3.
オレの、オレ達の父親はマジシャンだった。それも世界的な。世界一のマジシャンだったと、オレは今でも思っている。
世界中で活躍するマジシャンであったから、家にいる時間は、世間一般の父親に比べれば短いものだったのだろう。それでもそんな短い時間にも、父親はオレ達にたくさんの思い出を与えてくれた。
一緒に過ごした期間が短かったからとはいえ、親子関係が希薄になるとは限らない。むしろ限られた時間しか一緒にいられないからこそ、濃い時間を過ごせたのだろう。
今思えば生まれてから数年の、わずかな時間であったけれど、それでもオレはたくさんのマジックを教えてもらった。ポーカーフェイスの心得を、鳩との信頼関係の結び方を、千影さんの機嫌の取り方を、女の子の扱い方を、それ以外にもたくさんのことを。
そんな父親の葬式には、たくさんの人が集まった。後々になり、あれでも人数を絞ったのだと母に聞かされたが、そこは世界的に活躍していたマジシャンだ。交友関係の広さも当然となれば、人数をいくら絞っても、それなりの人数にはなってしまったのだろう。集まった人の悲しむ顔を、オレは今でも覚えている。
あの中の何人が、父の秘密を知っていたのだろう。
黒羽盗一は世界的マジシャンで、オレ達の大好きな父親で、そうして、吸血鬼だったのだ。
悪夢のような一夜が明けた。
悪夢のような、と思うのは、何となく目覚めの悪さからしてそう思ったわけであって、何も一晩中オレが悪夢にうなされていたわけではない。自慢ではないが、夢など滅多に見ない程には、オレは快眠を得る術に長けているのだ。
「……うあー」
それでも今日の目覚めは悪い。起きた瞬間に、口の中の気持ち悪さが気になった。まるでニンニク料理をたらふく食べた後のようだ。
「おはようございます、快斗」
オレの目覚めを待っていたのだろうか。すぐさまキッドが部屋に入ってきた。いつもと変わらぬ、落ちついた色のシャツとズボン姿だ。眼鏡には曇り一つない。
「……水」
おはようと言う暇も惜しい。まずはこの気持ち悪さを拭うのが先決だ。心なしか胃腸もむかむかとするような。
「そう言うと思いまして」
言葉と同時に、水の入ったグラスを差し出される。ご丁寧にレモンまで浮いている。気が効いていると言おうか、どうしてそこまでわかるのかと突っ込みを入れるべきか。
「サンキュ」
とりあえずは、オレはそのグラスを受け取ることにした。そうして一気に飲み干す。さわやかなレモン水は、口の中を一気に清浄に戻してくれる気がした。
「気分はどうですか?」
「さっきまでは最悪だったけどな。今は中の下ってところ」
「それはそれは」
肩をすくめながらキッドは言い、空になったグラスを受け取った。
「まずは、先に朝食にしましょうか。準備をしますから、もう少ししたら下に降りて……」
「まずは、もっとちゃんとした説明をしてもらいたいんだけど?」
にっこりと笑ってオレは言う。
昨日の全てを、夢だと思いこむことができたら、どれだけいいことだろう。それでも舌も鼻も、昨日の感覚を覚えている。あれは紛れもない現実だったのだ。
「……先にゆっくり、食事を取った方がいいのでは?」
「こんな気分で飯なんか食っても、消化不良になるのが落ちだっての」
「あなたらしくもない」
からかうように言うキッドを、オレはぎろりと睨みつける。こちらはそんな気分ではないのだ、軽口なんかに付き合っていられない。
「キッド」
「……わかりました」
根負けしたようにキッドは頷く。それでいいのだと、オレもまた頷く。キッドは静かに、オレのベッドに腰掛けた。オレもまだベッドの中にいて、背中を枕に預けている状態だから、まるで見舞いにでも来られたかのようだ。
「では、あなたからの質問に答えますよ。何かわからないことは?」
「えっ」
その先制は予想外だった。わからないことだなんて。言うとすれば、全てわからないことだらけだというのに。
「お、おまえの方から、何か説明はねぇの?」
「ですから、あなたの質問に対して、私が説明すると言っているんですよ。今更、例えば私たちの父親が吸血鬼だったことなんて話しても、あなただって当然知っていることでしょう?」
「だから、オレの知らないことを説明してくれればって……」
「あなたのわからないことは何ですか?」
一見親切なようで、その実親切ではない。何となく、オレはそんな風に感じてしまう。つっけんどんというのとも、また何かが違うのだけれど。
オレは小さく唾を飲み込む。レモンの香りが、まだ口の中に残っていることが幸いだった。昨夜の後味なんて、もう欠片も残ってはいない。
「……オレは、吸血鬼だったのかよ」
「今は、そうですね。生まれた時は違いましたが」
さらりとキッドは答えてくれる。オレの一生に関わる問題だというのに、あまりにその声音が軽いものだから、すぐには飲み込むことができなかった。例えば今日の夕飯はハンバーグですよと、言う時の声と全く同じに聞こえたのだ。
吸血鬼。それはオレにとって身近な言葉だ。父親も、そうして双子の兄もそうなのだから、当然と言えるだろう。でもそれは、オレ自身には当てはまらない言葉だと思っていた。オレと母親の二人はは人間なのだと。そう思っていたのだ。
つい昨日まで。
「……どういうことなんだよ、それ。生まれた時はって……オレは、ずっと、人間だろ。だってそうじゃねぇか。ずっと人間として育ってきたし、そうやって生活してきたし、だって普通に食ってるし、おまえと違って病気にもなるし虫歯にもなるし、何もかも人間そのもので……っ」
「私もあなたも、人間と吸血鬼、それぞれの因子を持って生まれているんです。私はたまたま生まれた瞬間から吸血鬼としてのそれが勝っていましたが、あなたの中の吸血鬼の血は眠っていた―――それがこの年になって目覚めた、そういうことですよ」
そういうことって。
だからどういうことなのだ。そう言いたいのに言葉にならない。何だか泣きたい気さえしてくるのは、多分この状況が、もうどうにもならないものだとわかっているからなのだろう。
「……何で急に、そんな、変わったりするんだよ。何もしてねぇのに、何でそんな、この年になって急に……」
「いつ吸血鬼の因子が目覚めるのかは、だれにもわからないことなんですよ。あなたのように途中で目覚める人もいれば、一生目覚めない人もいる。あるいは、もっと年を取ってから目覚める場合もありますが……」
「だっておまえは、ずっと昔からそうなのに! オレはだって、普通に食って、普通に学校行って、そうやって暮らして……」
「私の方が、あなたよりも濃く、父親の血を受け継いでいるからでしょうね」
あなたは千影さんに似ていますからと、言いながらにキッドがオレの頬に触れる。そっくりの顔をして、オレの方が母親似もあったものか。性格的なことを言っているのだろうか。
「……でも」
何もこんな、突然訪れなくたって。
もっと前触れがあったっていいだろう。それがあの貧血だったというのか。あんなもので、一体何がわかれと。どうせならもっとわかりやすいものにしてほしい。血が飲みたくてどうしようもなくなるとか。そんな自分、想像もつかないが。
「どれだけ身長が伸びるのか、足が大きくなるのか、そんなことはだれにもわからないでしょう? それと同じことなんですよ」
慰めるように言われるが、到底そうは思えない。
「いつかこんな日がくるかもと、そうは思っていましたが」
「……何で」
「吸血鬼の因子の方が、人の因子よりも強いんですよ。優勢遺伝の法則が、ここにまで適用されるかはわかりませんが、吸血鬼の血を引く子供は、吸血鬼になることの方が多いと……」
