SS03
 新一が風邪を引いた。
 というよりも、風邪を引いて帰って来た。
「おい、大丈夫かよ」
「……んなの、見りゃわかんだろ」
 げっほがっほと、遠慮のない咳を漏らしながら、何とか靴を脱ぎ捨てた新一は、よろよろと廊下を歩きだした。三日ぶりにまともに姿を見たと思ったらこれである。
「それって、見ての通り風邪を引いて全然大丈夫じゃねぇってこと? それとも、このぐらいの風邪大したことねぇよ大丈夫だっつーいつもの見栄っ張り? なあどっちだよ」
「……うるせぇ。黙れ」
 とにかく喋ると喉が痛いらしい。そんな短い台詞を吐きながらも、新一は苦しそうな咳を漏らす。これはいかん。
「とにかく寝ろって。ほら、さっさと部屋行けよ」
 事件が無事解決したとテレビのニュースで知り、それなら今日こそは帰ってくるだろうと、学校が終わった足で工藤家に来てみればこの様だ。確かに無事事件を解決させた新一はこうして帰って来たが、風邪というオマケを引きつれてくるとは予想外だった。
 現場は都内だったし、一昨日も昨日も特別寒くはなかった。そうそう風邪を引くような天候ではなかったと思うのだけれど。
「おまえに言われなくても……そうするっての……」
「ほんとに大丈夫かよ。掴まっていいぞ。ほら」
「……余計なお世話だ」
 体調を崩しても、この調子なのが何とも新一らしい。いっそ感心する。
 無理に手を貸そうとしてもはねのけられるだけだろうとわかっていたから、よろよろと階段を上がって行く新一の後ろ姿を、オレは黙って眺めながら後を付いて行った。でかい屋敷というのも、こんな時ばかりは困りものだ。オレの家だったら、それこそあっという間に自室に着くというものなのに。
 げほげほと咳を漏らし、鼻をすすり、壁に手をつきながら、ふらつく足取りで、それでも何とか新一は自分の部屋へと辿り着いた。登頂成功、とオレは心の中でこっそり呟いた。
「何でまた、急に風邪なんて引いたんだよ」
 寒くもなければ、新一は元から風邪気味だったわけでもない。警官か、あるいは関係者の中に、風邪菌を持った人でもいたんだろうか。
 オレの声が聞こえなかったのか、あるいは返事をする気力が無かったのか。新一は上着を脱ぐと、すぐさまベッドに倒れ込んだ。スプリングがぎしりと軋む。
「おーい、新一。寝るならちゃんと着替えてから寝ろって。ズボンのままじゃ寝辛いだろ」
「……っせ」
 うっせぇ、と言いたかったのだろう。最早声になってない。
 疲れと風邪で、喋ることも辛いのだろうとわかってはいるが、かと言ってこのままにするわけにもいかない。普段の新一ならともかく、今は風邪を引いているわけだからして。
「あのな、寝るならちゃんとあったかくしろって。そんな布団もかけずに寝たら、ますます悪化するに決まってんだろ? ほら、新一」
 ベッドの上に散らばったままだった、新一の寝巻を手繰りよせる。いかにも質が良さそうなパジャマだ。きっと有紀子さんが買ってきた物だろう。オレなんて家にいる間はほとんどジャージで過ごしているというのに。
「新一、ちょっとでいいから起きろって」
「……帰れよ」
「おまえな、それが仮にも帰りを待ってた恋人に対する台詞かよ?」
 新一がオレの出迎えなんて待っていないだろうことはわかっていたけれど、それでもその台詞はどうなんだ。会いたかったオレの気持ちはどうなるんだ。病人を責める気は無いとしても。
「ほら、新一」
 体格のほとんど変わらない相手を起こすのは、さすがに至難の業だ。新一の方が幾分痩せているとは言っても、それはあくまでも幾分だ。ぱっと見にはオレ達の体格は変わらない。
