記憶喪失な話
「大変なことになったわ」
 呼び出されて慌てて駆け付けたオレに、灰原女史はそんなことを言った。
 至極真面目な顔をしているが、女史は大体にしていつも真面目なのだ。ふざけているところなど、オレは今のところ見ていない気がする。新一はどうなのかわからないが。
「新一がどうしたの」
 呼び出された時点で、新一に何かあったことは確かだった。
 オレと女史との関係は、つまりそういうものなのだ。オレとしては可愛い女の子とお友達になるのはやぶさかではないのだが、相手がそれを望んでいなければどうにもならない。そういうことなわけで。
「落ちついて聞いてね、黒羽君」
 見た目は小学生な女の子に、君付けをされている。傍から見ればけっこうな光景だろう。
 落ちつけというその言葉に、まるで反比例するように、オレの心臓は激しくなっていく。「落ちついて聞いて下さい」その台詞の何て攻撃力の高いことだろう。映画なんかでよく耳にする、「いい知らせと悪い知らせがある」に匹敵するぐらいだ。
 いやまだそちらの方がいいのかもしれない。だっていい知らせもあるのだから。この場合には悪い知らせだけと来ている。
「彼ね、記憶喪失みたいなの」
 そんなことを言われて、オレが落ちついていられるわけもないのである。

「新一、新一っ! 記憶喪失ってどういうこと、どういうことなの……っ!」
 ぐるりと玄関に回り込むことも面倒で、オレは隣家から真っ直ぐ直線に工藤家に走って行った。オレ程の身体能力を持ってすれば、壁を超えることもひょいっと一秒なのである。
「新一っ!」
 窓から飛び込んだリビングのソファの上に、新一はぼーっと座っていた。
 ぼーっとしているように見えたのは、入り込んできたオレに気づき、振り返るまでにも、数秒程時間がかかっていたからだ。
「新一、新一!」
 とりあえずオレは、ぎゅうぎゅうとその身体を抱きしめた。
 いつも通りな新一だ。温かくて柔らかい。オレの腕に馴染んだ感触でもあった。けれどいくらぎゅうぎゅうと抱きしめても、蹴りが飛んでこないどころか、ちっとも嫌がられないところはいつも通りではなかった。
「新一」
 オレはその顔を覗き込んだ。
 驚いているように、見えなくもない。けれどそれよりかは、よほどぼーっとしているように見える。目の焦点があまり合っていないと言うべきだろうか。
「オレのことわかる?」
 さっきから一度も、そういえば新一の声を聞いていない。
 オレと新一の口数は、多分だれがどう見てもオレの方が多いと言うべきあれだろうけど、それでも新一だって喋らないわけではないのだ。本でも読んでいない限りは。いや本を読んでいたって喋ることは喋る。「うるさい」とか「邪魔だ」とか「出てけ」とか「コーヒー」とか。あ、思い出して泣きそうになる。
「オレのこと、だれか、わかるよね?」
 我ながら懇願するような口ぶりだと思った。オレに抱きしめられたまま、新一はゆっくりと首を傾げた。
「……だれ?」
「そ、そんな……っ!」
 衝撃を受けて、オレはよろよろと床の上に倒れ込んだ。毛足の長いラグが、オレを優しく受け止めてくれる。
 冗談にしたってあまりなそれだった。すぐには起き上がる気力もわいてこない。心配したように、ゆるゆると新一がオレの顔を覗き込んできた。いつもより丸い目が可愛い。
「だれ?」
「……っ」
 そんな可愛い顔で止めを刺さなくても。
 容赦がないところばかりは、通常営業なのかもしれない。泣きたい気持ちを堪えて、オレはこれまたよろよろと起き上がった。
「……自分のことは、何か、覚えてるの?」
「だれ?」
「だから、自分のこと。新一自身のこと」
「しんいち?」
「だからそれが新一の名前だろって……!」
「だれ?」
 駄目だ。
 まるで会話が噛み合わない。
 目の前がチカチカとするようだった。かつてこんなにも、新一と身のない会話を交わしたことがあっただろうか。いや、無い。思わず反語にもなるというものだ。
「……自分のこと、何も、覚えてないの?」
「覚えてない」
「オレは高校生探偵工藤新一。幼馴染で同級生の毛利蘭と遊園地に遊びに行って、黒ずくめの男たちの怪しげな取引現場を目撃した。取引を見るのに夢中になっていたオレは、背後から近付いてくるもう一人の仲間に気付かなかった。オレはその男に毒薬を飲まされ、めが覚めたら身体が縮んでしまっていたってことも覚えてないの!?」
「何それ?」
「オレのことも!? こんなにイケててマジックが上手くて顔も良くて頭がいい恋人黒羽快斗のことも覚えてないの!?」
「だれ?」
「怪盗キッドのことも!? オレ達のあんなに熱くて情熱的な月夜の追いかけっこのことも覚えてないの!?」
「だれ?」
「そ、そんな……っ!」
 オレは再び床の上に倒れて行った。今度はよろよろなんてものではなく、思い切り額からごつっと倒れて行った。それでもやっぱりラグはオレを優しく受け止めてくれる。
 何だか泣きそうだった。


 とは言っても、泣く暇もなくすぐさま灰原女史がやってきた。
 そうしてオレを引きずるようにして、隣室へと向かう。二人きりになって、ようやく女史はオレの服から手を離した。
「哀ちゃあああん。新一がー、オレのこと覚えてなかったあああああ」
「だから、記憶喪失だって言ったでしょ」
「でも、でもっ! オレのことまで忘れるなんて! あんなに深く深く愛し合っていたオレ達の日々は何だったのかと……!」
「記憶喪失っていうのはそういうものよ。あなたのことだけ都合よく覚えてるなんて、そんなわけないでしょ」
 ラグと違って灰原女史は手厳しい。もうちょっと慰めてほしいなぁなんて思ったけれど、別にオレだけが被害者というわけじゃないのだ。そもそもこの場合の被害者というのはだれだ。
「しっかりしなさい」
 ついでに渇まで入れてくれる。
「……うううう。しっかり、しっかりしたい……」
「あなたが工藤君のサポートをしなくて、一体だれがするっていうのよ」
「哀ちゃんだっているじゃん」
「小学生はね、毎日学校があるのよ」
 大学生だってあるんですが。
 でもまあ、そんなことを言っている場合ではないのだ。何とかして気持ちを切り替える。切り替えの速さには定評のある黒羽快斗だ。
「何でまた、新一はあんな状態に?」
「わからないわ。私が来た時には、もうあの状態ね」
「あの状態っていうと?」
「あの状態はあの状態よ。ぼーっとした様子で玄関に座り込んでたわ」
 その時の様子を思い出したのか、わずかに眉を顰めて女史は言った。
 つまり第一発見者は哀ちゃんだったということだ。家の玄関で、一体新一に何があったというのだろう。
「新一は今日一日、何してたのかな」
 どうして今日は休日なのだろう。おかげで大学もなければ新一と顔を合わすこともなかった。いや、休日だろうと何だろうと、オレがここにやってきていれば良かったのだが。昨日から泊まり込んでおけば良かった。
「多分、何か事件に呼び出されたんだとは思うわ」
 早朝に出かける物音がしたから、と。
「早朝?」
「四時ぐらいかしらね。ちょうど寝ようとしたところだったから気付いたのよ」
「寝ようとしたところって……」
 オレもよほど夜型の生活をしているとは思うが、その生活習慣はどうなのだろう。小学生の成長期にと言う前に、そもそもが人として。
 でも、それはありがたい証言でもあった。何せ本人が何も覚えていない以上、そうやって今日の新一の行動を推理していくしかないのだ。オレは探偵ではないというのに。
「じゃあつまり、外で何かあったってことかなぁ」
 いやだけど、外で何かあったのなら、哀ちゃんが発見した時に、新一が玄関にいたというのがおかしくなる。
 オレのことも自分のことも、多分だれのことも忘れているような状態で、帰路がわかるものだろうか。動物的な帰巣本能がそこまで働くものなのか。
「あ、何かまた、妙な薬を飲まされたとか?」
 記憶を全て消す薬など聞いたこともないが、それを言えば身体が子供になる薬だって聞いたこともないのだ。
「どうかしら」
 けれど女史は懐疑的なようだ。
「工藤君ね、頭にたんこぶがあるのよ」
「たんこぶ?」
 それは気づかなかった。抱きしめた時に、頭までは触れなかった。
「普通に考えたら、まあ脳に何らかの障害が出る場合っていうのは、頭を強く打ちつけた時だから」
「……玄関ですっ転んで頭ぶつけて、それで記憶を失くしたってこと?」
 それはちょっと。
 それはあまりにも。
 そんなことで忘れられただなんて、恋人としてというかそれこそ人として悲しすぎるというか。
「玄関で転んでなのかはわからないわね。それこそ、多分事件で出かけてたんでしょうし。頭を強打したって可能性も考えられるわ」
「でも家まで帰ってきてるんだよね?」
「帰って来たところで、症状が現れたのかもしれないわ」
「……なるほど?」
 運動などをやっていても、頭をぶつけた時に、少し時間が経ってから症状が現れることはままあるものだ。そういうこと、なのだろうか。それにしたって、記憶を失うなんて聞いたこともないが。
「工藤君だって、普通に転んだぐらいなら、そこまで頭をぶつけることもないと思うのよ」
 まあ普通は、とっさに手をつくものだ。小さい子ではないのだし。
「何か荷物が散らばってたなんてこともなかったし」
「……ううーん」
 両手がふさがってもいない、健康な大人が、何もないところですっ転んで頭をぶつける。確かにあまり考えられない。運動神経だって悪くないのだし。
 工藤新一が、ということを考えると、確かに何か事件に巻き込まれて、そこで犯人に頭を殴られたって線を考えた方がよほど自然だ。自然なのもあるし、新一の名誉のためにも、ただすっ転んだという方向性では考えたくないと言うべきか。
 案外哀ちゃんもそうだったりするのだろうか。それはオレだけなのか。恋人は間抜けであるよりもかっこつけであった方がいい。
「まあでも、たんこぶはただ意識を失った時にできたもので、その前に何らかの薬を飲まされたって線も考えられなくはないわね」
「あぁ」
「だからとりあえず、一通りは調べてみるわ。まあ、薬を飲まされていたとしても、とっくに吸収されてるでしょうから、無駄な気もするけど。念のためね」
 結局はそのたんこぶから推測する以外ないということなのだろうか。現状では。
「……全くなぁ」
 やっと小学生から元の身体に戻ったと思いきやこれだ。
「本当、世話のやける人よね」
 ため息とともに吐かれた言葉に、オレは心の底から同意した。