「何で、そういう大事なことを、オレには何も言わねぇんだよ! 聞かされてたら、オレだって少しは心の準備ってものが……っ」
「あなたには言わない方がいいと、そう思ったからですよ。私も、―――盗一も」
「……っ」
久しぶりに聞いた名前だった。
当然だ。もう十年近くも前に亡くなった人のことを、そうしょっちゅう会話に出すわけもない。あるいは出したとしても、名前を呼び捨てにすることなんて普通は無いのだ。
「……親父を呼び捨てにするなよ」
「失礼。いつもの癖で」
母のことは呼び捨てにするくせに、どうして父親はダメなのかなんて、そんな理由はオレ自身にもわからない。単なる慣れなのかもしれない。幼かったオレ達が、実際の父を前にして、名前で呼びかけたことなんて無いのだから。
「……親父も、そう思ってたって、何だよ」
オレは親父の名に弱い。それは自分でもわかっている。
「あなたは本当に、人間そのものでしたから。吸血鬼の血が流れているとは思えないほどに……いつか目覚める日が来るかもしれないだなんて、そんな不安を、与えたくはなかったんですよ」
「……不安じゃねぇだろ。可能性の話だろ。何で自分のことなのに、オレは何も知らなかったんだよ……っ!」
「すみません」
そんな風に、素直に、謝られてしまったら。
オレの、握ったこの拳は、どこへ向ければいいというのだ。ぎりぎりと握っても、爪が手の平に食い込んで痛いだけだ。バカげている。
「……何でだよ」
オレだけが何も知らない。
母親も、同じ立ち場だなんてことはないだろう。何せ吸血鬼と結婚した女性だ。今は身軽に世界中を飛び回っている。父の遺産を食い潰さない程度には、好きにすればいいとオレは思っている。母だってまだ若いのだ。
それでもこんな朝には、傍にいてほしかったと思う。何も状況は変わらないが、母の顔を見れば、少しは落ちつけるような気もした。オレはとんだマザコンだったのか。
目の奥がツンと痛んだ。思わず、オレは両手で顔を覆った。レモンの香りなんて、もう口の中のどこにも残ってはいなかった。
「泣かないで下さい、快斗」
「泣いてねーよ!」
両目は確かに痛んだが、でもそれだけだ。兄の前で泣くだなんて、そんなみっともない真似はしたくない。オレにだってプライドはあるのだ。
「ただ、これからどうすりゃいいのかって考えてるだけだよ……こんな、急に、変わっちまって……何も教えてもらってなかったから! どうやってきゃいいのかとか……学校とか、どうすりゃいいのかって……」
そう、学校だ。大事なのはこれからの生活だ。
オレはもう、今まで通りの生活を送ることができないのかと思えば、握った拳の中の、その指先がじわじわと冷えて行った。オレはどうなるのだろう。キッドのような生活を送るのか。もう友達と、カラオケに行ったり、マックで長時間くだらない話をしたり、公園で騒いだり、そうしたことはできないのだろうか。
「それなら大丈夫ですよ。ただ少しこちらの食事が必要になるだけのことで、あなたの生活は今までとなんら変わりませんよ」
「……何だよそれ。だってもう、オレは、おまえと同じ吸血鬼になったんだろ。そうしたらおまえみたく……」
「あぁ、少し言葉が足りませんでしたか。確かに吸血鬼の因子は目覚めましたが、それでもあなたの身体に流れる人間の血もまた濃いものなんですよ。例えるなら、あなたの身体の九十五パーセントは人間で、残りの五パーセントが吸血鬼といったところでしょうか。あなたの場合は、混血児と言った方が正しいかもしれませんね」
「混血児……」
黒羽快斗なんて、立派な日本名を持っているくせに、オレはハーフだったのか。初めて知った現実に、軽い笑みがこぼれた。
「じゃあおまえは、九十五パーセントが吸血鬼で、残りの五パーセントが人間なわけ?」
「そうですね。ただし私の場合、吸血鬼の血の方が濃いので、人間らしさが残っているかどうかは謎ですがね」
オレよりも料理上手な癖して、キッドはそんなことを言う。オレが思うに、こいつの人らしさというのは、恐らくはチョコレートを食べる辺りに凝縮されているのだ。もっと人間の血が濃ければ、他の食材も食べることができたりしたのだろうか。
「ここ数日様子を見ていましたが、身体が血を必要とする以外は、あなたの身体に変化はありません。適度にこちらの食事もとれば、今まで通りの学校生活が送れますよ。安心して下さい」
「……いつオレの、その、因子とやらが目覚めたって、わかったんだよ?」
「数日程前から、ですかね。確信したのは昨日ですが……あなたが眩暈を感じだした頃からですよ」
「オレは何も気付かなかったけど」
「自身の気配の変化など、自分ではわからないものですよ」
そういうものなのだろうか。とにかく、よくある吸血鬼漫画のようにはいかないということだ。友人に襲いかかるような真似をしなくて幸いだったと思うべきか。
「……オレほんとに、今まで通りの生活が送れんの?」
「私が思うに、大丈夫だと思いますよ。まあ、あなたが、昨日飲んだ私の血を、美味しいと思ったようでは問題ですが……」
「不味かった! もうこれ以上ないって程にはくそ不味かった!」
保身のために言っているのではない。事実本当に不味かったのだ。
あんなのをオレの舌が美味しいと思っただなんて、勘違いされてはたまったものでない。だからこその主張に、キッドは少々気分を害したように眉を寄せた。
「……私はまだ若いですし、健康的な生活を送っているのに、そこまで言われるのは少し心外ですね」
なんだ、吸血鬼にとって、自身の血の美味さというのは重要なものだったのだろうか。もしかしたらオレはキッドのプライドを傷つけてしまったのか。けれど事実オレにとっては不味かったのだから、仕方ないではないか。
「まあ、そこまで言うのでしたら、学校でうっかり血を見ることになっても、万が一ということはないでしょうね。そもそも家でしっかり食事を取っていれば、そうした危険性も無いわけですし」
気を取り直したように言いながら、キッドはベッドから立ち上がった。振り返り様にオレに微笑む。
「まだ聞きたいことはあるでしょうが、とりあえず朝食にしましょう。あなたの舌にも美味しいと感じてもらえるような、オムレツと食パンを用意しますよ」
「オムレツはともかく食パンって……何だよ、ついにパンまで手作りしてくれるって?」
「あぁ、今度、ホームベーカリーが欲しいと思っていたところなんですよ」
「……マジかよ」
オレの呟きを残して、キッドは一人部屋を出て行った。あいつが欲しいというからには、近い内に我が家には、立派なホームベーカリーが届くことなのだろう。焼き立てのパンにありつけるのなら、それは嬉しい話ではあるのだが。
「あー……」
色んな話を一気に聞いて、頭は軽く飽和状態だ。ぼすりとベッドに横になる。温もりが心地良いが、それでも眠気は襲ってこない。なぜなら、その代わりに、オレの腹部がぐーっと自身の主張をしてくれるからで。
混血児ではない、完璧な吸血鬼になっていたら、そうして腹が鳴ることもないのだと思えば、間の抜けたそんな音すら愛しい気がした。まるで妊婦にでもなったような心地で、オレは自身の腹をいいこ子いい子と撫でてやった。
結局この日、オレは学校を休んでしまった。
と言うよりも、目覚めた時には既に二限が始まっている時間だったのだ。朝食を食べながらそれに気付き、慌てたオレに、キッドはにっこりと笑いながら言ってくれた。
「ちゃんと八時前には、鼻声で欠席の連絡を入れましたよ」
母が旅行中の今、この家にはオレ一人で暮らしていることになっている。その配慮はありがたいのだが、用意周到すぎて少しばかり嫌になる。
朝食の後片付けをした後、おやすみなさいと言ってキッドは寝室に消えた。オレは眠くはないが、何となく身体にまだだるさが残っているような気がしてベッドに戻る。