「新一。起きろって言ってんだろ。ちゃんと着替えて、ベッド入って寝ろって。おいこら」
「……け」
 新一が何かを呟いた。
「え? 何?」
 オレはその口元に耳を寄せる。口元とは言っても、今の新一はベッドにうつ伏せになっているのだけど。
「……うるせぇ。邪魔。出てけ」
 痛む喉を堪えながら、新一は必死な声でそう言った。オレの口元はぴきりと歪んだ。
「……あぁそうかよ。そりゃあ邪魔してわるうござんしたね」
 まったく、何なんだこいつは。人がせっかく心配してやってるというのに、その気持ちを全くわかってなどいないのだ。
 それきり新一は動かない。しゃべらない。でも、死んだわけではないだろうとわかるから、オレは新一の言葉通りに部屋を出た。そのまま家も出て、その足で真っ直ぐに家へと帰った。
 家には母親がいた。まだ明るい内に帰って来たオレの姿を見て、驚いたように口を開く。
「お帰りなさい、快斗。ずいぶん帰ってくるのが早いのね。今日は新一君が帰ってくるんじゃなかったの?」
 新一が帰ってくるからこそ、久々に新一分を補給して、帰るのが面倒になったらそのまま工藤家に泊まってしまおうと思っていたのに。幸いにも今日は優作さん達は泊まりでいないとのことだったから。もちろんオレはそれなりの期待もしていたわけであって。
「ま、でもちょうど良かったわ。今日はお肉が安かったからね、快斗の好きなすき焼きよ」
「え、マジ?」
「後でメールでもしなきゃと思ってたんだけど。今日は珍しく早く帰ってきてくれて助かったわ。いっぱい食べてちょうだいね」
「そりゃあもう、言われなくても!」
 これは早く帰って来た甲斐があったと、オレは笑顔で階段を上ろうとした。そして思い出す。オレは何も好き好んで早くの帰宅をしたわけではないのだ。
「あー、お袋。それなんだけどさぁ、新一の奴、帰ってきたはいいけど風邪引いてて」
「え? 新一君が?」
「だから早く帰ってきたんだよ。あいつ、オレのこと邪魔とか言うから」
 確かにオレが傍にいても、ろくな看病なんてしてやれないが。
 でも、それにしたってあの言い草はないだろう。思い出してもむかむかとする。
「風邪って、どの程度の風邪なの? 熱は?」
「聞いてねぇからわかんねー。つか、あいつも計ってねぇんじゃねーの? 事件終わってすぐさま帰って来たっぽいし……。でもかなりふらついてたから、けっこうやばそう」
「大変じゃないの!」
 開けたばかりの冷蔵庫をすぐさま閉めて、母親はそう声を上げた。
「事件が終わってすぐに帰って来たってことは、まだ病院も行ってないのよね? そういえば、有紀子さん達は昨日から泊まりでいないって……」
「多分だけどそうじゃねぇの? つか、有紀子さん達またいねぇんだ」
 何せあの夫婦は、しょっちゅうのように家を空けているからわからない。当の息子である新一すら、その予定を把握し切れていないありさまだ。
 付けていたエプロンを外すと、母親は慌てた様子で時計を見上げた。そうしてから上着を羽織る。
「この時間なら、まだ間に合うわね。お母さん、ちょっと新一君を病院まで連れてってくるから」
「……や、でもあいつ、事件後なこともあって、とりあえず休みたそうだったぜ? 病院なんて明日でも……」
「市販の薬よりも、病院でもらう薬の方がずっと効くのよ。病院は早く行くに越したことはないんだから」
 そう言うと、慌ただしくも母親は車を出すと、工藤家へと向かってしまった。おかゆの一つぐらいは作りに行くかなとは思っていたけど、やれやれ。
 まだかろうじて病院は開いている時間だけど、病院という場はとりあえず混む。お約束のように混む。この調子では、夕飯もいつもより遅い時間になるかなと予想をつけて、オレはキッチンの菓子棚を開けた。そこからポテチを一袋掴んで、そのまま自分の部屋へと上がって行った。


