「おまえ、すっげぇオレ好み。こんなしけたところで働いてねぇでさ、オレの女になれば?」
 精一杯の愛想でもって、酒を運んで行った際に言われた台詞がそれだった。
 言葉だけでは飽き足らないとばかりに、すかさず唇を覆ったのは、同じく温かな体温だった。離れていくその顔を見つめながら、力の抜けた新一の手から、グラスが傾き落ちていった。

 
 とある国の、場末の酒場の、薄暗いその席で。

 落ちた酒に視線を向けることなく、ただどこまでも余裕に満ちた眼差しで持って見上げたまま、その男は悠然と微笑んでいた。


 ◇


 この店には、いつだって暇な時間なんて訪れない。
 昼は活気に溢れた食堂として、そうして夜は観光客で賑わう酒場として。
 外観は決して良くはないが、出される料理に外れはないとは地元民の間では有名な話だ。今はそうした情報が、ネットを通じて簡単に世界中に広まるため、ガイドブックに載る必要など最早ないのだと、恰幅のいい店主は笑っている。そうは言っても、今までの努力が積み重なっての結果だろうと思えば、新一はその店主を尊敬する以外無い。どれだけの苦労を重ねれば、こうまで繁盛する店を持つことができるのか。
「シンイチ、空いた皿はさっさと下げて! ぼーっとしない!」
「あっ、はい!」
 他の給仕に怒鳴られて、慌てて客席に視線を向ける。
 昼の仕事には多少慣れたが、夜のこの時間にはまだどうにももたついてしまう。
 食事がメインの昼間と比べ、夜の時間帯は酒を飲む客がほとんどだ。つまみとしての料理を頼むタイミングもばらばらで、どうしたって皿数は多くなる。どのテーブルも状況は同じで、かつ酒の注文は次から次へと入り、空いた皿にまで到底目が行くものではない―――というのは、新一の言い訳に過ぎない。
 一通り空いた皿を下げ、その最中に告げられた注文を厨房に伝え、酒を作ってテーブルへと運ぶ。追加の皿を用意し、出来上がった料理を運び、また新しい酒の注文を受け、そうした中でもドアベルは新たな来店を告げる。
「いらっしゃいませ!」
 声をかけながらも、酒を作りに新一は厨房へと足を踏み入れる。
 別の給仕が、一人ホールにいたことは視界の隅でとらえていた。だから大丈夫だろうと、棚から酒瓶を取り出していれば、その給仕が顔を覗かせた。
「シンイチ、あっち頼む。今来た客に料理の説明よろしく」
「あ、だけど、今五番テーブルの酒を……」
「それは俺がやっておくから。新規の客、日本人なんだよ」
「……あぁ」
 なるほど、それでは自分の出番だ。
 この国の言葉こそ一応は喋れるものの、ろくに飲食店勤務の経験もない、ましてや外国人の新一が、なぜこの店に採用されたのかと言えば、それはひとえに新一が日本人であるからだ。
 日本人の観光客は、年々増えているのだという。金払いがよく、かつマナーもいい日本人は、どこに行っても上客だとは聞いたことがある。新一はつまり、日本人観光客相手の要員として、この店に雇われている身の上なのだ。
「了解」
 取り出した酒瓶をその場に置いて、新一はホールへと戻った。
 新規の客が、何番テーブルについたのか、聞くことを忘れていたが顔を見ればすぐにわかる。こうして離れた異国の地で、見かける日本人の顔は、それだけで新一にとっても喜ばしいものだった。
「失礼致します。よろしければ、メニューの説明をさせて頂いても?」
 日本人の店員を見て、その言葉を聞いて、客もまた安堵の息を漏らしたのがわかった。微笑みながら、新一はメニューを開く。全て外国語で書かれたメニューを、一品ずつ説明できるはずもないわけで、本日のお勧め品を語った後には、客の好みを聞くことにしている。その上で、新一が選んだメニューを進めれば、大抵の日本人客は「じゃあそれで」と答えるのだ。