昼休み頃になれば、幼馴染を始めとするクラスメイトから、何通かメールが届いた。日頃オレが風邪で休むことなんてないからだろう、からかうようなメールが大半だったが、それでも一応は心配されているということはわかる。
それが嬉しく、同時に何ともむず痒い。実際に風邪を引いているわけではないからだろうか。身体は至って健康なのだ。ただ少し、人間離れしてしまっただけのことであって。
『具合平気? 最近快斗、調子がおかしかったもんね。帰りにご飯作りに行ってあげようか?』
男友達がこぞって「バカは風邪ひかねぇのにな」とからかう中で、幼馴染のメールだけが、異色を放っている。
そういえばこいつは、泊まり込みで仕事をしている父親のために、手作り弁当を持って行く程には、案外家庭的な女の子なのだった。作る料理がどれだけ美味いかも知っている。
『適当にあるもん食ってるから平気』
それだけでは味気ないかと思い、一言付け加える。
『でもサンキュ』
優しさは、素直に受け取っておくべきだろう。こんな時は特に。
まだ午後の授業が始まっていないからだろう、幼馴染からのメールはすぐに返ってくる。
『大丈夫ならいいけど。しんどかったらすぐに連絡してね。いつでも行くから』
こんな時、異性の幼馴染がいるというのはいい。男友達だったら、絶対にこんなメールは送ってはくれない。温かさを噛み締めながら、オレは枕に顔を埋めた。指先までが、ぽかぽかと温かかった。
朝起きた瞬間は、とんでもない不快感に、身体全体を包まれたものだったけれど。結局オレはオレだし、友達は友達だ。明日学校に行けば、またいつもと変わらない日常がやって来るのだろう。そうとわかる。
つまるところは、少し食生活が変わるだけのことだ。ポーカーフェイスはお手のものなのだし。そりゃあ友人達に隠しごとが増えるのはいただけないが、そんなことを言っては何も始まらない。オレの生活なんて、今までもそうした隠しごとは幾つもあったのだから。兄のことに関しても、父親に関しても。
「……そうだよな。何も変わったりはしねぇんだよ」
そう思ったとたん、身体の奥底から、むくむくと力が沸いてくるような気がした。単純と言うことなかれ。病は気からと言うように、思いこみというのは大事なものなのだ。
「キッド! キッド!」
その思いを胸に抱いて、オレは部屋を飛び出した。すぐ隣の部屋に駆けこめば、ベッドはこんもりと膨らんでいた。その塊に、オレは思い切り飛びかかって行く。
「おい起きろよ、キッド!」
「……ちょっと、何ですか快斗。私はまだ眠ったばかりで……」
「こんな真昼間に眠ってる奴がいるかよ!」
「……人間ならともかく、私は吸血鬼なんですよ」
そう言われたらそうだった。おやしまったと思ったが、そんなのは後の祭りだ。むくりと起き上がったキッドは、不機嫌そのものの顔をしている。眼鏡をしていない姿を見るのは珍しくて、まるで鏡を見ているような気分になる。
「で、何ですか、こんな時間に」
いくら兄が不機嫌な顔をしていようが、そう恐ろしいこともない。
「いや、オレさ、何かこのままでもやってける気がして」
「はい?」
「だからさ、身体はほら、変わっちまったわけだけど。でも、友達とメールとかしてたらさ。別にそういう面では変わってないし、友達に噛みつくようなことだってないし、そう悲観することないのかなって思えてきて! 朝起きた瞬間はさ、もうすげぇ嫌な気分だったんだけど、何か色々落ちついたら、別に人生終わったわけでもないんだなぁって、改めて思えたというかさ!」
勢いのままに言うオレに、キッドは瞬き一つしなかった。寝起きで、瞼を動かすことも、もしかしたら忘れていたのかもわからない。
「何つーの? ふっきれた? っていうか?」
「……それはまた、ずいぶんと立ち直りの早いことで」
心配して損をしましたと、漏れた呟きは心からの本音なのだろう。オレはえへんと胸を張った。
「立ち直りの早さには自信があるもので」
何せ今までの人生で、そう深く落ち込んだこともない。オレはポジティブに生きることに関しては天才的なのだ。
「それは良かった」
どこか無表情に頷いたキッドは、そうして、おもむろにパジャマのボタンを外し始めた。もう起きるのだろうか。起こしておいて何だか、キッドの起床時間には早すぎる。一番眩しいだろう真昼間なのだから。
「おい、キッド。起こして悪かったけどさ、まだ寝てた方が……」
「立ち直ったのでしたら、ついでに今日の分の食事を済ませてしまいましょう。また眩暈を起こしてもいけませんから」
露わになった首筋を晒して。
キッドは突然、そんなことを言うのだ。
「……はい?」
キッドは何をしているのだろう。見ているだけで寒そうだ。オレとは違い、寒さには強いらしいが、それだってこの時期に、そう素肌を晒しているだなんてバカげている。
「食事ですよ、快斗」
「……え、っと」
真っ白な首筋。兄の首元を、こんなにも凝視したことがあっただろうか。これが女の子相手であるなら、まだもう少し気分はいいのだが、なんて。
「立ち直ってくれたのは結構ですが、まさか私たちが必要とする食事について、忘れたとは言いませんよね?」
「……割と、忘れてた、かも」
そうだ。これが何より肝心なのではないか。
自分のバカさにほとほと嫌気が差す。でも、だって、言い訳ではないが、こんなことはあまりにも現実離れしすぎている。兄の食事風景を度々見ていたのならともかく、キッドはそうした面を、ことごとくオレに隠してくれていたのだから。
いや、何も、キッドを責めるつもりはないのだが。
「さあ、快斗。ちゃんと食事をして下さい」
「して下さいって……言われても……」
こんなベッドの上で。兄を相手に。皿に乗ってもいなければ、美味そうな匂いを漂わせているわけでもない。そもそもどうやって取れと。普通は見本の一つぐらい見せてくれるものではないのか。どうやって用意するのかはさておいて。
「……か、噛みつくの?」
「噛みついて、吸えばいいんですよ。簡単なことでしょう」
「いや、そんな……え、だって、オレの歯とか、おまえみたく尖ってるわけじゃないし……」
人よりは目立つ八重歯だが、吸血鬼のそれとは比べ物にもならない。今気付いたが、父の血を引いているからこそ、オレの八重歯はやや人より大きなサイズなのだろうか。今まで全く考えたこともなかったが。
「尖ってなかろうが、噛みつけば血は出るものですよ。安心して下さい」
「うわあ」
何て安心できない台詞だろう。
オレがキッドに噛みつく。想像しただけでおかしいと言おうか、その想像すら上手くできない。人の肌に噛みつくという、その行為がまず可笑しい。噛みつくのは鶏肉とか、豚肉とか、牛肉とかだけにしたいのだ。
「……だって痛いじゃん」
「人に食べられている鶏や豚なんて、痛いどころの話ではないと思いますが?」
「それはそうだけど! いやそういうことじゃなくて……っ」
痛いだけで済むのなら、確かにマシな話なのかもしれない。けれど、ならそうかと頷けるものでもない。そういう話ではないのだ。
「あー、そもそも、それってどうなんだよ……オレがおまえに噛みつくって……だっておまえは、オレ一人じゃ足りないんだろ? ならオレだって……」
「私とあなたでは、必要とする血の量が違いますから。私はこれだけで生きているんですよ? でもあなたは、今まで通り人間の食事もとっているでしょう。そこで補えない成分を摂取するだけなんですから、私の血だけでも十分なはずですよ」
「あ、そうなの……いやでも、オレが飲んだ分おまえの血が足りなくなるじゃん! それはどうなんだよ! 結果的におまえの血が足りなくなるのなら、どうしたって済ませる話じゃ……」