 そろそろ腹が減って来た。
 時計の針は、七時過ぎを指している。普段であれば夕飯を食べている頃で、だというのに母親はちっとも帰ってこない。
「遅くなんのかなー」
 ポテチ一袋と、それからアイスを食べたおかげで、今にも飢えて死ぬことは無さそうだ。でも、そろそろ腹の虫が騒ぎだしている。今すぐに母親が帰宅してそれから夕飯の支度をしたとしても、食べられるのは八時近くになっている頃だろう。
「オレのすき焼きー」
 肉を思うと余計に腹が空く。駄目だ。何か別のことを考えよう。
 とりあえず気分転換にと、飼っている鳩と遊んでみたり、マジック用品を磨いてみたり、ついでに鳩小屋なんかも磨いてみたりしたが、気は紛れることはなく空腹だけが増して行く。そうして母親は帰ってこない。
「おせぇ!」
 七時半を過ぎて、まだ帰ってこないというのはどういうことだ。いくら病院に行ったとしても、そもそも病院なんて夕方には閉まるものだというのに。
「何やってんだよ」
 電話の一つも入れてみようか。空腹を訴えたところで文句を言われる時間でもない。
 と、思ったところで、タイミングよく電話が鳴った。けれどオレが手にしている携帯ではなく、家の固定電話だ。
 階段をすっ飛ばしながら駆け下りる。ディスプレイに表示されていた番号は、もちろん母親の携帯のそれだった。
「もしもし?」
『あ、快斗? お母さんだけど』
「んなこたわかってるよ! つーかおせーよ! オレもうずっと腹ぺこなんだぜ!?」
『あらごめんなさい。それでね、ついでに悪いんだけど、お母さんまだ帰れそうにないから夕飯は適当に食べてくれる?』
「な…っ」
『ごめんなさいね』
 全く悪いなんて思っていないだろう声音だった。
 何なんだ。人をこれだけ待たせた挙句の言葉だとは思えない。
「どういうことだよ!」
『病院がものすごく混んでて、すっごく時間がかかっちゃったのよ。その上薬局も混んでて、ついさっきやっと帰ってこれたばっかりなのよ。そうしたらね、新一君疲れて寝ちゃって』
「じゃあいいじゃん! もう帰ってこれんじゃん! すき焼き作れんじゃん!」
『馬鹿ね。そうしたら新一君のご飯はどうするのよ』
「いやいや、オレのご飯はどうなるの? ねぇ? オレのご飯は?」
『だから適当に食べなさいって言ってるでしょう』
 そんな馬鹿な。
『風邪引いてる時こそ、しっかりご飯を食べてもらわなきゃでしょう? でも、すぐに起こすのは可哀相だし…。もうちょっと待って、新一君が起きたら夕飯を食べさせてあげようと思って』
「すぐには起きそうにねぇんだろ? じゃあさ、一回帰って来て、すき焼き作ってもっかいそっち戻ればいいじゃん」
『あのね快斗、お母さんだって疲れてるんです。少し休ませてちょうだい」
「……だって!」
 疲れていることはわかっている。オレだって、そんな母親にもちろん無理をさせたいわけではない。わけではないけれど。
 でもだって今晩はすき焼きなのに。
「……オレ腹減ってんのに!」
『お腹が空くのは生きてる証拠! 良かったわね!』
「良くねぇよ!」
 何がいいんだ畜生。
『じゃあね、快斗。そういうことだから。もうちょっと留守番してなさいね』
「……何だよー! 新一にばっかりかまけやがって! 実の息子が可愛くねぇのかよ!」
『はいはい可愛いわよ。帰ったらいっぱい構ってあげるからね。じゃあね』
 投げやりに言って通話は終わった。思い切り受話器を置きながら、オレは声を大にして叫んだ。
「ちくしょーっ!」
 オレのすき焼き! すき焼きが!