 はてさて、それから小一時間程して、女史に連れられ新一が戻ってきた。
「以前のデータと全て照合をするのには、少し時間がかかるけど。でも、すぐにわかるものだけでも、数値的には問題がないわね」
「健康体ってこと?」
「数値的にはね」
 それだけを言って、灰原女史は慌ただしく家を出て行った。夕飯の買い物があるのだという。確かに見た目が小学生ともなれば、あまり遅くに買い物には行けないだろう。既に日は暮れかけている。付き添うべきかと思ったが、オレには今それよりも心配な存在が傍にいるのだ。
「なあ」
「……はい」
 この状態の新一から話しかけられるのは初めてで、オレは柄にもなく緊張する。
「まださっきの、するのか?」
「さっきの?」
「何か刺したり、とか」
「刺したり」
「……痛かった」
 そう言って新一は、自身の右腕を押さえていた。見ればそこには、真白い四角の絆創膏が幾つも貼られていた。採血なり何なりをしたのだろう。確かにあれは痛い。
「もう大丈夫だよ」
 オレはぽんぽんと、その頭を撫でていた。
「哀ちゃんは買い物行っちゃったし。今日はこれで終わり」
「終わり? もうしない?」
「しないしない」
 隣家からここへと戻されたことも、新一は検査の続きだと思っていたのだろうか。とたんに浮かべた表情が柔らかくなる。
「疲れただろ。何か飲み物淹れてきてやるから待ってな」
 例え記憶を失っているんだとしても、嗜好そのものは変わらないはずだ。同じ舌を持っているのだし。
 そう考えて新一にはブラックのコーヒーを、自分にはココアをいれて部屋に戻る。先ほどと同様、新一はラグにぺたりと座りながらオレのことを待っていた。
「ほい」
「……ん?」
「コーヒー」
「こーひー」
 繰り返すように言ってから、新一は受け取ったマグの中身をまじまじと見つめている。
 まさかコーヒーの存在まで忘れてしまったのだろうか。記憶喪失というのはそこまでのものだったか? いやでも、言葉は問題なく喋れているわけであって。何もかもを忘れたわけではないのだ。
「美味いから。飲んでみ」
「うん」
 こっくりと頷いて、新一はマグカップに口をつける。熱いコーヒーをこくりと飲んでから、満足そうに微笑んだ。
「おいしい」
「そりゃ良かった」
 やはり味覚に変わりは無かったようだ。身体は変わっていないのだから当然だろう。
「おいしいな、これ」
「あー、いい豆使ってるからな」
「おいしいな。すごくおいしい」
「うん」
「とってもおいしい」
「……うん」
 何だか、語彙力が貧相になってやいないだろうか。
 言葉を全て忘れたわけじゃなくても、幾つかは忘れているのかもわからない。その中にコーヒーという単語も含まれていたのだろうか。何て微妙な忘れ方だ、それは。
「あー……」
 何かを言いたい。
 言いたいが、何を言えばいいのかわからない。
 この状態の新一に、一体何を言えばいいというのか。さっきは少し取り乱しすぎたが、どうやって接するのが一番なのだろう。新一にとって。
 哀ちゃんに聞けば良かったと思ったが、哀ちゃんだってその辺りのことに関してプロなわけでも何でもないのだ。解毒剤的なあれがあったから、すっかり新一の主治医的な気分でいたけれど。
「なあ」
 結局、悩んでいる内に、再び新一の方から話しかけられた。
「なに?」
「さっきの人さ」
「哀ちゃんのこと?」
「……あんま好きじゃないな。痛いことするし」
 何て言葉を返せばいいものか、先ほど以上にオレは考え込んでしまった。
 何というか、何というか。
 幼稚園児が、注射痛いから病院の先生嫌い、っていうのと、似たものを感じてしまったというか。そんな馬鹿な。
「……そんなこと言ったら駄目だって。新一のために、色々と検査してくれてるんだろ」
「けんさ?」
「だから、何か刺したり、そういう痛いこともさ。新一のためにしてくれてるんだろ。原因を調べようとしてくれてんだからさ」
「そっか」
 わかっているんだかどうなんだか。
 思わず不安になってしまうオレの前で、新一は小さく頷いた。そうして美味しそうにコーヒーをすする。
 何だろう。
 記憶喪失、というか。
 記憶と共に、新一はもっと大事なものを忘れてしまったんじゃないのか。というか、垂れ流してしまったんじゃないのか。脳みそ本体を。
「でもさぁ」
「……ん?」
「オレ、お兄さんの方がいいな」
「お兄さん?」
「お兄さん」
 にっこりと笑って、マグカップを持っていない方の手で、新一はオレの服の端を掴んだ。
つまりなんだ。お兄さんて。つまり。
「……オレのこと?」
「痛いことしないし、おいしいものくれるし」
 にこにこと新一は笑っている。そんな笑顔、楽しみにしていた新刊を手に取った時以来、見ていないものだった。オレに向けられるのは初めての笑みだった。
 オレは何もしていない。ただコーヒーを淹れただけだ。それだけでこの笑顔。
「……オレのこと好き?」
「ん?」
「あ、いや、別にそういう意味じゃなくてその」
「うん、好き」
 これまたにっこりと微笑まれる。まるで笑顔の大安売りだ。
「……マジかよ」
 何だかなぁ、と思った。
 脳みそを垂れ流してしまってたんだとしても、これはちょっと嬉しい。

 コーヒーを飲み干し、それだけじゃ胃に悪いからと、戸棚から探し出してきたクラッカーを食べ切り、満足したのか新一はそのまま、ラグの上で丸くなって眠ってしまった。
 飲んで食べたら寝るって。まるで小さな子供だ。
 今度は身体ではなく、精神の方が後退してしまったのだろうか。そんな馬鹿な。
 程なくして買い物を終えた哀ちゃんが帰宅し、ぱぱっとカレーを作り、自分たちの分だけを別の鍋に入れて帰って行った。
 くうくうと眠る新一を見て、少し呆れたような顔もしていたけれど、それ以上は何も言わなかった。身体を休めるのはいいことなのだろう。何せ普段の新一は、食事も睡眠も削ってひたすらに事件事件とかけずり回っているような人だから。
 新一の寝顔を見ながら、オレは哀ちゃんお手製のカレーを頬張った。カレーはいつ食べても美味しい。その内新一も起きるだろうと思っていたが、これが数時間経っても起きない。洗い物を終えてもシャワーを浴びても、ニュースを見終わってもまだ起きない。
「おいおい」
 いつまで寝ている気なのだ、こいつは。
 起こした方がいいだろうかと思ったが、そういえば今日は早朝に出かけたということだったし、それを考えれば寝れるだけ寝かせておいた方がいいのかもしれない。夕飯を食べていないことが気になったが、人間一食抜いたぐらいで死ぬわけでもない。
 まあ一食抜きで済んでいればいいのだが。
 そんなことを、寝顔を見ながらつらつらと考えていたら、いつの間にかオレも眠ってしまっていた。気付いた時には朝の七時だ。
「うわぁ……」
 何ともしっかり眠ってしまった。まぁ健康的なのはいいことだ。
 ベッドではなくそのままリビングのラグの上で寝こけてしまったのだが、そこはさすがは工藤家の高級ラグだ。身体が痛いということもない。無意識にクッションを枕代わりにまでしていた。何ともオレらしい。
 けれど驚くのはそこではない。横を見れば、新一が変わらない寝顔を見せていた。こいつは一体何時間寝ているんだ。何時間というか、軽くもう半日だ。
「新一、新一」
 さすがに声をかけ、軽く肩をゆすった。
「……ん」
 唇から小さく漏れた声は色っぽい。じゃなくて。
「新一、いい加減に起きなって。ほら」
「……んう」
 先ほどよりも大きな声を漏らして、のそのそと新一が身体を起こした。それでも、まだその両目は瞑られている。寝過ぎでくっついてしまったのかもわからない。
「おはよ」
 意識をして大きめな声をかければ、新一はごしごしと右手の甲で両目をこすった。子供っぽい態度だった。
「……お兄さん?」
 あ、やっぱり。
 起きたら記憶が戻ってたりしないかななんて考えたんだけど、そんな簡単にはいかなかったようだ。漫画の世界ではないのだから仕方ない。
「おはよう」
「……おはよう」
 挨拶自体は忘れていなかったらしい。よしよし。
「お腹減ってるだろ。新一、昨日夕飯食べる前に寝ちゃうんだからさぁ」
「んー……」
 寝ぼけた声が続いている。さて、まずは風呂に入れたものか、先に胃袋にカレーを突っ込むべきか。このままだと、新一がまずカレーの皿に顔を突っ込みそうだと思う。それはいかん。
 ボタン一つで風呂を沸かし、その間に新一の洋服を準備する。リビングに戻れば、新一の姿が無かった。もとい、再びラグの上に転がっていた。
「ほらほら、いい加減に起きる! いつまで寝る気なんだよって」
「……眠い」
「寝過ぎなんだよ。お風呂入ればすっきりするから」
「おふろ」
「そう、お風呂」
 新一の腕を引っ張って、「お風呂はこっち」と案内する。家主をそうして案内するだなんて、全くおかしいもんだなぁと思う。
 無駄に洗面台が幾つもある洗面所を、新一はきょろきょろと見回している。オレも初めて来た時はそうしたもんだった。いまだに、現在一人暮らしである新一の家に、どうして人間の数以上の洗面台が必要なのかはさっぱりわからない。
「はいこれ着替えね。これ新一の服だから。お風呂の入り方ぐらいはわかるよね?」
「……んー」
 眠いのかはたまたわからないのか、オレの方がよくわからない返事だった。もう少しはっきり答えてくれないものだろうか。
 とりあえずまぁ、さっさと風呂に入れてしまうに限る。
「ちゃんと温まりなね」
 声をかけて、オレは静かに扉を閉じた。


