兄の部屋は、まだ幼い快斗にとっては格好の遊び場だ。
きちんと片付けられてはいるものの、至る所に転がるマジックアイテムや小難しい本の数々。隠してあるチョコレートから最新の音楽プレーヤーまで、何を見ても飽きることがない。
もちろん、勝手に入ってはいけないと母親からは言われているが、それでも誘惑には勝てない。ドアがほんの少し開いていたのをいいことに、この日も快斗は兄の部屋に忍び込んだ。
「あ、キッドの奴、またチョコレート食ってる」
机の上には、食べかけの板チョコが、可哀相にそのまま置き去りになっている。
大学生が羨ましい。快斗のように毎日おやつを出されることはないが、その分自分の好きなお菓子を、好きなだけ買うことができるのだ。快斗はまだ勝手に買い物をすることは許されていないし、そもそも月に貰える数百円のお小遣いは、漫画を買うと終わってしまう。
「食べかけってことは、食べるの飽きちゃったってことだよな。そんで、チョコはほっとくととけちゃうし、お菓子をそのままにしとくと蟻が入って来るって母さん言うし、うん」
けれど冷蔵庫は遠い。ここはもっと近い、そう、例えば自分の胃袋辺りにしまうのがベストというものだろう。
「えへへ」
一応廊下を確認したが、兄が戻ってくる気配はない。ぺりぺりっと包み紙を剥がし、快斗はあーんと大口を開けた。
「おいひい」
食べた痕が残っていたら、母親に叱られることは間違いない。すぐさま食べ終えると、手の甲でごしごしと口元を拭った。剥がした包み紙は、小さく丸めてゴミ箱の奥の方へと沈めておく。
「オレも大学生になったら、毎日いっぱいチョコ買って食べよう」
日替わりでチョコレートとアイスを食べることができたら、一体どれだけ幸せなことだろう。 束の間そんなことを考えながら、快斗は部屋の散策を再開した。他にもどこかにお菓子が隠されているかもしれない。気分はちょっとした宝探しだ。
「この前は、手作りのクッキーがあったんだよなあ」
一枚ぐらいならいいだろうと失敬したところ、そのクッキーは、何というか、とても個性的な味だった。甘い物なら何でも好きな快斗が、思わず顔を顰めてしまうぐらいには。
もちろんすぐさま兄にはばれたが、兄は「あれを食べたんですか?」と笑い、母親には「人が貰った物を勝手に食べたらダメでしょ!」と叱られた。二重の意味で、快斗にとっては苦い記憶なのだった。
「トラップもあるからな。そこには気を付けねぇと」
自分自身に言い聞かせる。もう何度か、そうしたトラップには引っかかっているのだ。兄の周りには、よほど菓子作りの下手な女の子が多いらしい。
がさごそと鞄の中を漁る。なぜか大量のポケットティッシュと、その下からトランプと造花の薔薇と、それからウサギのぬいぐるみが出てくる。つぶらな瞳が可愛らしくて、思わず頭をなでこなでこしてから、再度快斗は鞄に腕を突っ込んだ。
「ん?」
薄っぺらい、小さな物を掴んだ。
何だろうと腕を引き抜く。まじまじと見つめても、それはやはり、薄っぺらくて小さな物だった。快斗の手の平にすら収まるような、真四角なそれ。中身は一体何だろうか。
数秒悩んだ後、まあいいかと、快斗はとりあえずそれを開けてみることにした。もしかしたら何かマジックの道具だろうかと思えば、到底我慢などできるはずもなかった。
だが、取り出してみたそれを見ても、一体何なのかわからない。
「んー?」
この妙な形は何だろうか。
引っ張ってみると伸びる。水風船にも似ているが、風船であればどうしてこんな個包装が必要なのか。やはり、何かマジックに使う道具なのかもしれない。水を使うマジックだとか。
「どんなんだろ」
考えてもわからない。わからないとなれば、余計にむくむくと興味が沸く。
我慢などできるはずもなく、快斗はそれを握りしめたまま部屋を出た。階段を駆け降りる。リビングに飛び込めば、ソファに腰掛けながら鳩と戯れている兄の後ろ姿が見えた。
「お兄ちゃん」
「快斗? どうしました?」
「これなに?」
ぼすんと隣に腰掛けながら、握りしめていたそれを差し出した。
快斗の勢いに驚いたのか、鳩がぱたぱたと飛んで行く。瞬きをした後でもう一度兄の顔を見上げた。
「……どこでそれを」
ポーカーフェイスが崩れている。
ように思えたのだが、それは快斗の気の所為だろうか。
「お兄ちゃんの部屋」
「私の部屋?」
「あっ」
そうだ、勝手に部屋に入ってはいけないのだった。
兄からそう言われたことはないが、悪いことだというのはわかっているのだ。勝手に鞄を漁ることだって。
「え、えっと」
上手い言い訳も浮かばない。そもそも、今更何を言ったところでどうしようもない。
目を白黒とさせる快斗の手から、兄はそっと『それ』を抜き取っていった。怒っているようには見えない。快斗の兄は母親とは違って、滅多なことでは怒らないのだ。
「私の部屋で見つけたんですか?」
「……ごめんなさい」
「別に怒ってはいませんよ。よその男に貰ったなんて言われでもしたら、また話は別でしたけどね」
よその男。
どうしてそんなことを言うのだろうと不思議に思ったが、知らない人と話してはいけないと、学校でも言われているのだ。つまりはそういうことなのだろう。快斗の兄は母親とは違って、滅多なことでは怒らないが、時に母親以上に口うるさいのだ。