「新一のアホっ!」
 風邪を引いたのは新一の所為ではない。そうわかっていても、この憤りを一体どこにぶつければいいのか。
 すっかりすき焼きを受け入れる体勢に入っていたオレの胃袋は、到底他の物を受け入れてくれそうになかった。かと言って、自分ですき焼きを作り、一人で食べようものなら、帰宅した母親にどつかれることはわかっている。それは嫌だ。
「……くそっ!」
 空腹のままに冷蔵庫を漁る気分にもなれなくて、オレは部屋に戻ってベッドにダイブした。
 けっこうな音を立ててしまったのか、小屋の中の鳩達が怯えたようにばたばたと羽を羽ばたかせる。ごめん、と視線だけで謝ってから、オレはぎゅっと目を閉じた。
 同時に、ぐうっとお腹が盛大に自己主張をしてくれた。


 鳴り響く音で、オレは目を覚ました。
 電話が鳴ってる、と思い、それならば出なくてはと意識が覚醒したところで、その音は途絶えた。あー、と小さく声を漏らせば、今度は手元にあった携帯が震えた。慌ただしいことだ。
「……あー、はいー?」
『快斗? 電話にはすぐに出なさい』
「……へーへー」
 うるせぇ、と気持ち的には言ってやりたいところだったけど、それで来月の小遣いを減額されても困る。高校生という身分の、何て片身の狭いことだろうか。
『寝てたの?』
 そんでもって、たったの一言二言で、そこまでわかってしまうのだから、母親というのは恐ろしい。もちろんオレの声も、だいぶぼやけたものだったとは思うけど。
 時計を見る。ほんの一瞬うたたねをしただけのつもりだったのに、もう九時半を回っていた。驚きだ。
「つーか、まだ帰ってこねぇのかよ。新一のやつ起きねぇの?」
『ちゃんと起きて、今はご飯食べてるわよ。それでね、快斗。ゼリーと、あとポカリスエットか何か買って来てくれない?』
「はあ? オレが?」
『あなた以外のだれに言ってると思ってるの』
 呆れたように言われたけれど、呆れたいのはオレの方だ。どうしてオレがそんな使いっぱしりのようなことをしなければならないのだ。
「……めんどくせー」
『そんなこと言わないで。お小遣いあげるから』
「行きます」
 高校生という身分の、何て扱いやすいことだろうか。
 我ながらそう思えて仕方ない。でも背に腹は変えられない。例え貰えるのが数百円であっても構わない。
 すぐさま通話を切って、最低限の物をジーンズのポケットに突っ込んでから、オレは家を出た。最寄りのコンビニに寄って、言われた物と、それからついでにオレの夕飯用に弁当を買う。小遣い以外にも、さすがに息子の弁当代ぐらいは出してくれるだろう。貰えなかったら新一にたかればいいだけの話だ。
 そうしてから、真っ直ぐに工藤家へと向かった。
 合い鍵で玄関を開け、スリッパに足を突っ込んで廊下を進む。電気のついていたダイニングの扉を開ければ、すぐさま母親の姿を見つけた。
「ほらよ」
「ありがと。早かったじゃない。……あら、そっちは?」
「オレの夕飯」
「適当に食べてなさいって言ったのに」
 食べてなかったの? と、母親は呆れたように肩をすくめたが、オレが「金くれよ」と手を出せば、黙って二千円を渡してくれた。おお、予想よりもだいぶ多い。
「明日の昼食代も込みね」
 と思ったから、そんなことはなかった。
「……ケチくさー」
「文句言うのなら返しなさい」
 オレは慌てて、受け取ったばかりの二千円をジーンズのポケットへと突っ込んだ。
 母親はそのまま、キッチンへと消えていく。オレは遅い夕食を食べるために、ダイニングテーブルへと向かう。そこには先客がいた。
「よっ」
 顔を見るのは数時間ぶりだ。今はきちんとパジャマに着替えているし、だからだろうか、余計に病人らしく見える。
「大丈夫かよ、オメー」
 おかゆを食べている最中だからか、それとも喉が痛いのか、新一はこっくりと頷いただけだった。その顔はずいぶんと赤い。
「熱どんだけあるんだよ」
 隣に座りながら、手を伸ばして額に触れた。とんでもなく熱い。
「……えっ、おまえ、本当に大丈夫かよ」
 夕方よりも上がったんじゃないだろうか。その時の熱を知らないけど、何となくそう思う。その時よりも、さらに具合が悪そうに見えるというか。
「……熱冷まし、飲むから」
「おお、飲め飲め」
 なるほど、この新一の様子を見ていたら、母親が帰ってこれないのも無理はないのかもしれない。心配というよりも危うい。何だかそんな感じがする。すき焼きの恨みも少しは消えそうだった。