「まあその分、私が外で飲んでくる血の量は増えるでしょうね」
さらりとキッドは言う。何でもないことのように。事実キッドの中では、もう片付いている話なのだろう。その割り切りがオレには少しばかり怖い。
「……それって」
外で襲われる人間が増えるということだ。もちろんキッドは、だれも殺すようなことはしないだろう。血を吸う前後の記憶を奪えば、相手は何も覚えてなんかいない。ほんの少し、貧血の症状は出るかもわからないが。
「そこについての議論は不毛ですよ、快斗。どうしたって私は血を飲む必要があるんですし、今のあなたが外に飲みに行くことなんて不可能でしょう? でしたら、私があなたに提供するしかない。他に選択肢など無いのですよ」
「……わかってる、けど」
オレは、だれかが育てそうして殺した、豚や鶏の肉を食べている。
キッドはだれも殺さない。ただ少し、その生き血をもらい、そうして記憶を奪っているだけだ。
そのどちらが悪いことなのかなんて、オレにはよくわからない。ただ、どうしてもやるせなさを感じてしまうのは、オレが人間だからで―――いや、人間だと信じて、今までを生きてきたからで。
つまりは、ただのオレの感傷だ。それをキッドにぶつけることは間違いだとわかっているから、口をつぐむしかない。そこを争っていては話は進まない。
「……せめてさ、ああいう真似は止めろよ。怪盗とか……そんな、警察まで巻き込んでさ。ああいうやり方は間違ってるよ」
今のオレに言える、それが精一杯だった。
「興奮状態でない人間に、暗示をかけるのが難しいことは前にも言いましたが……相手が私のことを考えている時には、特に術をかけやすいんですよ」
そんなことも、もちろんオレは知らない。ぱちくりと瞬きをするオレに、キッドは小さく微笑んだ。
「まあ、あなたにはわからないことでしょうけどね」
突き放されたような気分になる。わかりたいと願っても、どうしたって叶わない領域だ。
「……オレも、おまえみたいな技とか、使えるようにならねぇの?」
例えば、ハンググライダーも無しに空を飛んだりなんて。そんな真似ができれば、いつ乗っている飛行機が墜落したとしても安心だ。
「さあ。あなたはまだ、目覚めたばかりですからね。この段階では何とも」
軽い声音に、その可能性は低いんだなと一人で悟る。別にいいのだ、これ以上人間離れなどしたくはない。やせ我慢ではない。
「快斗」
促すように名前を呼ばれる。寒そうな首筋。美味しそうなどとは全く思えない。
「飲まないと、また貧血を起こしますよ」
そう言われても、噛みつくことを考えただけで、今にも貧血になりそうだ。出血に弱いわけではないが、自分がそれを引き起こすのだと思えば、それはあまりいい想像ではない。
首筋と、キッドの顔を交互に見る。オレはよほど困った顔か、あるいは情けない顔でもしていたのだろうか。キッドがやれやれとため息をもらすまでに、そう時間はかからなかった。
「……まったく。三歳の子供だって、自分で噛みついて血を飲むものですよ」
そんなことを言われても、オレにはわからないというのだ。
そう言い返してやろうかと思ったが、その前に、キッドがあんぐりと口を開けた。立派な八重歯が覗く。いや、牙が。
噛まれるのだろうかと、とっさにそんなことを思った。オレがいつまでもぐだぐだしているから、オレ自身が『見本』にさせられるのだろうかなんて。
けれど、現実は違った。キッドがオレに噛みつくはずがないのだ。
キッドが噛みついたのは、自身の、その右手首だった。
「な……っ」
ぶちっという、まるでゴムが切れる時のような音が聞こえたような気もしたが、あるいはそれは気の所為だったのかもしれない。瞬く間に、キッドの右手首からは、赤いものが流れだした。
「すするぐらいなら、あなたにもできるでしょう?」
昨日も確か、キッドは自身の血をオレに飲ませたのだ。
こんな風に、昨日もまた、手首に噛みついていたのだろうか。想像しようとしても、目の前の赤に、何もかもが塗り替えられていくようだった。日常ではまず目にしないその色が。
心が騒ぐのは、オレにとってこれは、決して食事などではないからだろう。人間は、いや、生き物は、血を流し過ぎると死んでしまうのだ。そうわかっているから。
「……キッド」
早く血を止めて欲しい。手当をしてほしい。
そう言いたいが言葉にならない。目が、逸らせない。
「快斗」
血の滴る右腕を、キッドは容赦なくオレの顔面へと突きつけた。流れた血は、肘へとつたって行く。そうしてから、シーツの上へと、真っ赤な染みを作った。直視できずに、思わずオレは目をつぶった。自分の部屋に帰りたいと思った。
「……キッド」
眩暈がする。でもそれは、決して血を飲まなかったからではない。兄が自身の腕に噛みついて、そうして、血をしたたらせるその腕を、オレの顔面へと突きつけているからだ。鉄さびにも似た匂いが、すぐそこからしているからだ。頭の奥がくらりとする。
「あなたは全く、本当に、手のかかる弟ですねぇ」
この上もなく呆れたように、そうしてどことなく嬉しそうに、そんな呟きを漏らすキッドの声が耳に届いた。小さな、決して下品ではない、それでも確かに何かをすする音。そう、何かを。
突然、後頭部を掴まれた。驚きに、目を開く暇もなかった。押しつけられる唇。それが唇だとすぐさまわかる程度には、オレには慣れ親しんだ温もりだったのだ。
「……んっ、んー……っ」
いつものキスと違うのは、舌が唇を割って入ってくることだ。同時に流れ込んでくる、さらりとした液体。口いっぱいに広がる錆臭さ。これが今の今まで、兄の身体の中を流れていたものなのかと、考えただけで吐きたくなる。
「んっ」
そうはさせまいと言うかのように、後頭部を押さえる手には力がこもる。息が苦しい。口の中にたまったそれを、飲みこまずにはいられなかった。飲みこむまで、離してはくれないのだろうとわかってもいた。
「―――」
ゆっくりと喉を、食道を、伝ってその血液が、流れて行くのはどこなのだろう。胃袋に到達したとして、一体どのように分解されるのか。オレの身体の変化に、内臓は戸惑っていないだろうか。涙目になりながら、そんなことをつらつらと考えた。
ようやく口が自由になる。思い切り息を吸い込んだが、同時にそれは、血の生臭さまでも吸い込むことになって、とたんに吐き気に襲われた。けれど吐けない。吐いてはいけない。
「……何だよ……っ」
こんな風に、何も無理やり、飲まさなくてもいいではないか。
オレにだって心の準備というものがあるのだ。男心はそれなりに繊細なのだからして。
「早く飲んでくれないと、私の血が無駄になるじゃないですか」
言いながら、キッドは自身の右腕にぺろりと舌を這わせている。兄ながら、何だかそうした姿が様になっているのだから嫌になる。首筋を晒したままだからそう思うのだろうか。
ぐいっと手の平で唇を拭えば、当然そこにも赤いものが付着して、何とも言えない気持ちになった。あぁもう、と頭を振って、後ろ向きにベッドへと倒れ込んだ。どうしようもない。
「ふっきれたと仰っていましたから、このぐらいのこと、余裕でこなしてくれるかと思っていたんですがねぇ?」
にこにこと笑うキッドの手首からは、もう血は流れていない。何か術を使ったのか、それとも血の止まりも早いのか。オレの身体とは勝手が違いすぎるのだ。
「……うるせぇ」
頭がいいだけにはとどまらず、この兄は性格だってすこぶるいいのだ。
腹立ち紛れに蹴飛ばしてやろうと右足を向ければ、難なくそれも受け止められてしまい、オレの腹立ちはますます増していく一方なのだった。
4.