 ゆっくりとカレーの鍋を温める。
 耳を澄ましても、シャワーの音は聞こえない。これは新一がシャワーを使っていないのかどうかというよりも、この家が無駄に広すぎて音がさっぱり聞こえないのだ。オレが本気になって耳を澄ませば音を拾うことも可能だとは思うが、そこまでして人のシャワーの音を拾うというのも。例えそれが恋人相手と言っても何というか。
 カレーだけではあれかと思って、野菜室にあったレタスを適当に千切ってサラダにする。サラダなんて、ドレッシングをかければそれだけでサラダになるのだ。申し訳程度にクルトンを散らしてみる。これで完璧。
「おっ」
 準備が整ったところで、早くも新一の戻ってくる足音が聞こえた。
「よ、お帰り、新一。風呂の入り方わかった……」
 尋ねるオレの声が、途中で思わず止まってしまった。
 ぼたぼた、ぼたぼた。
 そんな擬音語が聞こえてくるような、そりゃもうものすごい水の垂れ方だった。いや、むしろ普通にびしょびしょと言おうか。
「風呂はいってきた」
「……あ、うん」
「ちゃんと入れた」
 どこか褒めてほしそうな顔で新一は言う。そんなつもりはないのかもしれないけど、何となくオレにはそう見えてしまった。どうしたことだこれは一体。
「いや、あのさぁ……身体は拭かなかったんですか」
「身体?」
「何でびしょびしょなの」
「びしょびしょ」
 とりあえず、新一がまだバスタオルを手にしていたから、オレはそれを取って顔と首筋を拭いてやった。拭いてやりながら違和感に気づく。
「新一、髪洗ってないの?」
「髪?」
「っていうか」
 首筋に鼻を近づける。くんくん、と匂いを嗅ぐ。シャワーの音に耳を澄ますのと同様、これもまたどうなのかと思ったが、そこはほら恋人だから。いやそうじゃなくて。
「身体も洗ってないの?」
 目に見えて汚れているとか臭うとかそんなわけではもちろんなくて、いつものボディソープの香りがしないのだ。風呂上がりの新一からは、いつだって花の香りがしているのだ。
「洗ってない」
「何で。わかんなかった?」
 そういえば、ボディソープがどれとかシャンプーとリンスがどれとか、そんな説明はしていなかった。見ればわかると思っていたのだ。
「だって」
「だって?」
「洗えって言わなかったから」
「……」
 そう言われたらそうなのだけれど。
 でもだって、風呂に入れって言ったら、それはイコールで髪と身体も洗えってことではないのだろうか。髪は別に毎回毎回洗わなくてもいいような気はするけど。それでも身体は。昨日もお風呂に入っていないのだし。
「……とりあえず、もっかいお風呂行こうか」
「入ったのに?」
「それびしょびしょだし」
 どちらにしろ着替えなきゃいけないのだ。そのついでにもう一度風呂に入って、髪と身体を洗うぐらいしてもいいだろう。というか、オレが気になるからぜひとも洗ってほしいというか。
「お兄さんは、お風呂が好きなの?」
「……お兄さんじゃなくて快斗ね」
 そういえば、何で新一はオレをお兄さんと呼ぶのだろう。同い年だというのに。同い年とは覚えていなくても、大体年齢が同じことなんてわかるだろうに。
 哀ちゃんのことも、お姉さんと呼んでたりして。さすがにそれは無いか。
「はいばんざーい」
 オレも調子に乗って、少し子供扱いをしてしまったり。
 新一は大人しくオレの言うことを聞いている。大人しくオレにばんざいをされている。何ともむず痒い。
「あのね、こっちがボディソープでね、んでこっちのスポンジにつけるわけ。わかる?」
「いい匂い」
 ふんにゃりと新一が笑う。そりゃそうだ、これは新一が気に入っている香りなのだから。
 十分身体は濡れていたが、それでもシャワーでもう一度身体を濡らす。その後でオレがスポンジをすべらせても、やっぱりどこまでもされるがままだ。こんなに大人しい新一なんて、両手両腕を骨折して病院のベッドに固定されている時ぐらいしか見れない気がする。
 そう思えば、オレは今何とも貴重な体験をしていると言うべきなのだろうか。
 一時的な経験で済めばいいのだけれど。まあ今そんなことを考えても仕方ない。
「お風呂はいろ」
そして身体を洗い終えて、さて次はシャンプーだとオレが手を伸ばしている間に、新一はさっさと湯船に浸かってしまっていた。おいおい。
「新一くーん?」
「ん?」
「いやあの、まだシャンプーが残ってるんですけど」
「あぁ」
 忘れていたのだろうか。脳みそが垂れ流されていることによって、記憶力も少し悪くなってしまったのかもしれない。
「ん」
 さあどうぞと言わんばかりの態度で、新一は頭を突きつけてきた。湯船の縁にもたれかかって、床を見るような体勢で。オレからは新一の後頭部がよく見える。
「……えーっと」
 どこまで人任せなんだろう、この子は。
 自立心はどこに行ってしまったんだ。素直に疑問に思ったが、このままではせっかく温めたカレーが再び冷める一方だ。まあいいかとシャワーで髪を濡らす。新一はずっと大人しい。
「お客さん、かゆいところはありませんかー?」
「お客さん?」
「あー、うん」
 定番なその問い掛けも、今の新一には不思議に聞こえるようだ。
 わしゃわしゃと両手を動かしながらも、何なんだろうなぁとオレは考え込む。
 言葉は喋っている。日本語は忘れていないということだ。記憶喪失と一言に言うが、どんな法則性があるのだろうか。それともそんなものは元々無いのだろうか。その辺りにはオレにはさっぱりだ。
 手早く髪を洗い終える。丁寧にシャワーで流し、もういいよと声をかければ、新一は顔を上げた。そうしてぶるぶると頭を振る。
「ぶわっ」
 何でまたそんな犬みたいなことを。
「ちょっ、オレまで濡れたじゃん!」
 これまでせっかく、両手両足をまくって、濡れないよう気を付けていたというのに。
「お兄さんも入れば?」
 にっこりと笑って新一は言う。
 そのためにオレを濡らしたのだとは、そんな風には考えられない、まるで邪気のない笑みだった。それこそ新一ではないような。
「……うん、入る」
 中途半端に濡れたままというのは気持ちが悪い。脱いだ服を脱衣所に放り投げて、オレはそのまま浴槽へと飛び込んだ。跳ねたお湯に、新一がぱちぱちと瞬きを見せる。
「あー……」
 朝風呂というのは何とも気持ちがいい。出ればすぐさま、美味しいカレーが待っていると思えばなおさらだ。
「気持ちいい?」
「うん、かなりね」
 工藤家の風呂は広い。大の男が二人で入れる程なのだ。まるでオレ達のために誂えたようではないか、なんて。
 風呂は広いし温度もちょうどよく、二日目のカレーはきっと美味しいだろうし、目の前には愛する恋人がいて。
 何て完璧なシチュエーションだろう。ちょっと忘れられていることぐらい何だというのだ。
「良かったなぁ、お兄さん」
 やっぱり、新一はにこにこ笑っている。さっきまでの寝ぼけ顔なんて嘘のようだ。もうすっかり目も覚めたのだろう。
「うんだからね、新一」
「ん?」
「オレはお兄さんじゃなくて、快斗」
 もう一度、今度は目を見てしっかりと言う。
「かいと」
 ゆっくりと新一は繰り返した。
「そう、快斗」
「快斗」
「そうです」
 朝から恋人と二人でお風呂という、その状況だけは素敵なのだが。
 この会話はあまり素敵じゃないなぁと、オレは改めてそう思った。


 ちょうどカレーを食べ終えたところで、灰原女史が訪ねてきた。
「ずいぶんとお疲れみたいね?」
「んー……」
 オレのポーカーフェイスもまだまだと言うべきか、よほどこの家ではリラックスしていると考えるべきか、はたまた女史はさすがに慧眼だと言うべきか。
 どうにもこうにも、やっぱり。
 常とは違う恋人の相手というのは、それだけで、どうにも。
「調子はどう?」
 主語はなかったが、もちろんだれに対するそれかなんてことはわかっている。
「まあ、元気は元気」
「食欲は?」
「カレーをしっかり一皿」
「そう」
 どんな状態にしろ、食欲があるに越したことはない。その上睡眠もしっかり過ぎるほど取っているのだから、普段の新一よりもよほど健康的な生活をしているのではないだろうか。まあ記憶喪失は健康的ではないけれど。
「何かわかったことは?」
 流れで聞いたオレに、哀ちゃんはふるふると緩く頭を振った。
「まだ特には。とりあえず、今日は一日調べてみようとは思うけど」
 今日は日曜で、学校も休みだ。タイミングがいいと言うべきなのか何なのか。
 そう考えて、はたと気づく。
「哀ちゃん、昨日、何時に寝たの?」
 この少女が、だいぶ夜型なことは知っている。朝の四時に寝て、こんな時間に起きられるはずがないのだ。いや、起きたのだとしたら、それはちょっと不健康だと言うべきか。
 オレの問いかけに、哀ちゃんは肩をすくめて答えた。言葉は無かった。
「あのねぇ、哀ちゃん」
 ため息混じりに言葉を吐いたオレに、哀ちゃんはそれこそわかりきったことのように言う。
「工藤君のこと、心配でしょ?」
 だったら黙ってなさいと、そう言いたげな声にも聞こえた。心配なことに代わりはないけれど。
「あのねぇ、哀ちゃんのことだって心配だっての」
「多少寝不足が続いたところで、ちょっと背が伸びなくなる程度のことよ」
「そりゃけっこう大事だね。オレ、背の高い女の子が好きだからなぁ」
「工藤君がいるのに、そんなことを言っていいのかしら?」
「その工藤君は、今何せ記憶を失ってるものだからね」
 だから好き勝手なことをしてもいいだなんて、もちろんそんなことを思っているわけではなくて。
 記憶を失ってしまった。それもまたけっこうな大事だ。この上もない大事だ。でも、命に危険があるわけではない……と、思う。
 命に危険性のある奴は、朝から二回も風呂に入ったり、その後でカレーをぺろっと食べたりできないだろう。何だかそんな気がする。
「あのね、別に今回のことは、哀ちゃんの所為ってわけじゃないだろ?」
 新一が体調を崩す度にそうなのだ。
 確かに一時期新一が子供の身体に戻っていた、それは哀ちゃんにも責任の一端があるのだろう。でも、その後の体調不良のあれこれまで、全ての責任を負わなくてもいいとオレは思うのだ。例えその薬の影響で、新一の体力やら免疫力やらが、下がっているのだとしてもだ。
「免疫力が下がってるからって、記憶喪失になるわけじゃないんだからさ」
「でも、それは……」
 科学者の言葉は途中で止まった。
 扉が開いたからだ。どこかをふらふらと歩いていた新一が帰ってきたのだ。
「どこ歩いてたんだよ、新一」
 トイレに行ったはずなのに、戻ってくるまでにはずいぶんと時間がかかっていた。大方、その辺りをふらふらとしていたのだろう。自分の家なのだから、どこを歩かれたところで構わないのだが。
「……ん」
 新一が哀ちゃんの姿を見て、微妙な表情になる。
 かと思えば、オレの傍へとやってきて、その背中に隠れこんだ。ぎゅっと服の裾を掴まれるようにして。
「……痛いのやだ」
 どうにも新一の中で、哀ちゃんイコール検査、哀ちゃんイコール痛い思いをさせられると、そうなってしまっているようだ。新一にとっての初対面から、すぐさま検査となってしまったから、それも無理からぬことなのかもわからないけれど。
「こーら」
 とりあえずオレは新一を窘める。
「哀ちゃんはなぁ、おまえのことを心配して来てくれてんだぞ?」
「……心配?」
「そうだよ。おまえのことを心配してくれてんの」
「何で?」
 何で。
 そう聞かれると、何とも。
「……記憶喪失だから」
「だれが?」
「新一が」
「オレが?」
 一応、自分の名前が新一だということはわかってくれているのだろうか。それとも流れで何となくそう返事をしただけだろうか。
 悩むオレの前で、というか、オレの裾を握りしめたままに、新一は「そっかぁ」と頷く姿を見せている。
「オレ、きおくそーしつなのかぁ」
「……記憶喪失ね」
「きおくそーしつ」
 何だか妙に間延びしている。訂正してもそれは変わらない。
 オレらのそんなやり取りに、哀ちゃんは呆れていたのかもしれない。すぐ近くでため息をつく音が聞こえたが、オレが視線を向けた時には、哀ちゃんは素知らぬ顔を見せていた。ある意味でとんだポーカーフェイスだ。
「……とりあえず、今日もやりたい検査があるから、後で寄越してくれる?」
「あ、うん」
「痛いのが嫌だろうが何だろうが、多少我慢するように言い聞かせておいてちょうだい」
「ううーん」
 一体どうやって言い聞かせればいいのだか。
 新一はとたんに不安そうな顔を見せる。そりゃあオレだって、できれば身体に針なんて刺されたくはないけれど。
 とりあえず、よしよしとその頭を撫でておいた。