 ビニール袋から、温めてもらった弁当を取り出す。どうにも肉気分から離れず、今日の夕飯は豚カルビ弁当だ。匂いがきついかなと、今さらながらにちょっと心配になったけど、鼻をすすっている新一にはどうせわからないに違いない。
「あ、うめぇ」
 一口食べたそれは、期待以上の美味しさだった。
 とはいっても、それは空腹という調味料が最大限に効いた結果なのかもわからない。
 もぐもぐとカルビを頬張るオレの横で、新一はそれはもう静かにおかゆをすすっている。実際には、その間にも咳をしたり鼻をすすったり鼻をかんだりと、大変賑やかではあるのだけど、食事自体は大層静かだ。
「……」
 唐突に、オレは、さっきの新一の言葉を思い出してしまった。
 熱冷ましって。解熱剤じゃなくて、熱冷ましって。
「……何笑ってんだよ?」
 別にそこまでおかしなことじゃない。幼児言葉なわけでもないし。でも、そう思うのに、何でかオレのツボに入ってしまった。自分でもわからない。
「快斗」
「……や、何でもねぇ」
「そういう顔じゃねぇだろ」
「や、本当。何でもねぇから。マジで、本当!」
「……」
 嘘つけよ、とでも言いたげな視線が横からは飛んできて、オレはそれを無視するように弁当を口にかきこんだ。カルビなんて冷めたらまったく美味しくない。
 後から食べ始めたオレと、先に食べていた新一が、夕食を終えたのは同時だった。新一の分の茶碗も持って、オレは立ち上がった。
「新一、薬飲むんだろ?」
「……ん、飲む、けど……ゼリー食いたい」
「さっきオレが買ってきたやつか? ちょっと待ってろ」
 キッチンに行けば、そこでは母親が何か調理をしていた。オレが流しに置いた茶碗を見て、安心したように微笑む。
「あら、新一君、全部食べれたのね。良かったわ」
「そんで、ゼリー食いたいってさ。……なに作ってんの?」
「明日の分にと思って。おうどんの汁をね。おかゆもまだ残ってるけど、それだけじゃ飽きちゃうでしょう?」
「……へぇ」
 オレが風邪を引いた時には、確か三食おかゆ続きだった気がするんだけど。まあ何も言うまい。
 グラスに水をいれて、冷蔵庫に入っていたゼリーを持ってダイニングへと戻る。両腕を枕にして顔を伏せていた新一は、オレの足音にすぐさま顔を上げた。とんでもなく緩慢な動作で。
「……あ、悪ぃ」
「いいって」
 そんないかにもな弱った態度で、そんなことを言われると、とっさに何と返事をしていいのかわからなくなる。
 グラスを置き、それからゼリーの蓋を剥がして差しだしてやれば、そこまでされるなんて想定外だったのか、新一は少しばかり苦い笑顔を見せた。人に世話を焼かれることが嫌いな奴だから、今日はさぞかし居心地の悪い思いをしたに違いない。そうわかりながら母親を差し向けたのはオレだけだと。だってオレのことは、当の本人が邪魔扱いするのだから仕方ない。
「美味いか?」
 新一はオレと違い、普段はゼリーなんて好んで食べる奴ではないから、何を買えばいいのかよくわからなかった。
 とりあえず、嫌いではないだろうと思う、桃の入ったゼリーを買ってみた。ほら、病人には桃缶がいいとも言うことだし。
「……気持ちいい」
「気持ちいい?」
 ゼリーを食べた感想として、それはどうなのだ。
「喉、痛いから。冷たいのが気持ちいい」
「あぁ」
 そういうことか、とオレは頷く。
 でも、だったら果物なんて入っていない、普通のゼリーの方が良かったのだろうか。少し後悔する。
「……美味そうかと思ったんだけどな」
「快斗?」
「あぁいや、何でも」
 慌てて首を振るオレを見てから、新一は手元のゼリーに視線を戻した。そもそも新一は風邪を引いているのだ。鼻だってきっとつまっている。味なんてろくにわかっていないに違いない。
 緩慢な動作でゼリーをすくう。ゼリーというよりも、ごろりと入った桃の実を。そうして、そのスプーンをそのまま新一はオレに差し出した。
「食べるか?」
「……え」
 まさか病人に、そんなことをされるとは思わなかった。
 いや、そうじゃなくても。
 普段の新一だって、そんなことは滅多にしてくれないものだから。
「……あ、悪ぃ」
 数分前と全く同じように、どうしてか新一は呟いた。居心地が悪そうに。いや何なんだ、一体、さっきから。
「え……? え、いや、悪いとか、えっ?」
「風邪、うつるだろ。オレ、こんな、熱出てて」
「……え」
 目まぐるしい状況に、オレの頭はどうにも付いて行かない。
