扉を開けた瞬間に、鼻についたその匂いに黒羽は思い切り顔をしかめた。
「……うえっ」
 空気が悪い、なんてものではない。もう一体何日換気をしていないというのか。
 そろそろ肌寒い日も増えてきたこの季節、確かにそう毎日換気をせずとも済むのかもしれないが、それは部屋に何の匂いも煙も立ち込めていない場合の話だ。煙い。煙すぎる。
 多少は匂いに慣れている自分ですらそう思うのだから、禁煙家にとってはたまったものではないだろう。逆に愛煙家はこの匂いを愛しく思うのだろうか。だとしたら鼻がひんまがっているのではないかと黒羽は思う。幸いにも数週間ぶりに顔を見た恋人の鼻は、黒羽の記憶にあるままの形を保っているようではあったが。
「おまえなー。一体どんだけ部屋にこもりっぱなしなんだよ、あぁ? 少しは身体のことも考えろって言ってんだろうがよ」
 本当ならば、帰宅した早々に小言なんて言いたくないのだ。
 けれど言いたくなくても、自然と口から零れてしまうような相手だった。元来自分がそう説教がましい性質ではないというのにだ。全く工藤新一という男は色々な意味で恐ろしい男だった。
「おいこら。聞いてんのかよ」
 床に散らばっていた紙束を、踏まないように気を付けながら歩みを進め、肩越しに机の上をひょいと覗きこんだ。案の定、置かれた灰皿は吸殻でいっぱいになっており、今にも崩れそうな有様だった。むしろ崩れていないことに感心する。
「ったく、コーヒー入れるついでに、吸殻ぐらい捨てろっつーの」
「……あ? 黒羽?」
 背後から腕を伸ばし、灰皿をひょいっと手に取れば、ようやくパソコンの虫だった部屋の主が声を上げた。わかってはいたが、ここまで声をかけても気づかないというのは本当にすごい。感嘆に値すべき集中力と言えるのだろう。
「はいはい、黒羽ですよー。あなたの大事な大事な恋人の黒羽さんですよー」
 近くに落ちていたコンビニのビニール袋に、とりあえず吸殻を入れる。空になった灰皿を再び机の上に戻したが、どうせまたすぐにいっぱいになってしまうのだろう。普段の本数はそこまで多いわけではないのだが、一度捜査につまるとこうなのだ。ある意味でわかりやすい。
「何だ、帰ってたのか、お前」
「今さっきな。普通に車とめて、普通に玄関のドア開けて、普通に廊下歩いて帰って来たぞオレは。まあ仕事に夢中になってるどっかのだれかさんは、全く気づいてなかったようですけど?」
「……悪かったな」
 舌打ちをもらしそうな声だった。
 まったくもって、声音とその内容が一致していない。これほど心のこもらない謝罪があるだろうか。
「ま、仕事に集中したお前の耳がお留守になるのはいつものことだから? 別にそれは気にはしねぇけど。でもオメーな、どんだけ部屋にこもってるんだよ。ちゃんと飯ぐらい食ってんだろうな?」
「あー、まぁ適当に」
「適当に食ってない、と」
「……そうは言ってねぇだろ」
 言ってはいないが予想はつく。この後に及んで、工藤の言葉を丸々信じる程黒羽もバカではない。
「山盛りになった吸殻捨てもしねぇ人間が、食事なんて面倒なことしてるとは到底思えねぇだろ」
「それはお前の主観だろ。主観で物事決めつけてんじゃねぇよ」
「主観じゃねぇよ一般論だよ。探偵なら探偵らしいことを言いやがれ」
 呆れた言葉を返しながら、これまた詰まれた本をまたぎ、黒羽は部屋の窓を開けにかかった。とたんに、「おい、寒い」と苦情が飛んできたが、これで少しは新鮮な空気を吸い込むことができる。窓の外に向かって、黒羽は何度か呼吸を繰り返した。
「あー、くっせ。まじくせぇわこの部屋」
「……人の部屋に入って来て、その言い方はねぇだろおい」
「や、嫌味とかじゃなくてな。この部屋の匂いまじでやべぇぞ。下手な喫煙室よりもよっぽど匂いがこもってるんだっつの。どんだけ部屋にこもってたんだよ」
「あー……ここ一週間近く、外出てねぇかもな」
「まじか」
 工藤にしては何て珍しい。
 その気になれば一週間は愚か一月ぐらい、平気で家にこもって本を読み続けられるような男だとは知っているが、その反面事件となれば軽く国外にまで飛び出る男だとも知っている。そんな長い間、警察から連絡が来なかったのかということも驚きだった。