朝はたらふくを食ってから学校に行き、退屈な授業を受けて、昼休みは購買やコンビニで買ったを食べつつ、午後は大体寝てすごす。例外は、体育の授業があった時ぐらいか。
部活には元々入ってはいない。マジックの練習が最優先だからだ。けれど運動は嫌いではないから、声がかかれば練習試合の助っ人ぐらいなら喜んで馳せ参じている。お礼に焼肉でも奢ってもらえればしめたものだ。
大体はまだ明るい内に学校を後にするから、大抵は友人達と寄り道をして帰る。買い食いをしたりゲーセンに寄ったりできるのも、小遣いを貰った月始めの頃ばかりで、あとは大抵その辺をぶらぶらするのが精一杯だ。そろそろバイトの一つも始めようかと思いつつ、何となくそのきっかけもないまま今に至る。
何とも気楽な高校生活だ。それでも来年の今頃になれば、さすがに受験ムードに包まれることだろう。オレ程の頭脳があれば、もちろん受験など造作もないことなわけだが、周りはそうではない。一緒につるんでくれる友達がいなければつまらない。
今だけの自由なのだと思えば、少しは感慨深くもなる。だからというわけではないが、オレはオレなりに高校生活を満喫しているのだった。
ただそんな、オレの順風満帆な生活に、新たに加わった『それ』にばかりは、どうにも馴染めない。オレはそれなりに適応力にすぐれた男だと思うのだが、人間には限界というものがあるのだ。言うなれば、生理的な嫌悪ばかりは、本人の意思ではどうすることもできないと言おうか。
「……ううーっ」
口の中いっぱいに広がった鉄錆の味に、思い切り顔を顰めた。慌てて麦茶を流し込む。本当ならば、思い切り水でゆすいで吐きだしたいぐらいなのだが、それはさすがに失礼だろうと思ったのだ。何って、オレの『食事元』に。
「……仕方のないこととは思いつつも、そこまで嫌そうな顔をされると、さすがに心外ですね」
毎度のこととは言え―――いや、毎度のことだからだろうか。キッドはため息をつき、傷口に舌を這わせる。
「少しは慣れたらどうなんですか、快斗」
「……オレだって慣れられるものなら慣れてぇよ」
「これから一生必要とする食事なんですよ」
「だから、ンなことわかってるっつーの!」
とらなければならない食事なら、オレだって楽しんでとりたいのだ。毎回毎回、だれが鼻をつまみながらすすりたいと思うものだろうか。
「うあぁ……」
後味がしっかりと残るところが、また嫌なのだ。そういえば血の匂いというのも、一度嗅げば何とも鼻に残る匂いなのだった。匂いというのは何とも正直だ。
二杯目のお茶を飲むオレの横で、キッドは丁寧に自身の手首を舐めとっている。こいつのそうした吸血鬼らしい姿なんてのも、そういえばこうなって初めて目にしたものなんだなと気付く。おかしな気分だ。
「なあ、自分の血って美味しいの?」
ふと気になって尋ねる。唇の端に血をつけながら、キッドは何でもないことのように尋ねた。
「不味くはないですし、まぁ美味しいと言えないこともないですが、自分の血を飲んだところで、自給自足にもなりませんよ。外部の血を取り入れないことには意味がありませんから」
「いやそれはわかってるけど」
だって人間がいくら雑食だとは言っても、自分の肉を食べたりはしない。それに比べれば、何とも不思議な気がしたのだ。キッドはキレイに手首の血を舐めとっていくが、唇の端についたそれには気づかないらしい。
「キッド」
自分の唇の端をつんつんとつついて、兄にそれを教えてやる。
キッドは小さく目を見開き、すぐさまオレと距離を詰めてきた。って、おいおい。
「こら、何しようとしてんだよ!」
すかさず手の平を押し付けて距離をとったオレに、キッドは不服そうに返してきた。
「何って、キスをおねだりされたかと……」
「ばっ、だれがそんなのねだるかよっ! おまえの口に血が付いてたから、教えてやったんじゃねーか……っ!」
「あぁ、何ですか。がっかりさせないで下さい」
何を言っているのだ、こいつは。
心底から呆れるオレの前で、ぺろりとキッドは唇の端を舌で舐めとる。もうこいつが何をつけていようが、金輪際教えてやるものかとオレは心に誓う。油断も隙もないとはこのことだ。
「まあ、あなたがキレイに血を舐めとってくれれば、私が自分で自分の血を舐める必要もないんですがね?」
何とかがんばって、日に三口程飲んでいる弟に、そういうことを言うのだろうか。
「この調子では、私の首筋に噛みつけるのは、一体いつになるんでしょうねぇ」
「うるせぇよ」
オレにとっての最終目標はそこなのだろうか。客観的に見ればそうなのかもわからないが、オレにとっては現状をこなすのが一杯一杯で、到底そこまで気持ちはいかないのだ。
でも何とか、自分で血をすする程度のことは、この数日でできるようになっているのだ。それでもキッドが自身の手首に噛みつき、ほら吸えさあ吸えと迫ってきた結果のことではあるのだが。そこは今後の課題と言えよう。
「……おまえは身体、大丈夫なのかよ」
血を見る度に、どうにも不安になって仕方ない。怪我をしたらすぐ手当をするようにと、そう教わって育てられたのだから当然だろう。
「そういう台詞は、もう少し立派に血を飲むようになってから、言ってもらいたいものですね」
「何だよ……っ!」
人が心配しているというのにこの態度だ。
「冗談ですよ。この程度の量では、どういうということもありませんよ。私としては、あなたにはぜひとももう少し飲んでもらいたいところなんですけどね」
「だっておまえ、オレが飲んだだけ、よそで飲む量が増えて……」
言いかけたオレの唇に、長い人差し指が添えられる。巧みにトランプを操る指先だ。元々の動体視力がオレよりもずっと優れているとか、そんなこととは関係なしに、ただその指先の動きは美しいと思う。まるで父親のように。
「それは言っても仕方のない話でしょう、快斗」
そんなことはわかっている。解決策を見いだせないのに、その問題だけを提起しても仕方が無い話だというのだ。オレは大人しく黙るしかない。
「今日もいい子に飲んだご褒美ですよ」
どこからともなく、キッドがそう言って取り出したのはチョコレートだ。それもコンビニで買うような板チョコではなく、いかにも高そうなトリュフチョコときた。
「……いい子ってさあ」
「嫌なものを我慢して飲むのは、いい子のすることでしょう?」
「いや間違っちゃねぇけど、オレの年を考えてほしいっつーか……」
「おや、ならこのチョコレートはいりませんか?」
「いります」
それとこれとは話が別だ。
箱ごと渡してくれるのかと思いきや、キッドは満足そうにその一粒を摘まみ、オレの口元へと運んでくる。だからどうしてこいつはそんなにもオレの世話を焼きたがるのだろうかと、もう何百回目かわからない諦めを覚えつつ、オレはこれまた大人しく唇を開いた。