 でも、何とか身体は動いた。だって、この状況で動かないだなんてどうかしている。男が廃る。
「……あ、おまっ!」
「ん、美味い」
「だから、風邪うつるって……!」
 大声を出して喉が痛んだのが、新一は空になったスプーンを握ったままごほごほと咳を漏らした。申し訳なく思いながらも、オレはその背をさするぐらいのことしかできない。でも、喉に何かを詰まらせたわけでもないから、オレのそうした行為はあまり意味が無かったのだろう。
「もうさ、同じ部屋にいんだから今さらじゃん?」
 風邪がうつるとかそんなの。
「……その確率を自ら上げてどうすんだっつーの」
 目元が少し潤んでいる。痛む喉で、その上咳をしたからだろう。そこに情事の後のような色っぽさを感じてしまうオレがどうかしているのだ。
「つーか、何で風邪引いたの。だれか風邪気味な刑事でもいたわけ?」
 新一は黙ってスプーンを動かす。間接キスだなぁと思ったけど、それは心の中に留めておいた。今さらだなと思ったからだった。オレはそれでも嬉しいのだけど。
「新一?」
「……川に落ちた」
「は?」
「川に落ちたんだよ」
 聞こえていないと思ったのか。新一は律儀にも同じ言葉を繰り返してくれた。
 川に落ちた。川に落ちたって。
「……マジで?」
「冗談で言うか、アホ」
「いやそりゃそうだけど」
 何でまた。いや、事件の中でというのはわかるけど。恐らくは犯人を追いながらのことだとはわかるけど。
「……探偵も身体張ってんなー」
 それなりにプライドの高い新一からしてみれば、これはあまり離したい類のものではないだろう。具合が悪い時ともなればなおさらだ。先ほどよりは、少しばかり元気になったようにも見えるけど。食事をした所為だろうか。でもその顔は依然として赤いままだ。
「つーか、気を付けろよなー、そんなん」
「うるせぇな。言われなくてもそうしてるっつの」
「気ぃつけてんのに、川に落ちたりナイフで刺されたり、足挫いたりするわけだ? いやはや、本当探偵っつーのはあれだね、身体っつーか命張る仕事だね。オレには到底できないわー」
「……快斗」
 多分普段だったら、蹴りの一つも飛んでいる。それがないのは、一重に新一が風邪を引いているからだ。
 それがいいことなのかどうなのか。物足りなく思ってしまうオレもオレなのだろう。別にマゾではないというのに。
「あのな、心配だっつってんの」
 ゼリーの容器は空になっていた。握っていたスプーンを、オレはそっと奪い取る。
 さぞかしその唇は、甘いことになっているんだろうなぁなんて、思ったら我慢なんてできなかった。最初からするつもりもなかったけど。
「……んっ」
 病人相手に、そうそう無茶なこともできない。だから、軽く唇を合わせて、そうして離れる際にべろりと舐め上げるだけに留めた。それだけでも、新一の顔は真っ赤になっていた。いやこれは元からか。
「……な、に、すんだよオメーは……っ!」
「んー、味見? ゼリー美味しかったから?」
「なに、馬鹿なことして……風邪うつるってさっきも……!」
「だから、うつせよって言ってんの」
 どうして言わなければわからないのだろう。普段はあれだけの推理力を誇っている男が。
 真っ赤な顔のまま、まるで金魚のように口をぱくぱくとさせる。ヤることなんてとっくのとうにヤってるのに、未だにキスだけでこんな態度になるところに呆れてたまらない。それ以上に胸の奥を鷲掴みにされるようでたまらない。何なんだ本当。
「……うつせって」
「オメーが辛い思いしてるよりも、オレがそうなる方がマシなの。わかる?」
「わっかんねーよ……っ!」
 怒鳴って、また新一は咳き込む。オレはまたその背中をさする。同じことの繰り返しだ。呆れる程に。
「大丈夫かよ」
「……おまえもう帰れ」
 言われることは、全く夕方と変わらない。
「へぇへぇ。この時間だし普通に帰るって」
「オメーがいると邪魔なんだよ」
「はいはい。邪魔で悪かったですねー本当にねー」
「もう来んな。マジで来んな。顔見せんなこの野郎」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
「うるせぇ。……明日ゼリー買ってこいよ」
「わーってるっつの」
 言っていることがまるで真逆だ。でもそれが新一らしい。素直でないところが可愛いだなんて、真顔で思ってしまうオレもどうかしているのだ。とっくのとうに。