 *

 その日の朝食にはオムレツを出していた。
 朝食なんて簡単なものしか作らないけれど、というかまあ朝食でなくても簡単なものしかオレは作れないのだけれど、一人で二人分を作るとなると少々時間もかかるもので、とくにオムレツなんて一つずつしか卵が焼けないのだから仕方ない。
「ほい新一。冷めちゃうから先に食べてな」
 だからオレはそう言って、先に新一の分を焼いてから、ふんふんと次に自分の分を焼くことにした。
 料理なんて出来立てが一番。オムレツなんてなおのこと。
手早く次のオムレツを焼いて、オレは皿と共にダイニングへと戻る。オレの言葉通り、新一は遠慮なんて何一つせずに、自分の分のオムレツをもしゃもしゃと食べていた。その様子を見てあれ、と思う。
「新一、ケチャップケチャップ」
 もぐもぐ、と口の中の物を飲み込んでから、新一は緩く首を傾げた。
「けちゃっぷ?」
「オムレツにはケチャップかけるんだって」
 古今東西そう決まっているわけではないし、かけずに食べる人もいるのかもわからないが、少なくともオレの知る新一はそうしていた。だから今朝も食卓には当然ケチャップを用意していたのだ。オレだって使うわけだし。
「ケチャップ」
「かけるよー」
 味覚自体は変わっていないのだ。それがわかっていたから、オレは返事を待たずに新一の食べかけのオムレツにケチャップをかけていった。その様子を、新一はまじまじと見つめている。
「ほら、美味しいよ」
 疑う様子も見せずに、新一はまたオムレツをぱくりと食べた。
 にっこり。
「おいしい」
 そうだろうそうだろう。
 せっかく作ったのだから、より美味しく食べてもらえるのがこちらとしても一番だ。オレも同様にケチャップをかけ、美味しくオムレツを頂いた。今日のはことさら焼き加減もばっちりだ。
「快斗、おいしい」
「そりゃ良かった」
「おいしいなぁ、これ」
「いやいや。それ程でも」
「ケチャップおいしいな」
 そっちですか。
 いやでも、いくらケチャップが美味しかろうと、土台であるオムレツが不味ければ、ケチャップだってその本領が発揮できないと思うのだ。
 そう思うことにしておいた。
 そんな風にして、新一がケチャップを絶賛していたのがつい先日のことだ。
 とりあえずオレは毎日朝食を作っている。新一は記憶を失くしているのだから、とても料理なんて任せられない―――と言うわけではなくて、以前から新一は料理など一つもしなかったのだ。トーストぐらいはそりゃ焼けるだろうけれど、さすがに朝食といえどそれだけでは胃袋は満たされない。オレの場合はとくにそうだ。
 朝食と言えば卵だろうということで、オレは毎朝せっせせっせと卵を使っている。まあ他にあまりレパートリーも無いのだ。それに卵は美味しい。
「ほいどうぞ」
 目玉焼きを並べ、ちょうどよくトースターから顔を出したパンを皿に取る。新一の方にマーガリンを寄せ、さて頂きますと両手を合わせたすぐ後に、新一はケチャップへと手を伸ばした。
 ハッシュドポテトにかけるのだろう。そのために用意したケチャップだった。
 しかしオレの予想に反し、新一は手にしたそのケチャップを、うにょうにょと目玉焼きにかけていった。ちょっと待て。
「えっ、新一、何してんの?」
「ん?」
 驚いたのか、新一は軽く小首を傾げる。ふとした瞬間の態度が本当に子供っぽくてたまらない。色んな意味でたまらない。
「え、いやだから、何で目玉焼きにケチャップかけてるのって」
「ケチャップかけるとおいしい」
「う、うーん?」
 それはどうなのだろう。
 オレの知る新一は、いつも目玉焼きには塩コショウをかけていた。和食の時には醤油の時もあったかもわからない。
 でもケチャップって。ケチャップって。初めて見たぞオレは。
「……んー、目玉焼きには、ケチャップはあんまり合わないんじゃないのかなぁ?」
 世間的にどうだというよりも、この場合は新一の味覚的に。オレの知ってる新一の好み的に。
「何で?」
「えぇっと」
「これ、卵だろ?」
 調理された姿を見ても、元が卵だとはしっかりわかるらしい。
 これまた不思議なものだなと思う。何もかも全て忘れたようでいて、オムレツにケチャップをかけて食べていたことは忘れていたというのに、けれど目玉焼きが卵であることは覚えている。どうにもその辺りに関しては、覚えていることと忘れていることに、波があるというか穴があるといおうか。
 あぁ、オムレツにケチャップをかけると美味しいと教わったから、だから同じ卵である目玉焼きにも、そうだろうと思ったのか。今の新一なりに考えたのだろう。そう思えばちょっと愛しい。
「まあ何事も経験だ」
 食べてみなさいと、オレは鷹揚に頷いた。そうして不味いと言われたらその目玉焼きをどうしようかと瞬間悩んだが、それもまた杞憂に終わった。
「うん、おいしい」
にっこり。
いつぞや見たのと同じ笑顔だった。
「……んん?」
「おいしいな。ケチャップおいしい」
「んー?」
「卵もおいしい」
 至極満足そうな顔だ。そうか、美味しいのか。美味しいのならいいのだけれど。
 基本的な味覚に変わりはないと思っていたけれど。
 まあでも、卵にケチャップだ。別に納豆にケチャップをかけたわけじゃない。食材的には合う組み合わせなのだろう。
 先入観を捨てれば、案外といけるのかもしれない。そう思うしかなかった。真似しようとは思わなかったが。
 目玉焼きにケチャップをかけ、じゃあ本来のハッシュドポテトには何をかけるのだろうかと見守っていたが、そちらにも新一は同様にしてケチャップをかけた。これまた美味しそうに食べている。塩分の取り過ぎに、少し気を付けてやるべきなのかもわからなかった。


 記憶を失ってからというもの、新一はどうにもぽよぽよしている。あるいはぽやぽやか。
「快斗ー」
 そんでもって、ずいぶんとオレに懐いてくれている。
「快斗ー。快斗ー」
 まあこれは、他に接している人間がろくにいないのだから、当然と言えば当然のことなのかもしれない。その上オレは、新一に対して採血や脳波を調べたりなんてことはしないものだから。
「新一、こっち」
「あ、快斗」
オレの姿を見つけて、新一がにこにこと近づいてくる。浮かべる表情が変わるだけで、とたんに幾つも幼く見えるのだから、全く不思議なものだよなぁと思う。あの鋭い眼光はどこに消えてしまったんだ、どこに。
「どっか行くの?」
 玄関で靴を履く途中だったオレを見て、新一はそう尋ねてくる。
「ちょっと夕飯の買い物にね」
「オレも行きたいな」
 にこにこと言われる。そう言いながら、オレの上着の裾を摘まんでいたりするのは、まったく狙っているのかどうなのか。今の新一に、そんな頭は無いとわかっているけれど。
「新一はだーめ」
「……何で」
 とたんに表情が曇る。曇るというか、ぶすくれるというか。
 素直すぎて、全くなんとも。
「そろそろ哀ちゃんが来る時間だろ?」
 お隣の灰原女史は、毎日新一の体調を調べに通って来てくれているのだ。何とも頭の下がる思いだったが、それがどうにも新一には伝わらないらしい。
「……哀ちゃんはやだ」
 哀ちゃんて。
 新一の口から哀ちゃんて。
 いや、オレがそう呼んでいるから、それ以外の呼び名を知らないだけなのだろうけど。わかっているけど。
「……新一」
 何とも言えない思いで名前を呼ぶ。本当に、何とも言えなかった。この状況で何を言えばいいんだオレは。
「わかってるよ。オレのためにしてくれてるんだろ。それはわかってるけどさ」
 どこか慌てたように新一は言う。その様子は、早く宿題をやりなさいと母親に叱られた小学生が、「今やろうと思ってたんだよ」と言い返す様にも似ていた。どうにも子供に見えて仕方ないのだ。その分保護欲も誘うと言うべきか。
 今の新一は、紛れもなく、守ってやるべき対象なのだった。
 記憶喪失なのだから当然と、そう思っていいのだろうか。
「でも痛い」
 毎日ではないけれど、定期的に採血をしている上に、他にも色々と検査をしている所為で、新一の腕にはいつも絆創膏が貼られている。あるいはその痕がある。
 見ているだけで痛々しいことこの上もないが、それは必要なことなのだ。新一には今一つ理解できなかったとしても。
「哀ちゃんじゃなくても、だれがやっても、検査っていうのは痛いものなんだよ、新一」
「でもさぁ……」
 新一がぎゅっと裾を握っている所為で、オレはなかなか玄関から立ち上がることができない。
 可愛いのだけれど。可愛いのだけれど。この上もなく可愛いのだけれど。
 それでも、調子が狂う。
「……哀ちゃん怖い」
 ぽそり、と新一は言った。
 その気持ちはよくわかるだけに、オレは少しばかり吹き出してしまった。
「快斗?」
「……いや、ご、ごめん」
 この場に間違っても哀ちゃん本人がいなくて良かった。いたらさすがに新一も口に出しはしなかっただろうが。いやでもどうだろう。
「いやー、うん。そっか、怖いかぁ」
「いっつも怒ったみたいな顔してる」
「んー、怒ってるわけじゃないと思うけど」
 今の新一にはそう見えるらしい。確かに、とっつきやすい印象のある相手ではないのだ。そこは認めよう。
 さて、何と言って新一にわかってもらおうか。
 ただ説明するだけでは駄目なのだ。今のこの状況の新一に、理解をされなくては。オレは少しばかり頭を捻る。
「でもなぁ、哀ちゃんは優しいぜ。オレはそう思うけど」
「そうかな」
「そうだぜ。昨日だって、オレ達のために、夕飯にハンバーグを作って持ってきてくれただろ」
 我ながら、この台詞はどうかと思ったが。まるでオレが食欲魔人のようだ。
 けれど違う。これは新一にわかりやすい例えを出したのであって。オレがそう思っているわけでは。そんなわけでは。
「あぁ」
 新一はこっくりと頷いた。大変よろしい笑顔だった。
「昨日のハンバーグ、おいしかった」
「そうだろー?」
「ソースがおいしかった。すごくおいしかった」
「あれだってなぁ、哀ちゃんは新一のためを思って、わざわざ作って来てくれてるんだぜ」
 以前は件の幼馴染の少女もよく食事を作りに来てくれていたと言うし、自然と工藤新一の周りには、そうした女の子が集まるのだろうか。それとも新一が自然とそうさせてしまうのか。何て恐ろしい男なのだ、まったく。
「そっか」
 新一はもう一度頷いて見せた。
「哀ちゃんは優しいな」
「そういうことです」
「うん、わかった」
 すごい。
 ハンバーグ一つで納得してくれるだなんて。
これは何だ、いくらぽよぽよしているとは言っても、少し危ない。こんな調子では、そのうち怪しい壺だとかお高い浄水器とかを買わされそうだ。どうしたものか。
 まあとりあえず、今は夕飯の買いだしにいかなくては。そう毎日毎日お隣さんの夕飯をおすそ分けしてもらうわけにもいかない。
「いい子にお留守番してなさいね」
「任せろ」
「いい子にしてたら、アイスを買って来てあげましょう」
 オレが食べたいだけとは言わないように。


