むようにしてしゃがみこんだ。腕がとっさに動かなければ、そのままコンクリートとキスをしていたところだ。
しばらくの間、オレはただ無表情なコンクリートと見つめ合っていた。呼吸はいつまで経っても落ちつかない。多分落ちつくことなどないのだろう。こうしているだけ時間の無駄というものだった。
―――怪盗キッドが予告状を出したのは、今から二時間程前のことだ。驚くことに予告日は今日で、一時間後ときた。そんな予告状を届けられた警察は、今世紀一番の慌てっぷりだったことだろう。
カラオケにいたから、オレがその予告状に気付いたのは、少し経ってからのことだった。妙に廊下が騒がしいなと思って、携帯でニュースサイトを覗けばこの通りだ。
「……あ、の、バカ……っ」
犯行を止めたわけではないだろうと思っていた。止めに入ったオレの手前、今は様子を見ているだけなのだろうと。
その予想はドンピシャだったわけだが、まさかオレが出かけている隙に、こんな突然次の犯行に赴くとは思わなかった。オレが気付かないわけもないだろうに、どれだけの無茶をすれば気が済むのだろうか。
予告一時間後の犯行だなんて。準備期間はあったのか。満足に準備もせずに、それでも自分ならどうにかできると思ったのか。あぁ違う、問題はそんなことではなくて。今もこんな手段で、食事をしようとしていることに対してであって。
「……っ」
胸を押さえながらに足を動かす。喧騒が、次第に近くなった。もう犯行は終わっただろうに、それでも集まった観客は、すぐには消えないものらしい。パトカーのサイレンが辺りに響いていた。
さっきいたカラオケ店からも、現場に駆け付けた人がいたに違いない。そうまで離れている距離ではなかった。都心部なのだから当然だ。こうやって走ってくるには、いささか息も切れたわけだが。
どんな外出であっても、準備を怠らないのがオレのすごいところだ。今日も持ち歩いていた睡眠弾を、裏口を見張っていた警官に投げつける。途中途中の見張りにも同じように。
仮にも天下の警察が、こんなにあっけなく民間人にやられていいのだろうか。果てしなく疑問に思ったが、まあ普通の民間人は、こんな武器を持ち歩いてはいないだろうから、仕方のないことなのかもしれない。オレはいささか人よりも頭がいいものだから。
「……明かり、全部消しやがってんのかよ……」
恐らくは大本をやられているのだろう。非常電源すらも切っているのか、ビルの中はどこもかしこも真っ暗だった。
眠らせた警官から、懐中電灯を失敬する。エレベーターが動かないのでは、階段をのぼって行く他無い。それが今のオレには、どれだけの苦行なことか。
それでも急がなければ、キッドが飛び立ってしまう。
家で帰りを出迎えるわけにはいかないのだ。怪盗姿のあいつにこそ、話さなければならないのだと思った。理由なんてわからない。
家で、そうして兄の姿を見たら、何も言えなくなってしまうからだろうか。いまだにオレは、家でオレのために料理を作るあいつが、夜な夜な宝石を盗んでいる怪盗だとは、信じ切れていないのかもしれない。だれだってそうだろう、実の兄が怪盗だなんて思いたくはないのだ。逃避とも言えるのかもしれない。
でも、それでも、こんな真似、いつまでも続けられるわけがないのだ。キッドなら大丈夫だなんて、そんな風には思えない。絶対なんてもの、この世にはそうそう存在しないのだから。
息も絶え絶えに階段を上る。どれだけ息が切れようが、所詮はただの貧血だ。死ぬようなことはない。それを支えに階段を上る。走れないことがもどかしかった。
「キッド……っ!」
体当たりをするようにして、屋上に続く扉を開けた。身体が鉛のように重たかった。
「……快斗」
空にかざされた手が、きらきらと光っていた。それはあいつの手の平ではなく、その手に握られた宝石だと、思ったところで視界がふっと暗くなった。
まるで残像の様に、そのきらめきだけは、瞼の裏に焼きついているのだけれど。
「快斗……っ」