 けれどそれ以上に、ではこの男は一週間近くもこうした缶詰生活を送っているのかと思えば、とたんに黒羽は頭が痛くなるような気がした。とりあえず何だ、真っ先に取らせるべきは食事か睡眠か。両方か。
「何なの、そんな厄介な事件なわけ?」
 床に積まれた本を避け、再び工藤の元まで戻る。背後から、その肩に腕を置くようにしてパソコン画面を覗きこんだ。もちろん表示された一画面だけでは、事件の全貌を伺い知ることなんてできない。
「……ま、相手がちょっと厄介な奴でな。知り合いのFBIから捜査協力を依頼されたんだけど、全く尻尾をつかませねぇ強かな奴なんだよ」
「へぇ、それはまた」
 工藤は多くを語らない。黒羽もまた、工藤が語る以上のことを尋ねようとは思わない。
 本来ならばこの程度の情報も守秘義務にあたるのだろうが、同じ家で暮らしている以上、パソコンによほどのセキュリティーでもかけなければ完全に情報漏洩を防ぐことは難しい。その点で、工藤は確かに黒羽を信頼してくれているのだろう。もちろん、その大前提がなければ、こうして一緒に住むことなど敵わないわけだが。
「でも、その方が燃えるんだろ?」
「だからって、こうやってパソコンだけで情報追っかけててもな」
 工藤新一はなかなかに現場主義だ。一番得意とするスタイルが自ら現場に出向き証拠を集め、そうしてその場で犯人を探るやり方であり、元来安楽椅子探偵に向いているタイプではないのだろう。
 黒羽としても、ろくに食事もとらず始終パソコン画面に向かわれるよりは、現場で活き活きと動く工藤の姿を見る方が好きだ。その分命の危険にさらされることも少なくはないわけで、簡単に天秤にかけることはできなかったが。
「まあ、確かにな。わかりやすい証拠を残して、すぐに捕まっちまう相手よりかは、夢中になることは確かだけどな」
 煮詰まりかけていた自分自身に、言い聞かせる言葉のように黒羽には聞こえた。多少の余裕がなければ、仕事なんていつだって上手くはいかない。
「妬けるな、それ。オレの相手をするよりも楽しいって?」
「あのな、相手は犯罪者だぞ」
 何を言ってるんだと、呆れた視線を横目で返す工藤に黒羽は笑う。
「じゃ、言い方を変えるけど。昔のオレと、今のそいつと。追いかけるのはどっちが夢中になった?」
「……黒羽。お前は、こんな犯罪者相手にも一々対抗心を燃やすのか?」
「むしろ犯罪者だからこそ気になるというか?」
 冗談半分、本音半分。
 本気で心配をしているわけでも妬いているわけでもない。けれど犯罪者というだけで、探偵である工藤の気を引いてしまうのだから、その存在を丸きり無視することは難しい。そうして、何よりこんなくだらない会話の応酬が心地よかった。帰って来たのだと実感する。
「別にオレは、キッドにだって夢中になってたわけじゃねぇよ」
「うわ、ひでぇ。あんな追いかけてきてくれたのに」
「暇な日はな。でも、別口で事件がある日は行かなかっただろ」
 いくつかキーを叩きながら、あっさりと工藤は答える。確かにそれはその通りだった。
 コソ泥は専門外なんだよ、と、まだ制服に身を包んでいたあの当時も、よく工藤は口にしていた。いつからか、キッドの犯行現場に姿を現すことは無くなり、割り出した逃走経路にて待ち伏せをすることの方が多くなった。黒羽にしても、盗んだ宝石がパンドラでなければ持ち主に返す必要があるわけで、その橋渡しに工藤はちょうどいい相手だった。何よりも、そうして名探偵と会えることが楽しみで仕方なかった。まだ青かった自分は、なかなかそれを認めようとはしなかったのだけれど。
「でも、ま、お前とは今もこうやって一緒にいるわけだし」
「……うん?」
「でも、こいつとはこの事件が解決すれば、これっきりだろうよ」
 人差し指の爪で、工藤はキーボードの縁を叩く。こいつと言われても、画面には顔写真一つ写っていない。文面を読めばどこかに名前も書いてあるのかもしれないが、そこまで黒羽は今の工藤の仕事に首を突っ込む気にはなれなかった。自分はマジシャン。工藤は探偵。客として工藤が黒羽のショーに感想を述べることはあるが、意見を押しつけることはない。それと同じだ。
「なるほどね」
「納得したか」
「おお。工藤の中で、オレが犯罪者としてのヒエラルキーのトップにいるってことがな」
「……それでいいのか、お前は」