口の中にころんと入れられたトリュフを、舌でころころと転がす。このほろ苦さがたまらない。一度噛めば、とたんに濃厚な味が舌の上いっぱいに広がっていく。
「んまーっ」
「口直しには、味の濃いものがいいでしょう? 好物ならなおさら」
他でもない自分の血を、不味い不味い言いながら飲まれた後だというのに、よくも笑顔でそんなことが言えるものだ。
親鳥よろしく、キッドは適度なタイミングで、オレの口にトリュフチョコを運んでくる。そうなると、オレは雛鳥か。高校生にもなって、雛も何も無いとは思うのだが。
半数以上食べた頃には、後味の悪さなんて、もうどこにも残ってはいなかった。
「……おまえさぁ」
「はい?」
「そんなに品行方正ならさ、普通に学校ぐらい行けるのにな」
キッドが学校に通わないのは当たり前。それはキッドが吸血鬼だからだ。幼い頃に聞かされたそれを、オレはこの年まで信じていた。
でもオレは、こうしてキッドの血を飲むようになった今も、変わらず学校には通っている。ケースバイケースと言おうか、その辺りは何ともいい加減なものではないのかと思っている。
漫画や映画で見るような吸血鬼とは、根本からして違うのだ。日の光りを浴びても灰になるようなことはないし、ニンニク料理だって平気で作る。オレはもちろん、そのニンニク料理を喜んで食べる。
「今の年齢になればそうでしょうが、やはり幼い頃は難しいものですよ。空腹を覚えた時に、隣の席の子に噛みつかないとは限りませんからね」
「でもおまえ、オレに噛みついたことなんてねぇだろ」
「それは、千影さんや盗一が、絶えず見ていてくれたからですよ。私が空腹になる前に、すぐさま食事を与えてくれましたから」
「……オレは一度も、おまえの食事姿なんて見てなかったけど」
「あなたはよく遊んでは、よく寝る子でしたから」
それはそうかもしれないが、だからと言ってさすがに無理がないだろうか。一緒に暮らしているというのに。
「まあ、それ以上に二人が、あなたには見せないよう気を配っていましたからね。物心つかないあなたが、外で下手なことを話しても困りますから」
その言葉には納得せざるを得ない。オレは昔からそれはもう利発な子供だったが、それにしたって物心がつかなければ仕方ない。兄が自分とは違う生き物だと理解したのも、一体いつの頃だったろうか。
「なら、中学か高校からでもさ、一緒に通えりゃ良かったのにな」
その頃にはもう、母も平気で家を空けていたような気がする。オレが一度も噛まれていないのが、こいつが安全だという何よりの証拠だろう。
「おや、快斗はそんなに私と学校に通いたかったんですか? それは知りませんでした」
「ばっ、ちげーよ! ブラコンじゃねぇんだから、ンなこと思うわけねーだろ!」
「そうとは知らず、寂しい思いをさせてしまいましたね。あなたの希望を叶えることはできませんが、これからはもっとあなたと一緒に過ごせるよう努めますから……」
「だからちげーって言ってんだろ! おまえが日中一人でいるから、退屈なんじゃねぇかと思っただけのことで!」
「まあ日中は寝てるんですけどね」
「ああああもうっ」
どうせキッドはからかっているのだ。その証拠に、くすくすと笑うその顔は実に楽しげだ。コンニャロウと心の中だけで呟いて、オレは残ったトリュフをばくばくと食べてやった。
「そんなに慌てて食べなくても、だれも取りませんよ」
うるせえ。
その口を閉じてやろうと、オレは最後の一粒を、キッドの口へと突っ込んでやった。一瞬驚いたような顔をしながらも、キッドはもぐもぐと口を動かす。
「……どうしたんですか」
「噛まれるの我慢してるご褒美」
と、いうことにしておこう。パウダーのついた指先を、オレはぺろっと舐めとることを忘れなかった。
*
吸血鬼の因子が目覚めたとは言っても、何か特別な力が使えるようになるわけでもなければ、腕力や脚力が増したわけでもない。それなのにあちらの『食事』だけは増えるというのだから、こんなに損な話もないというのだ。
けれど、だれにも文句など言えない。逆に、この程度で済んで良かったと思うべきなのだろう。学校にも今まで通り通えるし、体調だってすこぶる良い。
そう、正直キッドに話を聞いた後も、そんなバカなと思う気持ちは少しばかりあったのだが、じっさいに『食事』をとるようになってからというもの、オレは絶好調なのだ。眩暈や息切れなんて何のその。今なら校庭だって、何十周と走れそうだ。やはりオレの身体は、新たな食事を必要とするよう生まれ変わってしまったのだろう。認める他なかった。
「快斗、さっきはすごかったね。一位でゴールしたの見たよ」
「うんほんと、黒羽君すごかったね。見てた女子みんなそう言ってたよ」
「おう、あれぐらい朝飯前よ」
どんっと胸を叩いてオレは答える。今日の体育は、男子はマラソンだったのが、オレは二位にかなりの差をつけて、トップでゴールテープを切ったのだ。まあ実際にゴールテープなどは無いから、その辺りはオレの妄想なのだが。
「ま、オレぐらい体力にも知力にも恵まれちまうと、多少のハンデでもつけてやらなきゃ、他の奴らに申し訳ねぇって感じだよなー」
「もう、ちょっと褒めると、すーぐ快斗は調子乗るんだから!」
ばんっと幼馴染は、平手でオレの背中を叩いてくる。こいつは相変わらず、手加減という言葉を知らないらしい。
「ンだよ、この馬鹿力、いてぇんだよ!」
「快斗が調子に乗ってばっかいるから悪いんでしょ。快斗なんて、ただの体力バカじゃない!」
「だれが体力バカだよ、だれが!」
オレは運動だけでなく、頭脳だって冴えているのだ。あれだけ授業中に惰眠をむさぼっていても、テストで満点を取れているのがその証拠だろう。あるいは、オレは睡眠学習の天才なのかもしれない。寝ている間だって無駄にはしないのだ。
「だれかわかんないのなら、トイレ行って鏡でも見てきたらいいんじゃなーい?」
「オメーこそ、ちょっとは鏡見て、自分の幼児体型自覚した方がいいんじゃねぇの? 高二にもなってそのぺったんこはねぇだろ、ぺったんこは」
「あーっ、そういうの、セクハラっていうんだからね! もう、快斗ってばさいってーっ!」
言うと共に、再びばしばしと背中を叩かれる。冗談ではなく本気で痛いのだ。こいつのは胸の無さの前に、自分の馬鹿力を自覚した方がいい。
いっそ鳩でも出して驚かしてやるかと、オレが痛みに耐えかねながらそう思っていた頃、ようやく助け舟が入ってきた。
「もう、青子。黒羽君が痛がってるよ」
「いいのよ、快斗なんて。丈夫なだけが取り柄なんだから」