 ここ数日で、いやがおうにも料理をする機会が増えたものだから、少しは腕も上がった気がする。手先の器用さがそのまま料理の上手さに繋がるとは思わないが、不器用よりかはいいのだろう。少なくとも、包丁を扱うことに何ら問題はないのだ。そうして今どき簡単お手軽レシピなんて、ネットの世界のいくらでも転がっている。ありがとうクックパッド。
「おいしかった」
 今日の夕飯はロールキャベツだった。トマトスープでことこと煮込んだそれを、新一はぺろりと完食してくれた。
「そりゃ良かった」
「これおいしいなぁ。えっと、この……」
 新一が少しばかり考え込むような顔をする。眉が寄ると、何だか懐かしい面影を見つけた気になって、オレはついついその表情から視線が逸らせなくなってしまう。
「この」
「この?」
「ぐるぐるキャベツ」
「惜しい。ロールキャベツ」
「ろーるきゃべつ」
 ふむふむ、と新一は頷いている。その表情は、あぁそうだったと納得しているようにも、へぇそういう名前なんだと単純に思っているようにも、どちらにも見えるものだった。
 新一自身は、今のこの状況に、さして不安も不満も感じていないようなのだ。
「変な話だけど、ずいぶんと安定しているのよ、彼」
 夕飯後、貰い物のバームクーヘンがあるからと、おすそ分けついでに新一の様子を見に来た灰原女史はそう言った。
「安定ですか」
 記憶喪失だというのに。
「脳波を調べても、簡単なストレス診断をやってもね。とりあえず精神的には安定してるわ。ま、そんなことは、ずっと一緒にいるあなたが一番よくわかっているでしょうけど」
「まあ……」
 オレは決して専門家ではないが、確かに毎日一緒にいる相手が、ストレスを抱えているのかどうかというぐらいはわかるような気もする。
 単純な考えかもしれないが、ストレスを抱えた人間というのは、こうまで毎日しっかり食事を完食するばかりか、「今日のご飯は?」と楽しそうに尋ねては来ない気がする。他にも何かしら、ストレスを抱えているが故の兆候というのがあるのだろう。新一にはそうしたものがさっぱり見当たらない。
 食欲も旺盛なら、毎日しっかり過ぎる程睡眠もとっている。
 いっそそれだけを考えれば、記憶を失う前よりかも、よほど健康的な生活を送っている。肌だってつやつやだ。
「でもさぁ、あの、妙にぽやぽやしてるのは何でだろう」
「ぽやぽやって……」
 あまり知性の感じられない表現に、女史も呆れたのかもわからない。が、一番的確な表現だとオレは思うのだ。
「自分のこともオレらのことも、何も覚えてないのは記憶喪失だからってことでわかるけど……」
 あまりわかりたくはないけれど。
「その他の、日常的なこととか、言葉とかさ。覚えてることと覚えてないことに、ずいぶんと差がある気がするんだよな。法則性も今のところ見られないし」
「記憶の穴は、確かに感じられるわね」
「そういったことってさ、記憶喪失ではよくあることなわけ?」
「一般的な全生活史健忘でも、あまりそうしたケースは聞いたことがないわね。過去に経験したことがあるものや、知っていたものに関しては、思い出そうとすれば……あるいは、その状況になった時、例えば車を運転しようとして、それを自分が知っていたことを思い出す、なんてパターンが多いそうだけど」
「ううーん」
 今の新一からは、少しばかり離れた話だ。
 車どころか飛行機やヘリの運転までこなしてしまう人だけど、乗った瞬間に今の新一がそのやり方を思い出すとは到底思えない。オレだって、あの新一の運転する車には死んでも乗りたくはない。
「まあ工藤君の場合は、状況が状況だったから」
「と言いますと?」
「身体の状況が、到底完治したとはまだ言えない段階だったのよ。ひとまず落ち着いてはいたけれど、いつどんな副作用が現れるかなんてわからなかったし…… 単純に、風邪をひきやすかったり、体力や免疫力なんてものの低下も見られたしね。だからもしかしたら、殴られたか、あるいはぶつけたその衝撃が、通常の人よりも脳にダメージを与えているなんてことも考えられるのかと思って」
 断定はできないのだろう。追求せずともそれはわかった。そうして、その辺りのことを重点的に調べているのだろうということも。
 当たり前だが、人間は人間の身体について全て知っているわけではない。治せない病なんて山ほどある。新一の身体は、色々な意味で常人とは違うのだから、それもまたひとしおなのだろう。
 残ったバームクーヘンの欠片を、オレはひょいっと口の中に放り投げた。どうにも雰囲気が重苦しい。いけない、いけない。
「でもさ、何にせよ、新一が安定してるってのは良かったよ」
 少しわざとらしい笑顔だったろうか。でも、それは心の底から思うのだ。
「これでさぁ、記憶喪失なことを嘆かれて、作った料理もろくに食べてもらえないような状況だったら、さすがにオレも落ち込んだだろうし」
 その辺りの悲壮感が、まるで新一には無いのだ。無さ過ぎてびっくりするぐらいなのだが、そのぐらいでちょうどいいのかもしれない。オレ以上に、灰原女史にとっては。
「むしろこの機会に、素直で可愛い新一を堪能するのも悪くないってね」
 ウインクを一つ。
 不謹慎だと怒られるかもと思ったが、哀ちゃんはただ小さく笑うだけで、小言めいたことは何も言わなかった。 心配するとしたら、新一よりも哀ちゃんの方だなぁなんて、見送りながら思うのだった。大人の男よりも、見た目小さい女の子を心配するのは当然のことなのかもわからないが、そこに恋人という要因もプラスされると、何が正解なのかとたんにわからなくなってくる気がする。
「……恋人なんだよなぁ」
 改めてそう確認する。
 確認しないと、どうにも忘れてしまいそうな昨今なのだ。以前だって、到底恋人らしいと思える生活なんて、とても送っていなかったけれど。
 でも今よりはマシだった。比べることすら間違っているのかもしれないが。
「何だかなぁ」
 ピロリロリン。
 オレの呟きに反応するかのように、可愛らしい音が聞こえてくる。
 浴室からだ。浴室からの呼び出し音だった。今は新一が入浴している。沸かすボタンと間違って押してしまったのだろうかと思ったが、すぐさま同じ音が聞こえてきた。
 ピロリロリン。
「はいはい」
 どうにもオレを呼んでいるらしい。ドアを開けて、「快斗ー!」と叫ばれなかっただけマシなのか。ボディソープもシャンプーも、全てたっぷり入っていたと思ったのだが。
 オレが浴室に辿りつくまでの間にも、それから二回程ピロリロという音は聞こえてきた。こういう時、この家は広すぎていけない。
「はいはい、新一。どうしたの?」
 尋ねると同時に、浴室のドアが開けられた。何とも大胆なことだ。新一は湯船に浸かりながら、当然のようにオレを見上げている。
「頭洗って」
「……んん?」
「だから、頭洗って」
 頭頭、と新一は自身の頭脳明晰なそれを指差している。今の新一は、あまりその有能な頭脳を使ってはいないのだが。
「……昨日も一昨日も、自分で洗ってたろー?」
今の新一はどうにもぽやぽやしているが、けれど言ったことは一度で覚えるのだ。それは『思い出す』というのともまた少し違うようで、やっぱり『新たに覚える』といった方が正しい様子に見えるのだが。
 けれど何にしろ、常識が身に着くことはいいことだ。オレはそう思っていた。
「うん、自分で洗ったんだけど」
 新一は素直に頷く。バスタブの縁に両手を乗せるようにしているから、身体は上手いこと見えていない。
「それよりも、快斗が洗ってくれた方が気持ち良かった」
 だから呼んだんだと、そう言いたげな顔であった。実際にそうだったのかもわからない。
「いやー」
 これが元の新一からのお誘いであったら、どれだけ嬉しいことだろう。
 そう思ったが、普段の新一であれば、間違ってもこんなことをオレに頼んできたりはしないだろう。あの新一が。両腕骨折とかでもなければまず無さそうだ。
「自分で洗えるんだから、自分で洗おう、な?」
 ちびっこに言い聞かせるかのように言ったオレに、新一はすぐさまむくれたように唇を尖らせた。まったく可愛い唇だ。キスしてやるぞ。
「この間は洗ってくれたのに」
「あれは、新一に教えるために洗ったの。こうやって洗うんですよっていう」
「覚えたらもう洗ってくれない?」
「自分でできることは自分でやるのが大人です」
 鷹揚に言ったオレに、「でも」と新一はすかさずその唇を開いた。
「でも?」
「同じことをするんだったら、より上手い人がやって、結果的に気持ちいい方がごーりてきじゃないか?」
 微妙に頭の良さそうなことを言う。
 合理的ってどこで覚えたんだ。いや元々知っていたのか。何だか発音が怪しいような気もしたが、それはさておき。
 どう説明すればいいのか、何分初めての状況すぎて悩むしかないオレの前で、新一は少ししょんもりとした顔を見せてくる。
「……まあ、快斗が嫌ならいいけどさ」
「洗わせて頂きますっ!」
「あ、いいのか?」
 とたんにぱっと顔が輝く。新一の嬉しそうな顔が見れるのなら、もうそれでいいというものだ。常識を身につけることも大事だが、オレにはそれ以上に大事なものがある。
 大体にして元の新一に戻れば、記憶が戻れば、当然新一はその辺りの社会常識はとっくのとうに身につけているのだし。オレは何も、本当の赤ん坊を育てているわけではないのだ。
「昨日自分で洗ったけど、何か物足りなくてさぁ」
 いそいそと新一は身体の向きを変える。バスタブの縁からにょきっと頭を出した格好は、さながら美容室で洗髪をしている様子のようだ。それはいいのだが、ここは美容室ではなく浴室の中であるから、そうしていると何と言うか、身体が丸見えだったりするのだけれど。
「……新一くーん」
 もうちょっと、あの、何ていうか。
 羞恥心はどこに行ってしまったのだろう、羞恥心は。
「んー? 快斗、シャワーは?」
 記憶と共に、羞恥心も忘れてしまったのだろうか。そういえばこの間一緒に風呂に入った時だって、恥ずかしがる様子なんて欠片もなかった。
 男同士で、はなから恥ずかしがる必要など無いと言えばそうなのだが。オレ達が恋人同士であったことなど、当然新一は忘れているわけで。……あ、考えるとオレが落ち込みそうだから止めよう。
「はいはい、シャワーいきますよー」
 温度を確かめてから、ゆっくり新一の髪をぬらしていく。手で梳くようにしながら。普段であれば、こんな風に新一の髪を洗える機会なんてもちろん無いわけだから、ある意味で役得なのかもしれない。少なくとも新一は、哀ちゃんにシャワーを頼むようなことはないだろう。
 次いで、シャンプーをもこもこと泡立たせる。自分の頭を洗う時よりも、所作が丁寧になることは当然だった。優しく頭皮を洗っていく。
「お客さーん。かゆいところはありませんかー?」
「んー、右の耳のとこ」
「この辺?」
「あー、そうそう」
 新一は気持ちよさそうに目をつぶっている。オレの洗髪テクが特別すごいとは思えないが、まぁ人に髪を洗ってもらうというのはそれだけで気持ちいいものなのだろう。
「新一、寝ちゃわないでね」
 あまりにずっと目をつぶっているものだから、心配になってついついそう声をかける。
「……このまま寝たら気持ちよさそう」
「いや、湯船につかったまま寝たら死ぬから」
「そうなのか?」
 驚いたようにその目が開いた。大袈裟かとも思ったが、けれどその可能性が高いことは確かだろう。それも今のぽやぽや君ともなればなおさらに。
「必ずしもそうってわけじゃねぇけど……湯船の中で寝たら普通に危ねぇよ。溺れることだってあるし。そうじゃなくても、その内湯ざめして風邪引くっての」
「あぁ、そっかあ」
 その至極残念そうな声からするに、それなりに本気でこのまま寝ることを考えていたのだろうか。実践されなくて良かった。されたとしてもすぐにオレが気づいただろうけれども。
「明日は何が食べたい?」
 とりあえず、新一が寝ないようにそう話しかける。
「明日? 明日かぁ」
 お腹がいっぱいだろう今問い掛けても、なかなか難しいのかもしれない。
「うーん。ロールキャベツかな」
「今日食っただろ?」
「おいしかったから」
「そうかそうか」
 今の新一は、目玉焼き一つでも美味しい美味しいと言ってくれるのだ。それでもやっぱり、美味しいと褒められることに悪い気はしない。
「でもなぁ、二日続けて同じ物っつーのもなぁ」
「二日続けて同じものだと、何か悪いの?」
「悪いっつーか単純に飽きるっつーか……」
「でも快斗、カレーは続けて三日でも食べれるって言ってた」
「んんんん」
 記憶力の良さは変わらないのだから、微妙に何ともやり辛い。記憶喪失なのに記憶力がいいというのも、何だか矛盾しているような気がしないでもなかったり。
 でも、言われてみれば確かに不思議なものだ。カレーは二日三日続いたところで平気なのに、それどころか寝かせたカレーはより美味しいとすら思うのに、ロールキャベツをメインディッシュに二晩続けて食べたいとは思わない。味付けが変わっていたりしたらまた別だが。
「そこがなぁ、カレーの不思議なところなんだよなぁ」
「不思議なところ?」
「カレーはどれだけ続けて食べても飽きない」
「何でカレーはどれだけ続けて食べても飽きないんだ?」
「そこがわからないところもまたカレーの魅力の一つなわけでしてね」
 何とも不毛な会話だった。不毛と言おうか、意味のないと言おうか。
 でも今のオレには、そうした会話が必要だったのだ。新一を寝かせないためにではなく、何せバスタブに溜まったお湯は、しっかり無色透明なものだから。
 ご無沙汰な恋人としては色々と大変なんです。お察し下さい。
「あ、じゃあさ、カレーにロールキャベツを入れるっていうのはどうかな」
「そりゃまた大胆な発想で」
 今度から入浴剤を入れてもらおう。オレはそう思った。