 呆れを通り越して、信じられないものを見るかのような視線を向けられてしまったが、黒羽には別段不満はない。それどころか嬉しい。
 自身が犯罪者であったことは拭いようのない事実だし、むしろその事実があったらこそこうして出会えて今があるわけなのだ。善悪は別としても、それを後悔したことは一度も無い。青臭くてたまらないそんな台詞を、面と向かって口にしたことなどは一度も無かったが。
「どんな形であれ、オレがオメーの中で一番になれるってのは嬉しいぜ?」
「……貪欲なのかそうじゃねぇのか、たまにオメーのことがわかんなくなるぜオレは」
 名探偵の口からそんな台詞を引き出せたことが嬉しい。だって恋人なんて、ミステリアスな部分があってこそのものだろう。
 にんまりと笑いながら、黒羽はご機嫌に工藤の肩をぽんぽんと叩いた。
「ま、とりあえず、何か飯作るからさ。少し休憩しようぜ。脳に糖分いかなきゃ、頭だって働かないだろ?」
「疲れてねぇのかよ、オメー。国外ツアー終えて帰って来たばっかだっつーのに……」
「んー、別に終えてすぐその足で飛行機飛び乗ったわけじゃねぇし。現地のスタッフと打ち上げなり何なりで、多少羽も伸ばしてきたしさ」
「そうかよ」
 確かに長時間のフライトの疲れは残っていたが、それよりも目の前の恋人に何かまともな食事をとらせなくてはという、使命感の方が強かった。これはむしろ恋人としての愛情というよりは、保護者的なそれのようにも思えてくる。二十代も半ばの男に対しておかしな話だ。
「で、何が食いたい?」
「んー、別に何でも」
 その答えが一番困る。何でもと言いつつ、レーズンパンを出せば食べないことはわかっている。
 そもそも今この家の冷蔵庫には、一体どれだけの食材が入っているのだろう。どうせ工藤が料理をしないことはわかっているから、ツアーに出る前に大体の食材は使い切っていた。その後に、とても工藤が食材調達をしたとは思えない。
 出前を取った方が早いかもな、と黒羽はすぐさま考えを変えた。さすがにこれから買い物に出かける程の気力は無かった。
「……って、おいこら」
「あ?」
 あれこれと考えている間に、工藤の手は当たり前のように煙草へと伸びていた。しゅぼっと聞こえたライターの音に視線を向ければ、ちょうど工藤が煙を吐き出したところだった。
「工藤、ったくオメーは……! あのな、吸うなとは言わねぇけど、少しぐらい控えたらどうなんだよ。今日だけで何本吸う気だ、お前は?」
「や、これまだ今日は一本目だし」
「嘘つけ」
 あんな灰皿を見せつけておいて、よくもまあそんな白々しい嘘がつけるものだと感心した。
 一度火を付けてしまった煙草はどうしようもなく、睨みつける黒羽の前でも工藤は平気で吸い続けている。
「……昔のお前の方がまだ健全だった」
「昔って、知りあった頃かよ? そりゃ、高校生なんだから吸うわけねぇだろ」
 その辺りは至って真面目な常識人だった。けれど二十歳を超え、いつの間にか吸い出していると思ったらこれだ。コーヒーと違い一々席を立ち淹れる手間もないため、つい手が伸びてしまうのだろう。最早癖になっていると言ってもいい。
「ろくに買い物なんて行ってねぇだろうに、ったく、よく煙草だけは切らさないよな。買いに行くついでに、飯ぐらいちゃんと買ってきてんだろうな?」
「一々買い行くのが面倒だから、この前ネットでまとめ買いしといたんだよ」
「……あぁそうかよ」
 嗜好品には向くその思考が、どうして常日頃の食事には向かないのだろうか。どれだけ忙しかろうが、最低限の食事は口に入れるよう心がけている黒羽には全く理解ができない。
「ったく、マジでわかんねぇ」
 人の好みはそれぞれだ。
 酒や煙草といった嗜好品は、まさにその代表だろうとわかっていても、納得はできない。我儘を言えるのなら、煙草なんて身体に害しか残さないものはぜひとも止めてもらたい。工藤には長生きをしてほしい。
「そんな葉っぱのどこがいいわけ」
 常なら決して言わないような言葉が、つい口から漏れてしまったのは、やはりツアーとフライトの疲れが残っていたからなのかもしれない。もたれかかるようにして覗きこむ黒羽に、工藤は一度も「重い」なんて文句は言わなかった。
「別にオレも、好きで吸ってるわけじゃねぇけど」