 さりげなく、少しばかり値の張るメニューや、高めのワインを勧めても、断る客は少なかった。勧められれば断れない、日本人らしいとも言える気質に付け込んでいるような気もしたが、そもそもが旅行に来ているような人達なのだ。金に困っているわけではないのだろうと思えばそれまでだった。
 何しろ、この店の料理には外れが無い。それは、賄いでもって食べている新一が一番よく知っている。さらに言えば、やはり日本人により好まれる味と、比較的そうでない味もわかっているつもりだ。
 新一が進めた料理を注文し、それを残した客は今までほとんどいなかった。満足した顔で、「美味しかった」と言いながら店を出ていく日本人客を、見るのが新一のささやかな楽しみだった。もちろん、日本人以外の客にそう言われることだって、同じように嬉しくはあるのだが。
「あまり、香辛料がきつくない料理がいいのだけど。家内が苦手なものでね」
「そうですね、香辛料をあまり使っていない料理ですと、この辺りが……。こちらの肉料理などは、油を落として焼きあげていますので。女性の方にも人気がありますね」
「なるほど。……おまえ、どうだ?」
 日本人は、総じてメニューを決めるのに時間がかかる傾向があるような気がする。あるいは、欧米人に比べて、食べる量が少ないことにも関係しているのかもしれない。
 けれど、妻の好みに合わせて料理に悩む夫の姿を見るのは微笑ましいものだったし、何よりも日本人と交わす会話は心地良い。こうしている間にも、忙しなく動き回っている同僚たちには悪かったが、たまにはこうした時間を取ることも悪くはないだろう。
 さらに幾つかの料理の説明をし、それに合わせたワインをすすめ、食後のデザートはまた後で決めるというところまで話をまとめて、やっと新一はテーブルを離れた。
 幾分時間をかけすぎだとは思われているのかもしれないが、日本人客とのつたない外国語でのやりとりを思えば、新一が対応した方が格段に早いことは明白だった。だからとりあえずは、給仕仲間に文句を言われるようなこともない。
 グラスを用意し、そうしてからワインを取りに行こうと、厨房の横手にあるワインクーラーへと足を向けた。
「シンイチ」
 ワインには明るくなく、いつも手早く取ることができない。
 今日もまた無駄に手を彷徨わせていれば、背後から声がかかった。
「ん? また日本人客か?」
「いや、そうじゃないけど」
 給仕仲間は、そこで言葉を切り、意味ありげに肩をすくめて見せた。
「またどうせ、おまえに『指名』が入ると思ってな」
 ここは場末のただの酒場で、ガイドブックにすら載らないようなマイナーな店で、間違ってもそんな妙な制度は無い。
「……オレは指名されるためにこの店にいるわけじゃねーよ」
「そうは言ってもなぁ」
 仕方ないだろ、と同僚はこれまた肩をすくめる。何を言えばいいのか、とっさに新一はわからなかった。探していたワインの銘柄も、一瞬わからなくなる程だった。とある客のことを考えるだけで、頭はいつだって真っ白になる。
「シンイチ! 礼の客からご要望だ。急いで行け。十四番!」
 別の給仕が顔を覗かし、そう言い放ってまたホールへと戻って行く。
 噂をすれば何とやらと、その言葉は異国の地でも使うことができるのだろうか。
「……な、オレの言った通りだろ?」
 言葉通りすぎて返事もできない。
 追い立てられるようにして、新一は厨房を後にした。この店に『指名』のシステムなど無いとしても、決して無視することのできない相手がそこにはいるのだ。


 まるで目隠しをするかのように、置かれた幾つかの植木鉢の向こうに、置かれているテーブルが十四番の席だった。
 六人掛けのそのテーブルは、個室とまではいかないものの、他のテーブルの喧騒からは少しばかり遠いところに置かれている。