 *

 すっかり馴染んでしまった上に、すっかり生活感まで漂ってしまっている、工藤家客室のベッドの上で今日も目覚めた瞬間に、携帯が小さく音を鳴らした。
 こんな朝っぱらからだれだろう。ベッドに横になったまま、充電コードを外した携帯を手に取った。
 工藤新一。
「……は」
 送信者名の名前を、オレは思わず二度見した。
 もちろん、二度見したところで変わるわけもない。当然、オレに二人も工藤新一という名前に心当たりはない。
「え……」
 何か間違えて、あるいは暇を持て余して、携帯をいじってしまったのだろうか。あの新一が携帯を使うとは思わなかったから、新一の携帯はそのまま部屋に置かれていたのだ。
 慌ててメールを開く。開いたところでオレはまた二度見をした。ついでに、ごしごしと目元をこすってみたりもなんかした。
『おはようヾ(^∇^)』
「……おはよう?」
 思わず漏れた呟きは、文面に返したものだったのか、あるいはオウム返しに呟いたものだったのか。自分でもわからなかった。
 とにかく、誤って送信してしまったものではないらしい。今まで確かめたこともなかったが、携帯の操作は覚えていたのだろうか。こうしちゃいられない。
 普段の朝食には早い時間だったが、こうしてメールが来たということは、新一はもう起きているということだ。携帯を掴んだまま、迷わずその寝室へと向かった。でも、さすがに無断で開ける気にはなれなかった。
「新一、起きてるのか?」
 ノックはしないが、ドア越しにそう話しかける。
「快斗?」
 すぐさま声は返って来た。やはり起きているのだ。確認してからドアを開ける。
 新一はベッドの中にいた。まだパジャマ姿だ。そうして枕に背中を預けるようにして、携帯をいじっていた。いや、眺めていたのだろうか。
「メール届いた?」
「届いた、けど」
「なあ、返事は?」
「おまえ、メールのやり方なんて覚えてたのか?」
 重ねて尋ねたオレに、新一は少しばかり首を傾げてから、ふるふると頭を横に振った。
「知らなかった、けど」
「じゃあ何で……」
「昨日、灰原に教えてもらった」
「哀ちゃんに?」
 いつの間にそんなこと、とか。それよりも、いつの間に呼び方が変わっているんだ、とか。いや、それはきっと哀ちゃん本人が新一に言ったのだろうが。本人的にもむず痒いところだったのかもしれない。聞いているオレだってそうだったのだから。
 それはともかく。
「また何で、メールなんて教わったんだよ。必要ねぇだろ」
「オレのメール、ちゃんと届いたんだろ? なあ、返事は?」
「オレの質問に答えろって。おまえ、メールなんてする必要ねぇだろ」
 冷静に考えれば、別段悪いことではないのだ。
 悪いことではないのだが、何となくそう尋ねずにはいられなかった。新一がメールをするとなると、携帯を扱うとなると、少し厄介なことになるというのもある。
「何でって」
 携帯を握ったまま、新一は瞬きをする。
「面白そうだったから」
「……面白そう」
「みんな、面白いからやってるんだろ?」
 単純な答えだった。普通に仕事やら何やらで使っているいる人も多数いるとは思うのだが、そんなことは、今の新一には想像がつかないことらしい。
「なあなあ、返事くれねぇの? オレにメールの返事は?」
「おはよう」
「そうじゃなくて、メールの返事」
「いやだから、顔合わせてんだから、メールなんか送らなくてもいいだろ?」
「だってオレ、メールで送ったのに」
 目に見えてしょぼんとした顔をするものだから、オレはもちろんメール画面を開くしかなかった。この新一は、何かもう全てわかった上でやっているのではないのだろうか。そうとすら思えてくる最近だ。
『おはよ』
 我ながらシンプルすぎる文面だと思ったが、本人が目の前にいる中で、これ以上何を打てばいいのかわからなかった。送信すれば、瞬く間に新一の携帯から音が鳴る。
「おお」
 そうして、嬉しそうな声が上がった。
 携帯一つにここまで笑顔を見せられるなんて、今どき、携帯を買ってもらったばかりの子供ぐらいのものではないのだろうか。そんな様子が、ちょっと可愛かったりはする辺りがまた何とも。
「すごいなぁ。メールってこうやって来るんだな」
 新一は何とも嬉しそうだ。新しいゲーム機を手にした子供とそっくりだった。
「初めて快斗からメールもらえた」
 にこにこと新一は、手にした携帯の画面を見つめている。初めてどころか、もう何十回、何百回と送ってるんだろうけどなぁなんて。でも新一から返事が来ることは稀で、面倒がっているのがいつもの新一なんだけどなぁ、なんて。
 感傷に浸ったところでどうしようもないのだ。それもこんな朝っぱらから。
「メールって面白いなぁ」
「はいはい、面白いのはいいけど、せっかく早起きしたんだから、早く朝食食っちまおうぜ」
「後でまた、快斗にメール送っていい?」
「……いいけど」
 同じ家にいるのに、メールを送る意味が果たしてあるのだろうか。
 そう疑問に感じてならなかったが、楽しげなその様子を見ていたら、とてもそんなことは言えなくなってしまうのだ。

 とりあえず、新一が携帯を使いだしたということで、少しその携帯を拝借し、細工をしかけさせてもらった。
 新一が記憶喪失になってからというもの、馴染みの警部には、早速新一の声で通話をかけさせてもらった。学業が忙しく当分そちらには協力できそうにないと言えば、惜しみながらも納得した言葉が返ってきた。学生の本分は学業なのだから、それもそのはずだろう。警察関係はこれで良し。
 けれど問題なのは、他の友人関係だった。同じ学部の友人相手に、「学業に専念したいから」連絡が取れないというのは少し無理がありすぎる。
「ううーん、やっぱり連絡来てんなぁ……」
 着信やメールがたんまりだ。その辺りはいじるなと教わっていたのか、たまたま興味が向かなかっただけなのか、新一は気にした様子もない。けれどいじっている最中に、うっかり電話がくれば、とってしまう可能性もあるだろう。
 会話をすれば一発で終わりだ。あの工藤新一が、記憶喪失になっているなどと、世間に知られることは色々とまずい。職業柄、けっこうな方面から恨みを買っているだろうことも知っているのだ。
「何してたんだ?」
 オレがいじり終わった後の携帯を受け取って、新一は純粋に不思議そうな顔をしている。
「んー、新一が使いやすいようにしてあげた」
 実際は、特定の相手以外からの通話には、『電源が入っていないか、電波のかからないところに云々』という、例のアナウンスが流れるように細工をしたのだ。新一の携帯ともなれば、多分事件か何かで忙しくしていると思われるに違いない。メールもまたしかり。新一がうっかり開いてしまわないように、少しばかりプロテクトをかけておいた。
「使いやすいように?」
「顔文字、色々と入れてやったから」
「ほんとに?」
 オレの知っている新一は、顔文字なんてものを使うような奴ではなかった。
 でも今の新一は違う。暇だからというのもあるのだろう。何せ時間は有り余っている。
「わあ、ほんとだ」
 自分の手元に戻ってきた携帯をいじって、新一は楽しそうだ。メールを送る相手なんて、今はオレしかいないのになぁなんて、考えるといじらしいようなそうでないような。
「おー、すげぇな。色々入ってる」
 楽しそうな新一を見るのはオレも楽しい。
 恋人には、なるべく笑顔でいてもらいたいものだ。それは万国共通の思いというものだろう。
この調子なら平気だろうか。うーんと悩みながらにも、オレは口を開いた。
「あのさぁ、新一」
「うんー?」
 携帯に、と言うよりも、新しく入った顔文字に夢中になっているのだろう。どうにも生返事だ。
「オレさあ、ちょっと、家に帰ろうかと思うんだけど」
「……うん?」
 これまた生返事が返ってきたらどうしようかと思っていたが、そんな心配は杞憂に終わった。
 新一は、しっかりとこちらに視線を向けてきた。生返事なようでいても、オレの話はきちんと聞いていたらしい。それは喜ばしいことだった。
「家に?」
「そう、家に」
「帰る?」
「うん、一旦ね」
 このままの新一を、まさかほっぽりだすわけにもいかない。
 けれどオレには、一応オレの住んでいる家というのがあるわけであって。鳩達の様子だって気になるところなのだ。
「さすがにオレも、ずっとここに泊まりっぱなしってわけにはいかないしさぁ。オレがいない間も、哀ちゃんがいれば大丈夫だろ?」
 それに、メールだってできるのだし。
 離れていても、そうして連絡が取り合えるというのはいいところだ。オレは素直にそう思った。けれど、新一は首を傾げている。
「家に帰る?」
「そうだけど?」
 なんだ。
 新一の中では、オレが家に帰ることが、そこまで不思議だったりするのだろうか。
 そう思えてしまうぐらい、新一は不思議そうな顔をしていた。不思議そうというか、何なのだろうか。
「新一?」
「……快斗は、ここに住んでるんじゃなかったのか?」
「えっ」
「快斗は、ここに住んでるんだろ? オレと一緒に」
 新一はそう思っていたのか。そう言われてみれば確かに、一緒に住んでいるのかどうかなんて、説明したことは一度も無かった。オレにとっては言うまでもないことだったからだ。
「あー、オレはここに住んでないんだよ。ここは新一の家」
「だって快斗、ずっと一緒にいるのに」
「それは、ここに泊まってたからだよ」
「ずっと?」
「ずっと」
 少なくとも、新一がこの状態になってからはずっとだ。
 新一は考え込むような顔をしている。少なからず、衝撃を与える発言だったのだろうか。悪いことをしたなと思ったが、オレにも悪気があったわけではないのだ。
「新一、ごめんな?」
 よしよしと頭を撫でる。大人しくオレの手の平を受け入れながらも、ほんの少し、その両目が揺らいだ気がした。
「……帰ってくる?」
 一度家に帰ってしまえば、もう二度と帰ってこないかもしれないと、そう思っているかのような悲壮感漂う顔だった。
 まるで戦地へと見送られているかのようだ。思わず帰って来たら結婚しようと言いたくなる。いやいかん、それではフラグだ。よく映画に出てくる危ない台詞の一つではないか。
「もちろん」
 オレは力強く頷いた。それでもまだ、新一は悲壮感たっぷりの顔をしている。まるで悲劇のヒロインだ。
「すぐに帰ってきてくれる?」
 でも、恋人にそんな顔で帰りを待ち焦がれられるというのは、正直言って悪い気分ではない。むしろいい。最高だ。
「用事を済ませたら、すぐに帰ってくる」
「いつ終わる?」
「夕飯までには」
 久々に家に帰るのだ、一泊ぐらいはするつもりでいたのだが、こんな新一を一晩も一人にはしておけない。恋人としてと言うよりも、何だかもう人として。
「夕飯まで、かぁ」
 新一が、ぼんやりと時計を見上げる。まだ朝食を終えたばかりの時間だから、夕飯まではまだまだある。
「何かお土産、買って来てやるから」
「おみやげ?」
 新一が首を傾げる。
「おみやげって?」
「えーっと、新一の好きな物。食べたい物とか、買って来てあげるから」
「ケチャップ?」
「……えっと、もうちょっと違うもの」
「卵?」
「んー」
 本当に好きな物がそれしか浮かばないのか、はたまたお土産というカテゴリーを理解していないのか。どっちもなのかもしれない。何せ今の新一はぽやぽや君だ。
「わかった、何か新一の好きな物を買ってくるから」
 アイスでいいだろうか。いや、それはオレの好きな物だ。何かコーヒーに合いそうな茶菓子の方がいいだろうか。さっぱり浮かばない。
「オレの好きな物かぁ」
 不思議そうに新一は呟く。自身でもそれがわからないのだからなおさらだろう。
「うーん、でもさぁ」
「ん?」
「オレの好きな物もいいけどさ」
 新一が、ぎゅっとオレの服の端を握った。
「新一?」
「……快斗が早く帰ってきてくれる方が、オレ嬉しいなぁ」
 これだからぽやぽや君は困るのだ。
 この込み上がる幸せをどうしたらいいのだろう。オレにはまるでわからない。