「そんだけ吸っといてよく言うな、オメーは。今日から厚顔無恥太郎って呼んでやろうか」
「一度呼んだら蹴り十発な」
 それはだいぶ不公平というものだろう。
 文句を言おうと黒羽が口を開けるよりも先に、短くなった煙草を咥えたまま、工藤が次の言葉を発する方が早かった。
「仕方ねぇだろ。一人でパソコンにばっか向き合ってると、口寂しくなってしゃーねぇんだからさ」
「……それって」
「あぁ?」
 いくら窓を開けていても、こんな間近で煙を吐かれては当然煙たい。
 けれど今ばかりは、そんな煙も気にはならなかった。もう吸えないだろうと思ったそれを、工藤が灰皿に押し付ける前に、黒羽の手が奪い去った。
「何だ。工藤、それならさっさと言やぁいいのに」
「は? 何の話だよ」
「今の話だよ。今、オメーが言ってただろ?」
 口寂しいと。
 言ったばかりの唇を、丁寧に自身のそれで塞いでやった。
 思えばツアーで離れている間、もちろん一人でベッドに入る間、帰ったら真っ先にキスをしよう抱きしめようと思っていたはずなのに、うっかり家に着いた瞬間に忘れてしまっていたのだ。油断よりは疲れが大きく、そうしてその疲れよりもこの部屋の煙たさの方が大きかった。工藤の所為で忘れ、工藤のおかげで思い出した。
 数週間ぶりに重なった温もりを、もちろん工藤は拒みはしなかった。昔からは想像もできないような素直さで、そっと開かれる唇に舌を差しいれた。けれど、深く交わることもなく、すぐさま黒羽は身体を離した。表情は険しいものになっていた。
「まずっ」
「……蹴られてぇのかオメー」
 険呑な眼差しを向けられて、黒羽は慌てた。
「何だ、さぞかし向こうで、飽きる程美人と甘いキスでもしてきたってか?」
「や、違うって! 違っ、そうじゃなくて、だから煙草の味がオレは駄目で……!」
「だったら、オレが吸った直後になんてすんじゃねーよ」
 バーロ、と言いながら軽く右足がぶつかってくる。本気で浮気を疑っていたわけではないとわかり、黒羽はどっと肩を落とした。
「……すみませんでした」
 苦笑を浮かべたまま謝れば、工藤はすぐさまパソコンに向き直ってしまう。数週間ぶりに帰国した恋人よりも、今はそのパソコンの向こうにいる犯罪者の方が、よほど工藤の意識を占めているのだろう。わかっているから、食事ができるまではもう少しそのままにしておこうと息をつく。
 ドアに向けて歩き出し、部屋を出る直前で、またもやライターの音を感じた。振り返れば、見慣れた煙がまたもやその机から上がっている。
「……新一」
 人の話なんて、本当にはなから聞いていないのだ。
 わかってはいたが、それをこうも見せつけられると少しばかり気分が悪い。けれど、同時にふと浮かびあがる光景があった。それは悪い思い出ではなくて。
「……オメーさぁ」
「あぁ?」
 声かければ、自然と返事が返ってくる。
 そこまで画面に意識を集中しているわけではないらしい。一度作業に没頭すれば、工藤にこちらの言葉なんて届かない。疲れの所為か、あるいは自分がここにいる所為か。もちろん黒羽にはわからない。
「や、何かさ、今ふと思ったんだけどさ」
「んだよ。こっちは忙しいんだよ、さっさと言えよ」
「や、お前。そうやってると、本当最近優作さんにそっくりだなぁと」
「……はあ!?」
 吸いかけの煙草をそのままに、工藤は今日一番と言えるほど俊敏な動作で振り返った。
 風呂にだけはきちんと入っているのだろうが、それでも多少乱れた髪型と、最近は少し視力が落ちたと言って、読書やパソコンをいじる際にのみかけている眼鏡の所為で、余計に二人の面影が重なって見えるのだ。もちろん煙草のその一つで。
「……似てねぇだろ、親父となんて」
「似てるって。元々の顔立ちはそうでもねぇけど、何か仕草とか後ろ姿とかがなー。瓜二つとは言わねぇけど、普通にそう思うぐらいには似てるぜ」
「似てねぇっつの!」
「いやだから普通に考えて似るだろ。親子なんだし」
 何も間違ったことなどは言っていない。そう思うのに、どこか拗ねてようにも見える態度で、くるりと工藤は背中を向けてしまう。
 常々思っていたが、本当にこの男は素直ではない。だれよりも父親のことを尊敬しているだろうに、その反面、この年になってもまだ父親に対して反抗期めいた態度を見せるのだ。それをまた、当の優作が面白がって相手にするものだから悪いのかもしれない。