 店の構造上、そうなってしまっただけのことであり、あえてそうしたテーブルを置こうとしたわけではないのだと、賄いを食べる新一に、いつだったか店主は笑いながらそう聞かせてくれた。店員を呼びとめるにも、植木鉢が邪魔でなかなか適わず、少し面倒な席なのではないかとも言っていた。
 けれど今、その面倒な席に。
 悠々と腰掛ける男の顔を見て、新一は内心でもって顔を顰めた。
 新一の姿を見て、男は眉を上げる。客を相手に、そうそう不機嫌な顔を見せることもできない。そう、相手は曲がりなりにも客なのだと、自身に強く言い聞かせて、新一はテーブルの横で足を止めた。
「……いらっしゃいませ」
「久しぶり、新一。最近、忙しくてなかなか来れてなかったから。二週間ぶりぐらいかな?」
 頬杖をついていたと、思った手に、一瞬にして薔薇の花が握られている。
 その手際は見事なものであったが、生憎ともう新一は、そのマジックは見飽きてしまっているといってもいい。何せ、会う度にそうして花を差し出されているのだ。新一が受け取ったことは、一度として無いというのに、だ。
「元気にしてた、って、まあ普通なら聞くところなんだろうけど」
 新一の受け取らない薔薇を、男は笑いながら新一の胸ポケットへと差した。
 うん、似合ってる。と、いつものように微笑んで。
「オレが来ない間に。……よその男に、触られたり言い寄られたり、ましてや抱かれたりなんてしてねぇだろうな?」
「……は」
「その辺の男と、セックスなんてしてねぇだろうなっつってんの」
「な、に……っ」
 今までも、到底新一が答えられないような、そんなプライベートにも程があるような質問をされたことは多々あって。
 けれどここまで明け透けに、明け透けにというよりかは不躾に、そのままの単語でもって尋ねられたことはなかった。ぱくぱくと口を開けるだけの新一を、面白おかしそうに男は見つめていた。
「あぁ、その反応じゃしてねぇな。安心したわ」
「なに、言って……!」
「可愛いって言ってんの」
 胸元で、ぽんっと小さな音が上がった。同時に煙も。
 差された薔薇に、何か細工がしてあったのだと、思った時にはもう遅かった。咳き込んだ新一の、その襟首を無理やり掴むようにして、笑顔が間近に迫っていた。そう思った時にはもう遅かった。
「……っ」
 唇に、直に体温を感じる。
 その表面を、味見するかのようにべろりと舌が舐め、そうしてすぐに離れていった。
「……マジで可愛い、新一」
 浮かんだ笑みは変わらない。
 自身の唇をも、ぺろりと舐めとるその仕草は、ずいぶんと野性味に溢れているように新一には思えて、直視することすらできなかった。いや、そもそもが、まともに考えられるべき行為ですらないのだ。
 男が男にキスをする、だなんて。
「……ご注文はお決まりですか」
 尋ねる声は、いささか震えてしまっていたかもしれない。
 それでも、最初の頃に比べれば慣れたものだ。決して慣れたいものではなかったが、新一がこの店にいる以上、そうしてこの男が客として来る以上、逃げることはできないのだ。
「んー、注文?」
「お決まりでないのでしたら、本日のお勧めメニューとしましては、子羊の……」
「新一」
「……はい?」
「だから、注文は新一で」
 頬杖をつきながら、上目遣いににやにやと笑いながら男は言う。
 まったくもって、笑えない冗談だ。冗談だと思いたい。けれどそう思うには、唇にはいまだ相手の温もりが残っているような気がして、どうしていいのかわからなくなって仕方ないのだ。もちろん本気と取るような、そんな馬鹿な真似はしなかったが。
「テイクアウトでお願いしたいんだけどね」
「……申し訳ありませんが、ご注文はメニューの中からお選び頂けますでしょうか?」
「つれないなぁ」
 くつくつと喉を鳴らして男は笑う。テーブルの上に置いてあるメニューにも、手を伸ばそうとする様子は無い。この男がまともにメニューを見ている姿なんて、新一は一度たりとも見たことはなかった。他の店でもそうなのかはわからない。