「なあなあ、これ何? 何に使うの? マジックに使う物?」
怒っていないとわかれば、好奇心がさらに強くなる。
兄は小さく笑って、快斗をわずかに引きよせた。膝がぴったりとくっつきあう。
「快斗は何だと思いますか?」
「わかんないから聞いてんだけど」
「わからないからと言って、人にすぐ教えを乞うのはよくないことですよ。マジックの種にしても、まずは自分の頭で考えることが大事だと、いつも盗一さんも言っているでしょう?」
「……そうだけど」
兄の言っていることは正しい。
正しいからこそ、返す言葉が見つからない。
兄のことは大好きだが、こんな時ばかりは悔しいと思う。好きなだけチョコレートを買えることだってそうだ。大人はいつだってずるい。
「……でも父さんは、いっつも海外に仕事に行く前に、弟の面倒をしっかり見なさいって、お兄ちゃんに言ってるよ」
「それはそうですね」
「だから、弟のわからないことは、ちゃんと教えるべきだと思わない?」
「そうきましたか」
弁が立つようになりましたねと、感心したように兄は言う。
弁が立つ、という言葉の意味はいまいちよくわからなかったが、多分褒められたのだろうと思って、快斗は「えへへ」と胸を張った。
「とは言え、説明するとなると、これがなかなかに難しいものなんですよねぇ」
「難しいの?」
「それはもう」
兄はこっくりと頷く。
国語だって算数だって、はたまた流行りのアイドルだって、兄は何でも知っている。
その兄が『難しい』と言うだなんて、一体どれほどの難題なのだろう。そのことに快斗は驚いた。今までにない反応なものだから。
「やっぱりマジックに使う物? だから説明するのは難しいってこと?」
「あぁ、マジックと言えばそうかもしれませんねぇ。何せ、わずかな間に物体が大きくなるわけですから」
「消失じゃなくて? おっきくなるの?」
「えぇ、大きく」
手にした小さなボールが、かぶせた布を取りはらった瞬間、サッカーボール程の大きさになるなんてものは、定番のマジックの内の一つだ。快斗も種を知っている。
けれど、だからこそ疑問に思った。あんな風船のような物を使って、何をどう大きくするというのだろうか。快斗の知っている種には、あんな物は使ってはいなかった。だからこその新作マジックなのか。
「あぁ、これを使って大きくするわけではありませんよ。大きくなった物に、これを使うんです」
快斗の表情を読んだかのように、兄は口を開く。
「大きくなった後に?」
しかし、ますます意味はわからない。大きくなれば、そこでマジックはお終いだろう。その後に、一体何をするというのか。そもそも、そんな大きな物が入るような物とは思えない。幾らゴム素材だからとはいえ。
「お兄ちゃん」
わかんないよ、と視線だけで訴えれば、それすら予想していたかのように兄はにっこりと微笑んだ。
「ここは実践が一番ですかね」
「実践? 見せてくれるの?」
「あなたの希望とあれば」
もちろん返事なんて決まっている。
こくこくと頷けば、兄は笑顔のままに腕を動かした。自身のベルトを外そうとする。このマジックにはベルトが必要なのかと、快斗はその様子をまじまじと見つめた。
「―――弟相手に何やってんのあんたはっ!」
「いたっ」
買い物袋を片手に下げた母親が、手にした回覧板で思い切り兄の頭を叩いていた。
いつの間に帰ってきていたのだろう。気付かなかった。それよりも快斗にとっては、どうして帰宅早々に兄を叩いているのかと、そちらの驚きの方がもちろん大きかった。
「小学生の弟相手に何やってんのよ!」
「……いえ、冗談ですよ、冗談。本当にやるわけないじゃないですか、ねぇ?」
「あんたの冗談は洒落にならないのよ!」
「そんな……。保健体育の一環だと思えば―――」
「……家から追い出されたいのかしらねええええ?」
「いだだだだっ」
ぎりぎりと頬を抓られる兄の姿を、快斗は目を見開きながら見つめるしかなかった。
解放された兄は、逃げるようにして自室へと向かってしまう。取り残された快斗は、つんつんと母親の服の端を引っ張った。
「何でお兄ちゃんのこと怒ったの?」
「あんたにはまだ教えなくていいことを、教えようとしたからよ」
「ふうん?」
何か危ないマジックだったのだろうか。
失敗すれば怪我をするような、そんなマジックの種は、まだ一つも教えてもらっていない。大人になるまで、そうしてマジックの腕前が上達するまで、それはお預けなのだ。そう父から言われている。
ベルトを使うようだったし、何か脱出系のマジックだったのかもしれない。そう考えれば兄がぶたれたのも納得だった。
「キッドもしょうがねえなあ」
キッチンに向かう母親の足音からしても、怒り具合はかなりなもののようだった。これは、兄の分の夕飯は無いと考えてもいいのかもしれない。
もしそうなったら、自分のおかずを少し分けてあげようと快斗は思う。可哀相に思ったからではない。先ほど、兄のチョコレートを食べてしまったことを思い出したからだ。食べた分は返さなければならない。
「……オレの好物じゃないといいなぁ」
例えばからあげだったりしたら、兄にあげることをだいぶ躊躇う。
サラダだけあげたとしたら、兄は喜ぶだろうかどうだろうか。悩む快斗の周りを、兄の銀鳩がぱたぱたと呑気に飛んで行った。