 グラスを差し出せば、新一は黙って薬を飲む。上を向き、飲み込む際にごくりと動く喉仏に、自然と視線が惹きつけられる。細い首だ。まるで簡単に折れそうな程に。
「しっかり休めよ」
 くしゃくしゃと頭を撫でた。ついでに、その頭に軽いキスをする。降って来た腕を、オレは簡単に避けた。そんなことをしていると、キッチンから母親が顔を出した。
「新一君。明日の分のご飯、作っておいたから。おうどんなんだけど、麺を入れると伸びちゃうから、食べる前に入れてあっためて欲しいんだけど、大丈夫かしら?」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「まだおかゆの残りもあるから。昼間はそれを食べて、そうね、面倒だったら夕方にでも快斗を呼んでくれていいから」
「そうします」
「おいこら」
 言われなくても来るつもりだった。うどんぐらい幾らだって茹でてやる。
 けど二人の、オレを使って当然という姿勢は何なのだ。新一は滅多にオレに使われてなんてくれないくせに。これを不公平と呼ばずしてどう呼べと。
「お大事にね。何かあったらすぐに呼びなさいね」
「はい」
「警察から連絡が来ても、治るまでは行っちゃ駄目ですからね」
「……はい」
 新一は少し苦い顔になる。帰宅した時でさえあの熱だ、当然刑事達にも新一が風邪をひいていることはばれているだろうから、当分は連絡が来ることもないだろう。
 新一が二階に上がって行くのを見送ってから、オレ達も家を出た。恋人としては、普通泊まり込んで看病したりすんのかなぁとも思ったけど、当の本人がそれを望んでいないのだから仕方ない。精々明日は、ゼリーを山ほど買って見舞いに来てやることにしよう。
「すき焼きは、明日ちゃんと作ってあげるから。新一君を責めるようなこと言ったら駄目よ、快斗」
「……や、言わねぇけど、普通に」
 そんな病人相手に。
 一体オレはどこまで子供だと思われているのだ。
「だって新一君、ずいぶん気にしてたのよ。お母さんが快斗の夕飯ほっぽって看病に来たものだから。あなたがお腹空かしてるから帰ってやれって、自分が辛いのにそんなことばっかり言うんですもの」
「……マジ?」
「まったく、病人なんだから余計なことは気にしなくていいっていうのに。快斗なら無人島に置き去りにされても大丈夫よって言ってやったけど、でも悪いからってそればっかりで」
「いやいや無人島って。息子を何だとちょっと」
 もう少しでいいから息子を気にかけてくれないものだろうか。
 と、思いながらも口元が緩む。こんな時こそポーカーフェイスと、言い聞かせたところでもう遅い。
「愛されてるわねぇ」
 肘で軽く突かれる。軽くと言いながらもけっこう痛い。
「でも不思議よね。新一君ならそれこそ選り取りみどりだと思うのに、うちの子のどこがいいのかしら」
「……それ言う? 母親が言う? 本人目の前にして言う?」
「まあでもお母さん、新一君が息子になってくれるなら嬉しいわー」
 冗談なのか本気なのかもよくわからない。とりあえず、新一が聞けばさらに熱を上げてぶっ倒れそうな台詞だとは思った。
「あのなお袋。それ新一には絶対に言うなよ」
「はいはい、わかってるわよ。新一君は照れ屋さんだものね」
 照れ屋なんて一言で片づけられる問題だろうか。オレ達の関係は、色々と規格外なものだと思うのだけど。世間一般の常識とか、性癖とかいうものから。でもまあ自分からそんな突っ込んだ話をする必要もない。そもそも母親と交わしたい会話ではない。
「あー、お母さん、新一君みたいな礼儀正しくて優しい息子が欲しかったわー本当」
「……うっせーなぁ!」
 風邪引いたと聞けばすっ飛んで行き、病院に連れてっておかゆを作って食べさせて、もう十分息子みたいなものだろうと思ったけど、悔しいからそれを言うのは止めておいた。
 だってそもそも、新一はオレのものだからして。
 言えばきっと蹴りが飛んでくるだろうけど、そのぐらいの権利を内心で主張するぐらいはいいだろう。何せ残り少ない小遣いで、明日はゼリーを買ってってやるのだから。ぜひとも新一には、オレの無償の愛を受け取ってもらわなければ。
 オレほど新一を愛してる男も、そうそういないのだから。
 
...12.06.28
新一風邪引き話でした。受けが風邪を引いたのに、看病するのが攻めではなくその母親という。
高校生で、家族ぐるみの付き合いをしてたらこんなのもありかなーと。快斗の看病期待された方はすみません。