「でも本当にさ、何でこんなしけた酒場で働いてんの。そりゃ、評判通り飯は美味いけどね。でもさ、正直ここでどれだけ働いたところで、酒場の給仕じゃろくに金なんて稼げねぇだろ。……大人しくオレのもんになっちまえよ」
 言いながら、伸びた手がそっと新一の手を掴む。
 洗礼された所作は、さすがはマジシャンと言うべきなのか。振り払うこともできずに、新一はじっとその手を見下ろした。ただ、居心地が悪かった。
「……そうしたら、この国でオレに叶えられないことなんて何もないぜ?」
「あなたは……」
 国王にでもなったつもりですかと言いかけて。
 事実この国では、それと等しいものなのかもしれないと、思えば口にすることもできなかった。
 世界で名を馳せる天才マジシャン。数々のショーをこなしながら、自身が出演する劇場の運営にも手を出し、それを機に他の事業へと次々と着手しては、見事成功を収めたその手腕こそ、最大にして最高のマジックだと言われている男。
「悪い話じゃねぇだろ? どこでも好きな所に、いくらだって家なんて建ててやるよ。広いベッドでの豪華三食昼寝付き。……あぁ、その分夜はちょっとばかし、寝られねぇかもしんねえけどな?」
 意地の悪い笑みが、どこまでも似合う男だ。
 かと思えば、ふとした瞬間にそうとも思えない、まるで子供のような顔を見せるから戸惑う。それすらも、もちろん演技なのだろうとわかってはいるが、遠く自国を離れた場所で、不意に見せられる同じ日本人としての笑みは、そう簡単には忘れられないものなのだ。
「……お客様」
「快斗だよ。名前で呼べって言ってんだろ、新一?」
「申し訳ありませんが、当店にはそのようなサービスはございませんので」
 いつになっても、男が新一の手を離す様子はない。
 そもそもが、酒場に来てもメニューを見ようとはしない時点で、まともに飲食をする気などないのだ。それでも追い出すことは愚か、下手な扱いをすることなんてできない。
「へぇ、サービス? おっかしいな、どこに行っても、オレが望んで出てこねぇサービスなんて、この国じゃねぇもんだけどな」
 手を離すどころか、男にしては細く繊細な指が、新一の手の平に食い込んだ。水仕事で荒れた新一の手の平とは何もかもが違う。そのまま不意に引っ張られ、バランスを崩した新一は慌ててテーブルの上にもう片方の手をついた。
 距離が縮まる。
「……っ」
 その睫毛の長さすら、漏れる吐息すら、感じられそうな距離で男は笑う。耳朶に、息がかかった。
「……オレがその気になれば、こんな店いくらでも潰せるって、新一だって知らないわけじゃないよね?」
「なに、言って……お客様、そんな……」
「快斗だっつってんだろ」
 細められた目が、静かに新一を睨みつける。
 そうしながらも、決して軽くはない力で耳朶を噛まれた。新一が息を飲めば、その反応すら楽しむかのように、男は次いで首筋に唇を滑らせた。新一の抵抗を封じることなど造作もない。慣れているのだろうと、もがきながらも頭の片隅でそう思った。若くして金がありそうして顔もいい、そんな男が女性に困るわけがない。
 そんな、何もかもを手にしている男だからこそ。
「やめて、下さい……っ!」
 初めて会った時に、気に入ったと言われた。オレの女になれとも。それ以来、このマジシャンはあしげく店に通ってくる。
「止めねぇよ。止めるわけがねーだろ? 今日の注文はオメーだって言っただろ。いい加減、大人しくオレに食われろよ」
「何を、ここがどこだと思って……やめっ」
「だからオレは、最初にテイクアウトでっつったんだけど? こんな美味そうな身体、オレだって他の野郎に見せたくはねぇからな。……この国の男は、日本人程行儀がよくはねぇからな」