 一人息子が数日間家を空けていたというのに、うちの母親の反応ときたら実にあっさりしたものだった。
 それは実に素晴らしいことだし、ここ数日間鳩の面倒を見てくれていたことに礼を言い、ついでにこれからしばらくの間も面倒を見てもらえるよう土下座までして頼みこみ、そうして返って来た台詞がこれだった。
「ところであんた、大学の方はちゃんと行ってるんでしょうね?」
 まったくもってちゃんと行っていませんでした。
 などと馬鹿正直に言えるわけもなく、鳩小屋の掃除をして必要最低限の荷物をひっつかんで、その他諸々の用事を済ませてオレはすっ飛ぶようにして工藤邸へと駆け戻ったのだった。
 途中で哀ちゃんも様子を見に来てくれてはいたようだったが、新一は一人でも大人しく留守番をしていた。何てすごいと思ったが、同い年の男だということを考えれば当然だ。相手は幼稚園児ではないのだから。
 お土産にと買ってきたマドレーヌをかじりながら、この様子なら平気だろうかとオレは切り出した。つまり明日から、大学に行きたいのだということをだ。
 新一の反応はあっさりしていた。あっさり、というのとも違うのかもしれないが、とにかく素直にオレの言うことを飲み込んでくれた。いっそ素直ではなく、健気と言うべきだったのかもわからない。
「快斗は忙しいんだもんな」
 何か哀ちゃん辺りに言われたのだろうか。自分に言い聞かせるかのような声音に、とたんに胸が痛んだが、いくらオレが胸を痛めたところで、単位というのは一度落としてしまえば次の年まで、再び拾うことはできない代物なのだ。
 新一よりも、単位を選ぶという話ではないけれど。
 でも、まさかずっと新一にくっついているわけにもいかない。新一だって、一応は納得してくれているのだし。
「早く帰ってこれるよう、がんばるからさ」
「無理しなくていいぜ」
 やっぱり、言い聞かせるように言う。その健気さに涙がこぼれそうだ。
「オレが早く新一に会いたいから、そうしたいの」
 正直な気持ちでもって言えば、新一は嬉しそうに微笑んだ。そうしてから、「あのさ」と切りだしてくる。
「うん?」
「……快斗がいない間、メールしていい?」
「もちろん」
 連絡が取れないと、オレだって不安だ。何せオレが大学に行っている間は、哀ちゃんだって学校なのだから。いや、でも何かあったら博士が来てくれるか。
「何でもいいからメールしろよ」
 社交辞令でも何でもなく、それはオレの本心だった。くだらないメールであろうと、新一が何の問題もなく留守番をしていると、そうわかるだけで安心する。
 そうして翌日、久々に大学へと復帰し、友人達の手厚い歓迎に応えている中、新一からは幾つかメールが届いた。
 その日だけの話ではない。新一からは毎日メールが届いている。同じ家にいても届いていたぐらいなのだから、顔が見れないともなればなおさらだ。
「おまえさぁ、彼女でもできたのかよ」
 以前よりも携帯を取り出す頻度が増えたからだろう、友人にはそんな風にからかわれる始末だ。
「いやいや、そういうんじゃないから」
「なー、同じ大学? それとも余所の? どこでもいいからさぁ、おまえの彼女に友達紹介してもらってさ。合コンしようぜ、合コン」
 人の話を聞けというのに。
 何とも無茶な話だった。何せ新一はあの状態だ。そうじゃなくても彼女ではないし、恋人持ちの身で合コンに参加する気には到底なれない。オレは新一一筋の男なのだ。
 適当にはぐらかしながら、次の教室へと向かう。後ろの席を陣取って、再び携帯を手に取った。先ほど届いた新一からのメールに、まだ返事をしていなかったのだ。今頃きっと、そわそわとオレからの返信を待っている頃だろう。その姿を想像すると素直に可愛い。
 可愛いのだけれど。
「……うーん」
 今なにしてる? とか、ちゃんと昼ごはんを食べたとか、夕ご飯は何がいいとか、そんなメールであればオレも返信が楽なのだ。
 最近はさすがに、メールのネタが尽きてきたのだろうか。それとも大して意味は無いのだろうか。
『(・ε・` )』
「……ううーん」
 何度見返しても、さっぱり意味がわからない。
 せめて何か文字が。文字が一言でもあればいいのだが。こんな顔文字だけ一つ送られても。オレはここから何を読みとればいいのだろうか。オレはどちらかと言わずとも、暗号を作る方が好みなのだ。読み解くのはそれこそ探偵の役目だろうというのに。
『どうかした? 一人でつまらない?』
 とりあえずそう返信する。楽しげな顔文字には見えなかった。
 教授がたっぷりと妙なうんちくを語る中、程なくしてメールが返ってきた。
『(*´∪`)』
「……わかんねぇっ」
 思わず呻く。呻かずにはいられないと言うものだ。隣に座った友人から、ちらりと視線を向けられたことがわかったが、一度出てしまった呻き声は、口の中には戻らない。
 (・ε・` )ときて、(*´∪`)だ。退屈しているのかというオレの予想は、いいところを突いていたと思っていたのだが。ぽやぽや君の思考回路は、オレにはどうもわからない。難解だ。
『早く帰るから。もうちょっと留守番しててね』
 当たり触りのないメールを返せば、それきり新一からのメールは届かなかった。(・ε・` )のまま途切れていたら心配になっただろうが、(*´∪`)だから大丈夫だろうか。何だか幸せそうな顔だ。今の新一君にはよく似合っていると言えなくもない。
 ただ椅子に座っているだけで、講義の内容なんてちっとも頭には入らなかった。けれどオレは天才だから問題はない。出席し、レポートをきちっと提出しておけば、ひとまず単位の心配は無いのである。
「黒羽、帰りにラーメンでも食ってかねぇ?」
「あー、悪ぃ、パス」
「付き合い悪いぞ、おまえ」
 手にした教科書で、軽く頭を叩かれる。悪い悪いと言いながらに、オレは手早く鞄に荷物を詰め込んだ。
「ったく、彼女持ちの奴はこれだからなぁ」
「あはは」
「今度、彼女の友達紹介しろよー」
 誤解は誤解のままにしておいた方が、話が早く進むという場合もある。そうして後々、厄介な羽目になるということも往々にしてあるのだが。
 それにしてもラーメン。ラーメンの誘いを断るのは少し残念だった。そうだ、今日の夕飯はラーメンにしようか。たまには、新一を連れて外に食べに行くのもいいかもしれない。新一はきっと喜ぶだろう。
 そんなことを考えながら、急いで家路へと着いた。玄関の扉を開ければ、すぐさまぱたぱたとした足音が響いてきた。
「快斗、お帰り!」
「はいはい、ただいま」
 勢いのままに抱きついてきた身体を、ぎゅっと受け止める。子供そのままの愛情表現は大変可愛いのだが、新一の身体はもう決して子供のそれではないから、しっかり受け止めないとタタラを踏みそうになってしまう。
「快斗、帰ってくるの早かったな」
「そりゃもう、大学からここまでダッシュしましたので」
 ハンググライダーもかくやというスピードで走ってきたのだ。
「新一君はいい子にしてた?」
「してた」
 こっくりと新一は頷く。
「そうかそうか、いい子にしてたか」
「いい子に昼寝もしてた」
「なるほど」
 何とも羨ましいことだと思ったが、オレだって普段昼寝ならよくしている。講義中にだってしているのだから似たようなものだ。
「そういやさぁ」
 鞄をソファの上に放り投げて、冷蔵庫から牛乳を取り出す。そのまま口をつけて飲んだが、新一は何も言わない。いや、それは昔からだったか。
「新一、昼過ぎにメールくれただろ?」
「うん、送った」
「あれさー、どういう意味だったの?」
「意味って?」
「これ」
 言うよりも見せた方が早い。牛乳をしまって代わりに携帯を取り出した。受信メールを開いて新一に見せる。何度見ても、(・ε・` )という顔文字は力が抜ける。少し、今の新一の、拗ねた時の顔に似ているからなのかもしれない。
「あぁ、オレのメールだ」
「そう、新一君からのメール。で、これどういう意味だったの?」
「意味?」
 首を傾げながら、新一はオレの携帯を覗き込んでいる。いやいや、自分で送ったメールなんだから、そんな食い入るように見なくてもわかるものじゃないのか。
「おー、顔文字」
「うん、新一が送ってくれたやつなんだけどね?」
「可愛いよな、顔文字って」
「うん」
 それはいいのだけれど。だから意味を。意味を知りたいのであってオレは。
「この可愛い顔文字をさ、何でオレに送って来たの?」
「何でだろう」
 おいおい。
「眠かったからなー、よく覚えてない」
「……さいですか」
 このオチは考えていなかった。何だかがっくりとする。それなりに真剣に考えていたんだけどなぁ。別に禿げる程頭を抱えていたわけではないけれども。
「さっき起きたら、携帯持ったまんま寝ちゃってた」
 えへへっと笑いながら新一は言う。どうりで寝癖がついてたはずだと、オレは跳ねたその髪をちょいちょいと直してやった。