「そんなこと言って。この間黒羽君が体調崩してた時には、一番心配してたくせに」
この幼馴染が何だかんだ、オレのことを心配してくれていることは知っている。オレが休んでいる日には、しっかりノートを取っていてくれたぐらいなのだから。
だが、それを他のクラスメイトに言われると、何だか調子が狂う。調子が狂うと言うか、照れ臭いと言おうか、尻の辺りがむずむずするというか。
「そりゃ、だって快斗が体調崩すなんて滅多にないから……快斗が具合悪くするぐらいだもん。きっとものすごい、未知の病原菌ぐらいしかないなって思って」
「もー、青子は素直じゃないんだからー」
友人のからかいに、幼馴染は小さく怒ったように、それ以上に照れ臭そうに、「止めてよもう!」と声を上げる。オレはそれを、まるで見ていないように視線を逸らして、ちょっと口笛なんかを吹いたりする。
「心配してるなら心配してるって、素直に言えばいいのに。黒羽君が元気になって嬉しいんでしょ」
「止めてよね、桃子!」
顔を赤くして叫んだ幼馴染は、次の瞬間に、何かを見つけたかのようにぱっと顔を上げた。
「あっ、紅子ちゃん! ねぇねぇ、さっきの体育、快斗すごかったよね。紅子ちゃん知ってる?」
話題を逸らそうとしているのが、見え見えな態度だった。オレとクラスメイトは、思わず顔を見合わせて肩をすくめる。これでも本人は、精一杯のさりげなさを装っているのだからすごいところだ。
「さっきの体育? 残念ながら知らないわね」
「あのねえ、快斗すごかったんだよ! 男子はマラソンだったんだけど、ぶっちぎりの一位でゴールしててね!」
「あら、そう?」
クラスメイトの(主に男子生徒の)視線がこちらに向いている気がするのは、恐らく気の所為ではないのだろう。
容姿だけを見れば、確かにこのクラスメイト以上の美人なんて、そうは見当たらないのかもしれない。何と言うか、安っぽさが無い。今どきテレビをつければ幾らだって可愛い女の子を見ることはできるが、それとは全く雰囲気が違うのだ。
とは言っても、じゃあそんな美人なクラスメイトに、オレが夢中になるかと言えば、それはまた別の話というところで。
「そういえば黒羽君、最近少し体調を崩していたみたいだったけど、もうすっかり良くなったのね」
「……へ?」
長い黒髪が、少しばかり近くに寄っていた。笑顔もまた近い。
オレは総じて女の子が好きだ。どんな女の子も可愛い一面があると思う。だが、このクラスメイトだけはどうにも微妙なのだ。別に可愛くないとかそういうことではなく、何だろうか。あまりにも美人すぎるものだから、知らず知らずの内に距離を取ってしまうのだろうか。
「……あー、まぁな。ただの風邪だったし。今はもうすっかり」
「本当? 心配してたのよ」
にっこりと微笑む。その瞬間に、周囲からの視線が冷たくなったように感じるのは、お願いだから気の所為であって欲しい。オレは平和に高校生活を送りたいのだ。
「紅子ちゃんてば、快斗の心配なんてしなくていいよー! 丈夫だけが取り柄なんだから。もうピンピンしてるしね」
「オメーが言うか」
オレの呟きも聞こえなかったようで、幼馴染はにこにことクラスメイトに話しかけている。これだけの美人にも、全く臆せず話しかけられるのだから、ある意味でこいつは本当にすごいと思う。繊細さとは無縁な奴なのだ。
チャイムが鳴るまで、結局オレの机を囲んで、幼馴染達はおしゃべりを続けていた。そろそろ腹が減ったが、昼休みまではあと一限あるのだ。この何て長いことか。
昼休みになったら何を食おう。とりあえず授業が終わると同時に購買にダッシュだ。脳内では、オレはもうクラウチングスタートを切ろうとしていたところだったが、残念ながらこのチャイムは、次の授業の始まりを告げているのだった。
ほぼ同時に扉が開き、現国の教師が入ってくる。生徒たちは散り散りに、自分の席へと戻って行く。
「……でも本当、体調が戻って良かったわね」
黒髪が風になびいた瞬間、何とも言えない香りが漂った。
「まるで生まれ変わったみたい」
「……は」
不思議な香りと、そうして意味深な言葉を残して、クラスメイトは自身の席へと戻って行った。呼びとめることなどできない。授業が始まるからでもあったし、多分そうでなくとも、呼びとめることなどできなかっただろう。
生まれ変わったみたい、だなんて。
多分深い意味はない。ただの冗談めいた言葉だ。そうわかっていても、そんな言葉が胸に引っかかるのは、ある意味で、オレが確かに生まれ変わったからなのだろうか、なんて。
「……なあなあ」
前の席の幼馴染の背中を、シャーペンの頭でつんつんと突く。
「……何よ」
迷惑そうに幼馴染は振り返る。教師は板書に忙しく、しばらくは振り返りそうにない。
「小泉ってさ、何か占いとかしてんだっけ」
「紅子ちゃん? そういう話も聞いたことあるけど。すっごいよく当たるって」
「マジかよ」
「でも滅多にしてくれないし、よくはわからないけど。紅子ちゃんて、あんまり自分のことしゃべらないしね」
そんな相手を、それでも平気で『紅子ちゃん』なんて呼べるのだから、全くこいつは大した奴だと思うのだ。
「どしたの。快斗、紅子ちゃんのこと気になるの?」
「そういうわけじゃねぇけど」
タロットだか何だかは知らないが、まぁそうしたことをやっているからこそ、ぽろりと零れ出た言葉なのだろう。
「何か変わった雰囲気だなと思ってさ」
「紅子ちゃんて、謎めいてるとこがまた素敵だよねぇ」
うっとりしたように呟く。同じ女としてその反応はどうなのだろう。対抗心を燃やせとは言わないが、何か思うところはないのだろうか。
「オメーもちょっとは見習えよな」
「どういう意味よっ」
幼馴染がぎろりと睨みつけてきたところで、教師がくるりと振り返った。当然オレ達は、すぐさまノートに向き直る。今の今まで、真剣に黒板を写してましたという風で。
幸いにもばれることはなかった。教室は静かだ。腹の虫が鳴らないことを祈りながら、今度こそ本当に、オレは黒板を写し出した。少しオレは、過敏になっているのかもしれない。
多少謎めいているクラスメイトがいようが、それでもオレはあくまでも、平和な高校生活を送っているのだ。
「げっ」
だからこそ、目立つ行動は控えたい。そう思っているというのに、どうしてこう次から次へと、オレの生活を脅かす存在がやって来るというのだろうか。
「お疲れ様です、快斗」
「……うわああああっ!」
叫び声の一つや二つ上げてしまうのも、それは無理のないことだろう。慌てて駆け寄ったオレにも、キッドが笑顔を崩さない。いつも通りの眼鏡姿で、車にもたれかかっていた。
