テスト明けだからと言って、少し羽目を外し過ぎてしまった。
とはいえ、何も酒を飲んだり女の子と良からぬことをしたわけではない。あくまでも男同士健全にゲームセンターではしゃぎ、ファミレスで腹を満たし、カラオケで熱唱の限りを尽くしただけだ。
その結果、さあ電車に乗って帰ろうと財布を開けば、そこはすっからかんになっていた。
「ううーん」
友人達とは、じゃあまた来週と言ってとっくのとうに別れてしまった。いつもは定期圏内で遊ぶばかりだから、すっかり油断をしていた。
「どうしたものか」
とはいえ、いくら駅前でうんうんと唸ったところで、取れる手段など限られている。
助けを求めるか、大人しく歩いて帰るかだ。
都心なのだし、最悪歩けない距離ではない、と思う。問題点としては、夜風が冷たいことと、もうだいぶ遅い時間であるというところか。のんたらちんたら歩いていれば、無事家に着いた頃には日付けが変わっていそうだ。明日は休みだからその点問題はないとはいえ、あまり歓迎できることでもない。
とはいえ、助けを求めようにも、こんな日に限って母もまた泊まりで留守にしている。そんなことはしょっちゅうだったが、何にせよタイミングの悪い話だった。自宅から車でなら、三十分もかからない距離だろうに。
「……んー、むむむ」
すぐ脇を、酔っ払いだろう赤い顔をしたサラリーマンが通り抜けて行く。
柱の影に立っていても、吹きつけて来る夜風は容赦なく体温を奪って行く。首をすくめながらに、快斗はぽちぽちと携帯をいじった。
『今何してる?』
久しぶりのメールだ。そもそも用事が無い限り、快斗からメールを送るようなことはない。
この時間だ、宵っ張りな兄はまだ起きているだろう。案の定、返信はすぐに返って来た。
『知り合いと飲んでます』
「うわぁ」
これまた最悪なタイミングだ。重なる時は重なるものである。
最後の頼みの綱までが虚しく切れてしまった。短く快斗は返信を送った。
『お邪魔しました』
家でのんびりしていると言われても、ここまで迎えに来てと頼むのは少々気が引けるというものだ。これで良かったのかもしれない。
そうとなれば覚悟を決めて歩くかと、ポケットにつっこもうとした携帯がこれまた震える。
『どうしたんですか?』
快斗から突然のメールだ、兄が不審に思うのも無理からぬことかもしれない。
『どうもしません』
お財布が空の上、携帯の充電まで切れてしまっては困る。手短に返信を済ませる。もうこれ以上続きませんようにと、祈ったその思いが通じたのか、メールはそこで終わった。
すぐさまかかってきたのは、今度は兄からの着信だった。
「うえー」
知り合いと飲んでいるのではないのか。いい加減弟のことなど放っておけばいいというのに。
かと言って無視もできない。快斗が出るまでしつこくかけ続けてくることは知っているし、そうなれば充電が減り続けていくだけだ。
「……もしもしー?」
『快斗、あなた今どこにいるんですか?』
「え、家」
ポーカーフェイスにはそれなりの自信がある。この場合はポーカーボイスか。
『家にいるのに、どうして電車の音が聞こえるんですか。うちは線路沿いにはありませんよ』
「あー」
いくら平静を装うが、周りの騒音まではどうにもできない。早く駅から離れるべきだったと思っても、駅の周辺なんてどこもかしこも騒がしいものだ。大して変わりはなかったかもしれない。
『こんな時間に、どこをほっつき歩いているんですか。迎えに行きますからじっとしていなさい』
「え、だって知り合いと飲んでるって」
『もう切り上げました』
「はやっ」
快斗が最初にメールを送ってから、ものの数分しか経っていない。
『元々切り上げるところだったんですよ……で、どこにいるんですか』
こうなれば、何と言っても兄が引き下がらないことはわかっている。
そもそも最初にメールをしたのだって、迎えに来てと頼むためだったのだ。望むべくしてなった結果だというのに、この居心地の悪さは何だろうか。
『快斗』
滅多に聞くことのない、低い兄の声だった。電話越しだからこそ、余計にそう思うのかもしれない。
大人しく駅名を告げれば、「わかりました」と短く声は返ってくる。
『近くになったらまた連絡を入れますから、どこか温かい所で待っていて下さい』
「おう」
『変な人に付いていったらダメですよ』
「ガキじゃねえんだから」