 どの口がそんなことを言うのだろう。どこの国どんな男であろうと、今まさに、テーブルに新一を押し倒そうとしているこの男よりかはマシなはずだ。
 女性になんて、絶対に不自由しない身の上であろうというのに。いや、だからこそなのか。どんな美女も簡単に手中に収めることができてしまうゆえに、そうできない新一へ興味を覚えたのか。所詮は金持ちの道楽だ。そんなことはわかっている。同性であるということ以上に、これ程住む世界の違う人間が、ただの酒場の給仕に興味を覚えること自体が、とにかく滑稽で溜まらない。
「やめて下さい、本当に、お願いですから……っ!」
 体躯はそうは変わらない。
 だというのに、簡単にテーブルに押し倒されそうになっている自分が情けなかった。経験の差か、立場の違いか。見た目とは違い、そうして間近に迫られれば、男の身体が存外がっしりとしていることにも気付かされた。多数のショーをこなしているのだから当然のことなのだろう。
「嫌だ……!」
 男は何も答えない。ただ笑っている。余裕に満ちた笑顔で、その指先が当たり前のようにシャツの下に潜り込んでこようとする。
 首筋に、チリっと小さな痛みが走った。
「……や、め……っ」
「……その顔、マジでたまんねぇ」
 店内は喧騒に包まれている。けれど大声を出せば、新一の声は仲間に当然聞こえるだろう。
 けれど、助けてくれるものかどうかはわからない。わからないと、思えてしまうことが何よりも怖かった。外された釦の、その隙間から覗いた鎖骨を、舌がゆっくりと舐めていった。そうして食まれる。
「……っ」
 この行為を、止めてもらえるものなら何でも良かった。
 その名を呼べば、止めてくれるだろうと思ったわけではなかったが。
「……快斗!」
 恐らくは驚きに、無意識に手を止めてしまっただけなのだろう。無防備に、丸々と見開かれる瞳を、新一は間近で覗きこむような形になっていた。そうした顔は、到底天才マジシャンとは思えない程、むしろ子供のようにすら見えるものだった。
「……驚いたね」
 本当に驚いているのかと、疑ってしまう程には冷静な声音だった。この男が動転している様子など、メニューを開かない姿と同じく、新一は一度として見たことはなかったが。
「まさか今日、このタイミングで名前を呼んでくれるとはね」
「……あ」
「本当、びっくりした」
 どこかしみじみと、男は―――快斗は呟いた。
 名前で初めて呼んだことに、一体どんな効果があったのかはわからない。今更ながらに暴れる心臓を押さえる新一をよそに、快斗は静かに身を起こした。伸びた手に、一瞬思わず身体は竦んだが、その手は手早く新一の衣服を整えた。乱されることはあっても、整えられたことは初めてだった。負けじと、新一も目を丸くさせた。
「オレがどんだけ口説いても、一筋縄じゃいかないところが楽しくて仕方ないんだけどね」
「……は?」
「でも、こうやって思い掛けないタイミングで思い掛けないことをしてくれるから、だからなおさら目が離せないっていうか」
 まあそもそもが好みすぎて困るんだけど、と。
 いつもの顔に戻った男は、口笛を吹くような気軽な態度でもって、軽く椅子に腰かける。新一も、慌ててテーブルから離れた。クロスにしっかりとついてしまった皺が、改めて自分が何をされそうになっていたのかを物語っているようで、見ていることも辛かった。
「子羊の何だっけ」
「……はい? 子羊?」
「本日のお勧め。新一が美味しいって思うのならそれでいいし。適当に新一のお勧め品を持ってきてよ。あ、ワインはこの前と同じやつで」
「あ、はい」
 きちんと食事を取る気があったのか。
 そんな、当たり前のことにすら驚いてしまったが、思い返してみても快斗はいつだって、来店した時にはしっかりと食事をし酒を飲み、そうして店と新一に、それぞれたっぷりとチップを置いて帰っていくのだ。通常の店の一日の売上に、匹敵する程の額をチップで置いて行くのだから、新一に『指名』が入ることなど、店主も暗黙の了解でもって認めてしまっているのだろう。