「何してんのっ? 何してんのここでっ!? 何してくれるんだよもう……っ!」
「何をしてって、見ての通り、あなたを迎えに来ただけですよ」
「だからそのことについてオレは言ってるんだけど……っ!」
校門のすぐ横に、車をつけるなんて、この上もなく目立つ真似をしている癖に。こいつはいつも通りの姿なのだ。つまりは、オレと瓜二つの顔をそのまま晒してくれているわけで。
オレがキッドの胸元を掴み上げている間にも、オレ達の横を何人もの生徒が通り過ぎて行く。当然オレ達はその注目の的である。
「もういいから早く車に入れって! 早く! 今すぐに! 迅速かつ速やかにっ!」
「何をそんなに慌てているんですか」
目を見開いてキッドは言う。一体どの口がそんなことを言うのだろう。できることなら殴ってやりたい。後が怖いからできないが。
「とにかくいいから……っ!」
「快斗、どうしたの?」
「……っ」
もっとも聞きたくなかった声が、後ろから真っ直ぐに飛んできた。
このタイミングの悪さはどういうことだろうと思ったが、そもそも同じ頃に教室を出てきたのだ。こうなることも当然だった。
「……い、いや、その、これは」
一体どう言い訳をすればいいのか。
これが他のクラスメイトなら、それこそ普通に兄だと言えば済むのだが。相手が幼馴染となるとそうはいかない。オレの表向きの家族構成を、こいつはもちろん知っているからだ。つまり戸籍的にオレに兄はいないということを。
足音は近づいてくる。オレの脳がフル回転をしても、この場をやり過ごせる言い訳など出てはこなかった。オレとキッドの顔が瓜二つなのがいけない。同じ顔をしているから、適当な言い訳などできるわけもないのだ。従兄弟だなんて言い訳も、通用するわけないだろう。
「……あ、親戚の人?」
だというのに。
オレの真横に立った幼馴染は、そんな声をもらした。
「……へ?」
オレに兄弟はいないと知っているから、だからすぐさま親戚だと思ったのだろうか。それにしても、全く同じ顔をしている相手を? 身長だって同じだというのに? こいつはどれだけアホなのだ。
「いつも快斗がお世話になってます」
「あっ、いえ、こちらこそ!」
「今日はちょっと、近くまで来たので、ちょうどいいと思って迎えに来たんですよ」
ぺこりと頭を下げる幼馴染に、キッドはにこやかにそう話す。助手席の扉を開け、オレの肩をそっと押した。
「あ、快斗、また明日ね」
「お、おう」
よくわからないままに、オレは車に乗り込むしかなかった。キッドはすぐさま運転席へと回り、車は静かに走り出して行く。
「……どういうことだよ」
小さく尋ねたオレに、片手でハンドルを握りながら、くすっとキッドは笑って見せた。
「私が何の準備もせずに、あなたの高校を訪ねるとでも? ……きちんと術をかけているんですよ。あなた以外の学生には、四十も間近な、そうですね、叔父辺りにでも見えているはずですよ」
「はあっ!? 叔父って、術って……」
オレにはいつも通りのキッドにしか見えなかった。
オレには普段通りの姿で、オレ以外の人間にだけ術をかけるなんて、そんなことが可能なのだろうか。いや、可能だからこそ、さっきの幼馴染の反応だったのだと、言われてしまえばそれまでだが。
「あなたには言わずとも、その程度のことはわかるかと、そう思っていたんですけどねぇ」
「わかるかよそんなのっ!」
「それはそれは」
すみませんでしたとすぐさまキッドは謝ってきたが、その言葉はどう聞いても、真っ向な謝罪の言葉には聞こえなかった。オレがひねくれているからというわけではないだろう。
そもそもオレは、キッドが一体どんな術を使えるのか、どの程度のことができるのか、それすらろくに知らないのだ。教えてくれない張本人が、『その程度のことはわかるかと』なんて、全く酷い言い草もあったというものだ。
「怒らないで下さい、快斗」
思い切りそっぽを向いたオレに、キッドは今度はそんなことを言う。怒らせたくなかったら、オレを怒らせるような真似をするなと言うのだ、まったく。
「あなたを怒らせようと思ったわけではないんですよ。ただ先日、私も学校に通っていたら良かったのにと、そんなことを言っていましたから……」
確かに言ったが、それがどうして、突然学校に迎えに来る羽目になるのだろう。どこも理屈が通っていないではないか。一緒に学校に通うことと、突然車で迎えに来られることは、全く別だというのだ。それはもう、百八十度ぐらいには。
「快斗、すみませんでした」
そもそもは、こいつがメールの一通なり送ってくれれば。こうこうこういう術をかけて迎えに行くと、そう一言でも教えてくれれば。そうすれば済む話だったのだ。
どうせ面倒だったのだろう。几帳面なようでいて、こいつは変なところで手間を惜しむ奴だから。そんなところは、なるほどそっくりだと母親に言われるところでもあったりするのだけれど。
「……アイスでも食べて行きましょうか」
謝っても無駄とわかったら、今度は食べ物で釣る作戦か。オレも甘く見られたものだ。
小さな子供ではないのだ、キッドはオレをどれだけ単純な男だと思っているのだろう。この上もなくひやひやさせられたというのに、それがアイスの一つで機嫌を治すだなんて―――
「……チョコとイチゴのダブルで」
「どうぞお好きなだけ」
「じゃあテイクアウトも」
「ご自由に」
「……」
じゃあアイスケーキも、と言ってやろうかと思ったが、その返事なんてわかりきっている。そこまで子供染みた真似をするのも嫌で、オレはきゅっと唇を噛み締めた。アイスが食べれる嬉しさと、言いようのない悔しさが、胸の中を渦巻いていた。思春期の感情は複雑なのだ。
車はすいすいと車道を走って行く。先ほどの校門での光景を思い出す。オレの隣に座っているのは、紛れもなくオレと同い年の兄だというのに、だれもそれに気付かない。今更ながらにそれが不思議で、何とも言えない気持ちになった。どうしてだれも、こいつの存在に気付かないのだろう。まるで最初からいなかったみたいだ、なんて。
赤信号で車が止まった。オレはちらりと隣を見る。オレの視線に、こいつが気付かない瞬間なんてない。すぐさま視線は返ってきて、にこりとオレに微笑み返す。
その笑顔が憎たらしい。オレと同じ顔だとはわかっているのだけれど。
「……快斗、何ですか」
「別にー」
思い切り頬を摘まんでやれば、さすがのキッドも情けない顔になった。本当はもっとやってやりたかったが、信号が青になってしまったので手を離した。残念。
「……澄ました顔してんじゃねぇよ」
声に出せば、相手の耳に届かないはずはないと知っていたから。
オレはそれを、唇の動きだけで、そっと呟いた。