珍しく焦った声だった。あいつがそんな声を出すだなんて珍しい。
身体が跳ねた。それだけがわかった。次いで衝撃に襲われ、あぁ、倒れたのだと自覚した。これが銃弾を受けてなんて理由だったらそれなりに格好もつくのだが、自身の身体の不調は自覚している。つまりはそういうことなのだろう。
痛みはあまり感じなかった。頭はぶつけなかったらしい。それよりも、目を閉じているわけでもないのに、視界が真っ暗なことに驚いた。こんな経験は初めてだった。
「快斗、快斗大丈夫ですか……あぁもう、何でこんな無茶をするんですか。走り回ったりしないようにと、私は言ったでしょう……っ」
無茶をするなと、言いたいのはオレの方だというのに。
でも、抱きかかえられた状況ではそうも言えない。怪盗なんてやってる兄が無傷で、民間人のオレが倒れる羽目になるだなんて、まったくバカげた話だった。どうなっているのだ、まったく。
「快斗」
泣きそうな声だった。
ぱちぱちと何度か瞬きをする。ようやく視界は、真っ暗から、モノクロの世界へと移行していた。貧血だとこんな風に世界が見えるのかと、初めて知ったそれに笑いだしたくなった。まるで白黒テレビを見ているかのようだ。
「……だ、いじょ……」
大丈夫と言いたいのに、声にならない。
下手に身体を動かそうとすると、とたんに眩暈がするのだ。頭の中をぐるんぐるんとかき混ぜられているかのような。身体の軸を、振り回されているかのような。
「何も言わなくていいですから。じっとしていて。動かないで下さい。自分の身体を、何だと思っているのか……あなたは……っ」
ただの貧血で大袈裟だ。そう思っても、今のオレは笑うことすらできない。そんな力すら残っていない。
「あなたは」
今兄は、オレの頬に触れているのだろうか。そんな気がするのだが、その感覚が何とも遠い。かぶせられた布ごしに、そっと触れられているかのような感覚なのだ。どういうことだろう。
「―――あなたはもう、普通の人間の身体ではないというのに」
キッドは何を言っているのだろう。声すら、まるで、ずいぶん遠くから聞こえてくるかのようで。
オレの身体は動かない。指先すらも。ただ身体が重たい。どんどんと地面に吸い込まれていくかのようだ。でも実際は、キッドに抱えられているのだろう。それはわかる。心臓の音が近い。キッドの声は遠いのに、なぜかその鼓動だけは伝わってくる。すぐ隣にあるかのように。
「あなたは私とは違い、人間として生まれてきた。それでもその身体に、吸血鬼の因子が宿らなかったわけではない。父親の血を継いでいるのだから当然……そのままその因子が目覚めなければ、あなたはそのまま人として生きることができたのでしょう。でも、それももう過去の話だ。あなたの因子は目覚めてしまった」
キッドは何を言っているのだろう。
声はずいぶん、それはもうずいぶんと、遠いところから響いてきて。いつもは近くにあるその声が、本当に兄のものなのだと、疑いたくなるほどで。
どうしてこんなにも。
血の匂いを、濃厚に、感じるのだろう。
「……あぁ、でも」
血の匂いに混じって。
兄の、泣きそうな声を聞くことになるだなんて。
「あなたの初めての食事が、私で良かったと、そう思わずにはいられないんですよ」
「……ッ」
唇にあてられたのは、いつもの馴染んだ温もりだった。それでも流し込まれた液体の味は、オレの知らないものだった。
吐き出すことも叶わない。執拗に、オレの唇は塞がれていた。息が苦しい。呼吸を求めるのと同じく、オレの喉は動いていた。嚥下する。喉がカっと焼けるように痛んだ。身体中に、血が、力が、じわじわと注がれていく。
「……な、あ……」
言葉が出ない。声はからからに枯れていた。
それでも世界は、もうモノクロのそれではない。オレの視界には、見慣れた兄の顔が、しっかりと映し出されていた。
「あなたは私と、同じ生き物なんですよ、快斗」
そんな言葉を吐きながら。
どこまでも兄は笑っていた。