とはいえ、財布が空になるまで遊びつくしてしまうだなんて、それこそ子供のやることだろう。
そう思えば少しばかり気落ちした。迎えに来た兄に何と言われるだろうかと、考えればそれもなおさらのことだった。
駅前のコンビニで時間をつぶしていれば、ロータリーに着いたとの連絡が入った。
読みかけの雑誌を置き、足早にコンビニを後にする。タクシーの列に続いて、見慣れたシルバーのボルボに目が止まった。まさかと思いながらに小走りに駆けだす。
フロントガラス越しに、これまた見慣れた顔を見つける。助手席のドアのロックが開いていることはわかっていた。
「ご……」
「こんばんは」
「……こんばんは」
出鼻をくじかれるとは、こうしたことを指すのだろうか。
早々に謝ってしまえばいいと思っていたのに、それも先手を切られてしまえばどうにもならない。おずおずと助手席に座り、おずおずとシートベルトを締めた。車内には煙草の匂いが残っている。
車はすぐさま、ロータリーを抜け駅前を後にした。見知らぬ通りを走って行くが、快斗はそんな窓の外の景色を、黙って見ていることしかできない。
高速に乗るのかとも思ったが、景色はずっと一般道のそれだった。兄の家に向かっているのだろうと、気付いたのはその頃だ。
「今日は私の家に泊まってもらいますよ」
ぴったりのタイミングで、横から声が飛んでくる。
「家まで行くのはさすがに遠いですからね」
「おまえの家に行くのも、そう時間は変わらなくねぇ?」
「高速を使えばの話でしょう」
「あ、そっか」
小さく納得する。時間はさして変わらないだろうと思ったが、同じ一般道で行くとなれば倍の時間がかかるだろう。まさかここで、いや自宅に連れて行ってくれなんて、そんな我儘など言えるわけもない。元々そんなつもりもなかった。
「お邪魔します」
「歓迎しますよ」
言われ慣れている台詞。けれど常と違うぴりぴりとした雰囲気を感じる。快斗のただの被害妄想か、それとも。
「……飲んでんのに運転して平気なの?」
「だれが飲んでるですって?」
心外だと言わんばかりの眼差しに、快斗は「あれ?」と首を傾げた。
「だって、さっき知り合いと飲んでるって……」
「あぁ、飲んでるとは言っても私は普通にお茶ですよ。車があるんですから飲めるわけないでしょう」
「あー、なんだ」
てっきり飲酒運転かと思ったが、変なところで生真面目な兄のことだ。そんな真似をするわけがなかったのだ。それも自分を乗せてだなんて。
「あの、店出るの急かしちゃったみたいでごめん」
「言ったでしょう、出るところだったと……私としては、もっと別のところを気にしてほしいんですがね」
ぴりぴりとした肌に痛い雰囲気の原因に、快斗はやっと気付いた。兄の目だ。口元には小さな笑みが浮かんでいるというのに、その目はちっとも笑っていない。口元とのアンバランスさが、なおのこと恐ろしい雰囲気を醸し出しているのだ。
「帰れなくなる程に遊び更けるだなんて、どうかしていますよ。私と連絡が取れなかったらどうするつもりだったんですか」
「……うー」
事実だからこそ何も言い返せない。さすがは兄と言うべきか、快斗が何のために連絡を入れたのかなんて、状況を考えればすぐさまわかってしまうのだろう。日頃は快斗の方から意味のない連絡を入れることなどないからなおさらに。
「今どき電車通学をしている小学生だって、財布の中の残金ぐらいは確認するものですよ。それをあなたは何ですか? 高校生にもなって情けない」
「あ、でも小学生の弟がいる友達に聞いたけど、財布に念のためにって金入れとくと買い食いしちゃうから、スイカにだけ入れておくようにしてるってこの間」
「快斗」
「……はい」
言い訳をするつもりはないのだが、ついつい口が滑ってしまう。
「私が言いたいのは、ちゃんと財布の中身を確認しなさいということですよ。本当に、私が迎えに来れなかったらどうやって帰るつもりだったんですか?」
「あー、歩いて帰ろうかなぁって……」
「歩いて? こんな時間に? バカじゃないですか、あなたは。家に着くころにはもう日付けだって変わっているでしょう。何かあったらどうするつもりなんですか」
「いや何かあったらって、女じゃねぇんだし別にそのぐらい……」
「今は男だって何があるかわからない時代でしょう。あなたはもう少し危機感を持ちなさい」
ぴしゃりと言い返される。思わず快斗は肩をすくめた。