「……お前なぁ」
 そういうところも嫌いではなかったが。
 意地っ張りなところに呆れ、本当に変わらないと微笑むばかりだ。人の本質とはこういうものを差すのだろう。
「親父さんに似てるって言われるの、嫌なわけ? オレ以外にもさ、言う奴なんて山ほどいるんだろ?」
「……いつまでも、あの親父の息子としか見られねぇだなんて、嫌に決まってんだろ」
 何も黒羽は、そんなつもりで言ったわけではない。高校生だった十年前ならいざ知らず、今の工藤を見て、ただの親の七光りと思う相手もいないだろう。そんなことは、だれよりも工藤自身がわかっていることだろうと思うのに。
 父親というのは、それほど息子にとっては大きい存在なのだろうか。
 黒羽にはよくわからない。自身にとって、確かに父は最高のマジシャンで最高の師で、そうして最愛の親であったが、生きている人間と死んでしまった人間を同じ土俵で比べることは難しい。父のことは臆面もなく尊敬していると口にすることができるが、ありがたくも今日も元気に存命の母に対してそう口にすることは難しい。つまりそういうことだ。
「いいと思うんだけどなぁ、オレは」
「オメーの意見なんて聞いてねぇんだよ。オレは良くも何ともねぇどころか、嫌なんだって前から……」
「オレ、お前が優作さんに似てくたんびにさ、何か昔よりも好きになってるなーってすごく思うんだよな」
「……おいこのファザコン」
 振り返った工藤は、灰皿にぎゅっと煙草を押しつけながら、それはそれは恐ろしい視線を投げかけてくれた。その視線だけで、まるで射抜かれそうな程だった。
 まずいことを言ったかな、と黒羽は片手でぼりぼりと頭をかく。ますます好きになる一方なのだから、結果オーライだとばかり思っていたのだが。
「あー、何か怒ってます? 工藤さん?」
「……んなこと言われて、怒らない男がいると思ってんのか快斗」
 あ、これはまずい。
 名前を呼ばれる時は、良くも悪くも工藤が本気になっている時だ。良くも悪くも。
「いやぁ、だってさぁ」
 親子なんだから似るのは当たり前だろうなんて、月並みなことはもちろん言えなかった。
 すぐさま再びくるりと背中を向けてくれた工藤は、苛立った仕草のまま次の煙草に手を伸ばし、そうしてシガーケースを掴んだ瞬間に、軽くそのケースを放り投げた。おや、と黒羽は目を丸くした。
「えーっと、工藤さん?」
「……うるせぇ。オレがいいって言うまで話しかけるな」
 にべもない返事に肩をすくめる。帰国早々に、どうやらずいぶんと機嫌を損ねてしまったらしい。
 しばらくは放っておくに限ると、黒羽はそそくさと部屋を出た。どうせ食事の調達をしなければならない。機嫌を治してもらうためにも、ここでの選択はかなり重要なものとなってくる。さてどうしたものかと、長い廊下を歩きながら黒羽は腕を組んだ。
「に、してもなぁ」
 父親に似ていると言っただけで、何もそこまで機嫌を損ねなくてもいいと思うのだが。
 いや、その後の台詞が原因だったのか。定かではないが、どちらにしろ決して貶したわけではなく、むしろ逆の言葉だったというのに。
 考えながらに歩を進める。歩きながらに、ふと漂う煙草の匂いに眉を寄せた。この家の他の住人はいない。匂いの発症元がどこであるのかなんて、考えずとも明らかだった。
「……すっげー匂いだったもんなぁ」
 あの部屋にいたのはわずかな時間だった。それでもここまで匂いがうつってしまう程には、ずいぶんと空気は悪くなっていた。
 歩きながら、袖口の匂いをすん、と嗅いだ。苦手な煙草の匂いが鼻をつき、けれどそれは同時に大好きな恋人の匂いでもあった。苦手さよりも愛しさの方が勝るぐらいには、会いたくてたまらない匂いだった。頬が自然と緩み、そんな自分に黒羽は呆れた。
「どうしようもねぇなあ、オレも」
 できれば今夜は、そんな愛しくてたまらない恋人と仲良く夜を過ごしたい。
 その勝算は如何ほどのものだろうと、考え始めれば、食事の算段なんてすぐさま頭の中から抜け落ちてしまっていた。
...12.06.19
煙草を吸う工藤さんに萌えがとまりません。普段は別にヘビースモーカーでもないけど、
一人で作業したり調べ物をしてる時なんかには煙草が止まらない工藤さんが愛しい。