「あと、グラスは二つで」
「……飲み比べでもなさるんですか?」
「新一の分だよ」
 当然だろうと、言うかのような笑みで快斗は微笑む。
「一緒に飲もうって言ってんの」
 ここはその手の店ではない。言うことは簡単だが、それをこの男が聞かないだろうこともまたわかっていた。
「……申し訳ありませんが、私は酒を飲んだことはありませんので」
「え、ないの?」
 どう答えれば諦めるだろうかと、悩んだ末に新一がそう返事をすれば、男はきょとんと、再び目を丸くさせた。
「へぇ、驚いた。真面目そうだとは思ってたけどね……」
 この年で酒も飲んだことがないとは、確かにあまりあることではないだろう。
 正確には、一口も飲んだことがないというわけではない。客の残したボトルの残りを、少しばかり貰って飲んだこともある。
 けれど、酒というのは嗜好品だ。家賃を払うのが精一杯の新一には、到底手が出せるものでもない。ろくに飲んだ経験が無いから、味も美味しさもわからない。だから飲みたいとも思わない。
 もちろんそんな理由を、正直に目の前の男に告げる気はなかったが。
「じゃあ、酔っ払った新一を初めて見るのも、オレってことになるのかな」
「……ですから、私は酒は飲みませんと……」
「さっきの注文訂正。ワインと、あと飲みやすいカクテルで。もちろん、新一が好きそうなやつでね」
「……お客様」
「快斗、だろ。……一緒に飲んでくれないと、この店潰すぜ?」
 頬杖をつきながら微笑んで、ウインクと共に告げられた呟きは何とも物騒なもので。
 冗談であっても笑えないが、その言葉が決して冗談では済まないことがわかっているから言葉につまる。困惑する新一に対し、快斗は口元に浮かべた笑みを静かに深めた。
「新一の身持ちが固いことは、オレだってよくわかってんだよ。抱かせてくれねぇのなら、せめて酔った姿を肴に飲ませてくれたっていいんじゃねぇの? ……ま、そんで酔い潰れたら持ち帰らせてもらうけど」
「な、に、言って……っ!」
「ほら、オレにテイクアウトされんのが嫌なら、せいぜい自分が飲めそうな酒を調達してくるこったな」
「だから、オレは飲んだことないからそんなの……!」
「オメーが酒を飲んだことがあるかどうかなんて、オレの知ったことじゃねーよ」
「……て、め……っ」
 にやにやと、浮かんだ笑みが腹立たしいことこの上もない。
 うっかり、自分の立場も何もかも、忘れそうになってしまう。けれど聞こえてくる店の変わらぬ喧騒が、かろうじて給仕の意識を引きとめてもいた。ゆっくりと、自身を落ちつかせるために、新一は息を吸い込んだ。酸欠になったかのように、頭がくらくらとしていた。
「オレにこんだけお預けを食らわせてんだからな。そのぐらいオメーも覚悟しろよ」
 とんだとばっちりだ。そう言いたいけれど言えない。
 自分が絶対的に正しいと、世界が自分を中心に回っているのだと、本気でそう考えているかのような、そんな態度を見ているだけで腹が立つ。
 これだから金持ちは嫌なのだ。金持ちの道楽に、付き合っている暇など無いのだ。
「ほら、給仕さん? こっちは腹を空かせて待ってるんだぜ。さっさと飯を運んできてもらえねぇもんかな」
「……かしこまりました」
 礼をしてその場を去る。踵を返したとたん、背後から聞こえた遠慮のない笑い声に、運んだワインをぶっかけてやろうかと、新一は本気でそう考えた。


 この道楽がいつ終わるのか、それは新一にもわからない。
...12.10.31
先にPixivの方に上げていたパロでした。金持ち快斗×貧乏新一。テンプレ美味しい。
たまには強引で攻め攻めな快斗も楽しいなぁと。書くのは色々なれなかったりもするのですが。