重ねて言うが、言い訳をするつもりもしたいと思っているわけでもないのだ。ただ性格なのか、ついつい反射的に口を開かずにはいられない。けれどこれ以上は、本当に黙っていた方がいいのだろうなと嫌でもわかる。
これだから、兄に連絡などしたくはなかったのだ。母も母で口うるさいが、同じうるささなら、まだ母の方がマシだと思える。心配されていることはわかっているから、下手に反抗もできない。ただただ居心地の悪さを味わうしかないのだ。
自分が悪いことなどわかっている。わかっているからこそ、余計に逃げ場などどこにもない。気付けばそっぽを向くようにして、窓の外を睨みつけていた。見慣れない風景だった。
「お腹は?」
「……へ?」
赤信号で車が止まったタイミングで、横から声が飛んできた。
「お腹は空いてませんか?」
「……あ、ファミレスで食ったから平気」
とは言ったものの、意識をすれば軽く小腹が空いて来たような気もした。ファミレスで腹いっぱい食べたのは確かだが、その後カラオケではしゃいだのがまずかったのだろう。
「帰る前に、コンビニにでも寄りましょうか。私も何か軽く摘まみたい気分なので」
こんな時でも兄は甘い。母親との大きな違いだ。
「……怒ってねぇの?」
「男の子はやんちゃなぐらいでちょうどいいですからね」
元々怒っていませんよと、少し目元を和らげた兄が言う。まるで親のような台詞だ。快斗が幼い頃に父親は亡くなっているから、そうした気持ちももしかしたらあるのかもしれない。
「どんな無茶をしても、ちゃんと私に連絡をくれるのであれば、そう怒ったりはしませんよ。……そのまま本当に歩いて帰ったりなどしたら、どうなるかはわかりませんけどね」
にっこりと微笑んで言われた、その言葉は今日一番恐ろしいものだった。日頃温厚な人程怒ると怖いとはよく聞くが、それをそのまま現したような奴だと弟ながらに思うのだ。その凄味を帯びた笑顔からしても。
「何か困ったことがあったら、すぐ私に連絡するように。いいですね?」
「いつもそうしてんじゃん」
悔しいが、けれどまだ高校生の快斗には、どうしようもないことというのは多い。例えば今日のように持ち金がなくなった時だって、ちょっとコンビニで下ろせるカードすら、持ってはいないのだから。
「これからも、ということですよ。私はついあなたに関しては口うるさくなってしまうので、少し鬱陶しがられている場面もあるかとは思いますが……」
ばれていたのか。
それはそれで快斗の立ち場が無い。こうしてわざわざ迎えにまで来てくれる兄のことを鬱陶しがるだなんて、それはとんでもない性悪のように思えたからだ。
「でも、それだけ心配なんですよ。一緒に暮らしているわけでもないですし、あなたはいつだって無茶ばかりするでしょう」
「無茶なんてしてねぇよ」
「こんな時間に、高校生が一人で歩いて帰ろうとするなんて、それだけで十分無茶というものですよ」
そうだろうか。やはり兄は少し過保護に思えてならない。けれど水かけ論にしかならないこともわかっている。いや、この場合はどう見ても快斗が不利であるから、水かけ論にもならないだろうか。
「……ごめんなさい」
結局のところ、自分が悪いことはわかっているのだ。
やっとその言葉を口に出せたとたん、すとんと何かが落ちる気がした。喉につっかえていた言葉を、ようやく吐きだせた気分だった。
「ごめん、キッド。ごめんなさい」
「怒っているわけじゃないですから、いいですよ。反省はしてほしいですけどね」
信号は青になったが、まだ前の車がつかえている。小さなエンジン音が響く中で、伸びたキッドの腕が、ぽんぽんと快斗の頭を撫ぜた。子供扱いだが、不思議と嫌にはならない。
「明日が休みなら、お仕置きと称して、一日中あなたを連れ回すんですけどねぇ」
その口調からして、明日は仕事なのだろう。マジシャンの仕事は、カレンダーに左右されるものではないのだ。むしろ人が休みの時こそ稼ぎ時というものだ。
どちらにしろ、キッドに連れ回されてもそれはお仕置きにはならない。ただ甘やかすだけなのだからと、思わず呆れて快斗は苦笑を浮かべた。
翌日、快斗が目を覚ました時には、もう兄は仕事に出ていた。
机の上にはサンドイッチと、「無駄遣いをしないように」という書き置きと共に五千円札が置かれており、ありがたくサンドイッチ共々ちょうだいしながら、快斗は心の底から思ったのだ。
―――結局、甘いことには変わりがないようだ。