 さてさて、新一から意味のわかるメールとわからないメール、半々ぐらいの割合で届きながらも、オレは忙しない大学生活を送っていた。一大学生としては単位の存在というのは当然気になるところであって、そうしてオレは自分のそれ以上に、新一のそれも気になって仕方なかったりするのである。
 取り繕っても仕方ないからはっきり言おう。新一の単位はとにかくやばい。やばいにも程がある。新一に比べれば、オレなんてもう、残りの試験を全部目隠しで受けても取れるんじゃないのかと思うぐらいだ。
 そんなやばい新一の単位を、オレが見捨てられるはずもなく。
 自分の授業に出る反面、新一の授業に出つつレポートもやりつつ、オレは日々の生活をこなしているのだった。オレが天才であることは明白だが、けれどオレの身体は一つしかないわけで、これはなかなかに大変な生活だった。物理的な限界というものばかりはどうしようもない。
「ううーん、これはバイトにしたら、けっこう日給もらえる系のあれだよなぁ」
 一日大学に行っただけでもどっと疲れる。ただ授業に出ているだけではなく、その間に服装を変え髪型を変え、新一の振りをしなければならないのだから。慣れたもんだとはいえ、交友関係やら何やらまでを把握しなきゃならないというのは、これがけっこうなかなかに。
 オレは天才だから何とかなっているけれども。いや、何とかなっているといえるのだろうか。けっこうへろへろだ。
「あー、夕飯どうするか……」
 冷蔵庫には何があっただろうか。すぐには思い出せない。買い物をして帰らなきゃいけないような気もしたが、その気力がもはや無かった。やはり一限から五限までぶっ続けというのは辛い。その中で二度新一になってオレに戻った。慌ただしいことこの上もない。
 まあ何か、適当にある物で済ませてもいいだろう。オレはお茶漬けだって好きなのだ。
「ただいまー」
 ぱたぱたという足音が聞こえてくるには、少し時間がかかった。
「快斗、快斗!」
 でも、オレがやれやれと廊下を歩きだしたところで、いつものように新一がすっ飛んできた。
「お帰り、快斗」
「ただいま」
 この、お出迎えという文化は大変いい。この上もなくいい。文化遺産に指定したくなるぐらいにはいい。これだけで溜まったへろへろが、「へろ」ぐらいには減る気がするのだ。
 今日も一日がんばって良かった。今の新一がオレのがんばりに気づくことはないだろうけれど。
「快斗、快斗、あのさぁ」
 てっきり今日も飛びついてくるのだろうと、両腕を開いてスタンバイしたオレをさらりと無視して、新一はその片腕を引っ張ってくる。開いた両腕がちょっと虚しい。
「どうしたの」
「快斗、お腹減ってるだろ?」
「あー、減ってる。待ってな、すぐに何か作ってやるから……」
「今日はオレがご飯作った」
 えっへん、と胸を張るようにして新一君が言った。
 とんでもない言葉を聞いたような気がして、オレの歩みも思わず止まってしまうところだった。けれどぐいぐいと腕を引っ張られているからそれはない。
「……ご飯を?」
「そう」
「え、新一が? 哀ちゃんのお手伝いとかじゃなくて?」
「お手伝いじゃなくて、オレが作った」
「うわぁ」
 まさしく、うわぁ、だった。それ以外の言葉が出てこない。
 普段の新一が作ったと言っても、普通に不安を覚える言葉だというのに。今の新一が。このぽやぽや君が。料理なんてできるのかまともに。
「楽しみだろ」
 わくわくとした表情で新一は言う。何だか色々な意味で気になることは確かだった。オレ達は足早にダイニングへと向かった。
 テーブルの上には、向かい合わせに二つの皿が並べられていた。その横にはフォークも。皿の中を覗けば、赤と灰色のその二色が、何とも言えないコラボレーションを生み出していた。
「……新一君、今日のメニューは?」
「ミートスパゲティ」
「うーん、まあ上にかかってるのはミートだとしても、どうにもその下の麺が、オレには蕎麦に見えるんだけども……」
「麺だろ?」
 新一は首を傾げる。何の問題も感じていないような顔だった。そりゃあそのはず、問題があるとわかっていれば、はなからやるはずもないのである。
「……まあとりあえず、食べようか、うん」
 いつまでも皿を眺めていたって仕方ない。すぐ傍で新一がわくわくとした顔を見せているのだからなおさらに。
 いつものように椅子に座って、用意されたフォークを握りながらに、もう一度まじまじと皿の中を見つめた。やっぱり蕎麦だ。蕎麦の上に、ミートソースらしき物がかけられている。はて、この家にミートソースの缶詰などあっただろうか。
「新一、このミートソースどうしたの?」
「オレが作った」
「えっ、どうやって」
「テレビ見てたら、作り方教えてくれたから」
 でも三分間じゃできなかったなぁ、と不思議そうに言う。まああれはテレビだからなのであって。実際に三分なんて、材料を切り終わることすら難しいだろう。
「オレにもできそうかなって思ったら、できた」
 そりゃもう得意げな顔だった。いただきますと言ってから、新一はスパゲティを食べ始める。オレもそれにならった。
 さぞかしポーカーフェイスが役に立つことになるだろうかと思いきや、そんなことはなかった。それなりにミートソースの味をしていた。美味しいかと言われれば、そこはまた話は別だが。けれど不味くはない。食べれないことはない。
「どうだ?」
 ただ、この食感がどうにも。パスタと蕎麦の食感はだいぶ違う。そもそも、これは巻いて食べるべきなのかすするべきなのか。いや、スパゲティだと言っていたから巻くべきか。フォークだし。
「……うむむむ」
 個人的な感想だが、ミートソースは蕎麦には合わない。
 もしかしたら合う調理法だったり何なりがあるのかもはわからないが、現時点ではこの二つはあまり友好関係を結べそうにはない。口の中で喧嘩をしているわけではないが、お互いにお互いが他人の振りをしている。我関せずだ。そういう組み合わせだ、これは。
「快斗、どう?」
「えー、何と言っていいのかなぁ、これは」
「……おいしくなかった?」
「いやいや、そんなことは。美味しい。すごく美味しい」
 がつがつとオレはスパゲティを食べた。嘘は言っていない。想像よりかはずっと美味しいのだ。何も比較対象が普段のパスタでなくてもいいだろう。相手はぽやぽや君なのだから。
「ほんとに?」
「うん、美味しい。新一が作ってくれたからすごく美味しい。ありがとうな」
「テレビのおかげだぜ」
「そっかそっか。だけどな、せっかくだからこれ、蕎麦じゃなくてちゃんとパスタの麺にしたらもっと美味しかった、と思う」
「パスタの麺、探したけど無かった」
「……あぁ」
 無かったから止めようという考えでは無く、なら蕎麦で代用しようと考えるところが新一君だ。その諦め知らずなところは、なるほど新一らしいと言えるのかもわからない。
「今度、一緒にスパゲティを買いに行こうな」
「灰色は嫌だった?」
 色の問題ではないのだが。
「そうじゃなくて、ちゃんとパスタにかけた方が、もっと美味しくなるから。これでも十分美味しいけど、もっともっと美味しくなるから」
 確か子供は褒めて伸ばすのがいいと、どこかで見た記憶があった。新一は子供ではないが、まあ似たようなものだろう。いいところは褒めて伸ばすべし。
 けれど、褒めてばかりでは駄目だ。料理というのは色々と危険と伴うものなのだから。
「そっかあ、もっともっとおいしくなるかぁ」
 夢見るような声音だった。そうして、ずるずると蕎麦をすすっている。
 なんだ、すすってもいいものかと思ったが、これは単に巻けないからなのだろう。元の新一も、あまりパスタの食べ方は上手くなかった。あまりと言おうか全くと言おうか。
「だけどな、新一。一人で料理をするのは駄目だ」
 ちゅるちゅると蕎麦をすすりながら、新一が「ん?」とした目を向けてきた。
「包丁使ったり火使ったり、危ないだろ? オレがいる時じゃなきゃ料理は駄目」
「別に、危なくなかった。普通にできた」
「でも、駄目」
 はっきりとした声音で言う。ちゅるちゅると蕎麦をすすり終えた新一は、少しばかり眉を落とした。がっかり、という顔だ。
「ちゃんと作れたのに」
「それでも、駄目なものは駄目なの」
 別に、入ってるニンジンに皮が残されていようが、少しばかり火の通しが甘かろうが、そんなことは別にいいのだ。新一が怪我をしなかったり、火事を起こしたりしないのであれば。ミートソースを蕎麦にかけることだって許容範囲だ。
「……どうしても?」
 上目遣いに見上げてくる。口の周りにべっとりとついたソースを、オレは拭いながらにこっくりと頷いた。
「どうしても」
「……快斗はいじわるだ」
 口の周りをキレイにしてやりながら、意地悪呼ばわりされたのは初めてだ。
 よっぽど料理が楽しかったのだろうか。料理をするのはいいことだ。いいことなのだが。過保護過ぎるだろうかと思っても、いざ怪我をしてから「止めておけば良かった」と思ったところで遅いのだ。
 新一のことが心配なのだと、いくら言ったところでわかってはもらえないのだろう。
 だからオレは、違うことを言った。新一が喜ぶであろうことを。
「その代わり、今度オレが、ちゃんと料理を教えてあげるから」
「快斗が?」
「そう、今度休みの時にでも」
 言える程、オレだって料理上手なわけではないのだが。
 けれど少なくとも、ニンジンの皮むきぐらいは難なくできる。きちんと火を通すことも。
「快斗が教えてくれるのかぁ」
「オレができる物に限るけどね」
「ぐるぐるキャベツとか?」
「ロールキャベツね。まあ最初はロールキャベツじゃなくて、オーソドックスにカレーとかで……」
「カレー! カレーはいいな。おいしいし」
 至極満足そうに新一君は頷いた。すっかり機嫌は治ったようだった。カレー、カレー、と呟きながらに蕎麦をすすっている。拭ったばかりの口元は、とたんに元通りだ。最後にまとめて吹いた方が効率的なのだろう。
「ちゃんと教えてあげるから、一人でやったら駄目だよ。いいね?」
「うんうん」
「約束できる?」
「できる」
 良しならば指きりげんまんだと、オレは颯爽と右手の薬指を差し出したのだが、残念なことに新一君には通じなかった。うん? と首を傾げられてしまい、オレの小指は行き場を失ってしまった。虚しい。
 新一はつんつんと、人差し指でもってオレの薬指を突いてくる。いつまでもそんなことをしていても仕方ないので、オレはくしゃくしゃと新一の頭を撫でてから、自分の右手を引っ込めた。
「楽しみだなぁ、快斗とご飯作るの」
 カレーには何が入っているのかと言うこと、意気揚々と新一は語ってくれた。和やかな食卓だった。最後の方は、ミートソースと蕎麦の組み合わせにも、何だか少し舌が慣れてしまっているような気もした。それはいいことなのか何なのかわからない。
 二人そろって食べ終わり、新一の分の食器も一緒にキッチンへ運びながら、オレは初めてその惨劇を目の当たりにした。……少し大袈裟かもわからないが。
「……うわあ」
 本日帰宅してから、二度目の「うわあ」だった。できれば三度目は無いことを祈りたい。
どうして二人分のパスタを作るのに、ありったけのフライパンを使う必要があるのかオレにはわからない。その上鍋も三つも出ている。その中に何だろうか、妙な黒こげな物体があるのがすごく気になる。気になるが、気にしたら負けだという気もしてくる。
「快斗?」
 棒立ちなオレを見て不思議に思ったのか、手ぶらな新一が後をついてくる。
 別に責めるつもりはないのだ。新一でなくとも、料理下手な男がキッチンに立てば、恐らく似たような状況にはなるのだろう。ここまでひどくはなかったとしても。
「新一くーん」
「んー?」
「料理の前に、後片付けの方法を教えてあげようか」
 限りない親切心で言ったオレに、もう一度「んー?」と声を漏らした後に、新一はふるふると首を横に振った。
「それはつまんなさそうだからいいや」
 コンニャロウ。


 オレはしっかりと、休みの日にでも料理を教えてあげると言ったのだが、どうにもその前半部分は新一の頭には残らなかったようだ。
『いつカレー作るの?(*´〜`*)』
 翌日には早速そんなメールが届いた。顔文字を見ると、何だかもうカレーを食べているようにすら思えるのだが。
『にんじゃんとじゃがいもは家にあるよ』
 新一君からのメールは続く。
『あとケチャップもある』
 オレの作るカレーに、ケチャップは生憎と使わないのだが。
 ここで、「今日は疲れてるから作らないよ」とはっきり言える強さがあればいいのだが、これまた生憎とオレはそこまで新一に対して毅然となれる人間ではないのだ。
『わかった。帰ったら一緒に作ろうね』
 呆れながらにそう返事をしてしまったオレに、新一からの返信はこれまた早かった。日に日に新一のメール速度は早くなっている。
『わーい(・ε・` )』
 そこでその顔文字を使うのは間違っていないか。
 と、思ったが、まあそんなことを新一相手に言ったところで仕方ない。オレは今日も友人達の誘いを断って、スーパーでカレールーをゲットし家路へと着いた。
 カレーは多少煮込む時間がかかるものの、手間的には大したものでもない。他の料理を二品三品作るよりかは、むしろ楽なのかもしれない。
 ただしそれは、横に小さなお子様がいない場合だ。身体的にでなく、この場合は精神年齢的に。見た目は子供頭脳は大人の時の時が懐かしい。
「あ、にんじんだろ。オレ、にんじん切るの上手いぜ」
 にこにこと新一君は言う。そう言ってまた皮のまま豪快に切られてもたまらないので、きちんと手洗いをした後に、まずはピューラーでの皮むきから教えた。やはり初心者にはピューラーだろう。
「何で快斗は、ピューララー使わないの?」
「ピューラーね」
 それでは木枯らしが吹いてしまう。
「何で使わないの?」
「ピューラーが一つしかないからです。レディファーストです」
「そっかぁ」
 恐らくこのぽやぽや君は、レディファーストの意味もろくにわかっていないに違いない。まあいいのだけれど。
 新一はニンジンを、オレがじゃがいもの皮を剥き終えて、新一君お待ちかねの切る作業へと入った。嬉しそうな顔で新一は包丁を握っているが、見ていると何だか怖い。殺人事件で使われた凶器のように思えてくる。
「新一君、左手は?」
「……猫の手」
「そうそう」
 ぽやぽやしているが、何せ元が工藤新一なのだから、物覚えはいいのだ。ただぽやぽやしているだけで。だいぶぽやぽやしているだけで。
 どうにも手元が危なっかしいのは、それはぽよぽよ成分の所為ではなく、多分元々の新一が料理をしないからだろう。基本的に、あんまり家庭的な人ではないなぁと思うのだ。探偵だし。
 横目で新一の様子を確認しつつ、オレもまたじゃがいもを切り、次に玉ねぎをみじん切りしていく。買ったばかりの玉ねぎだから、これがけっこう目に痛い。涙が滲む。
「……うー」
 見れば、新一もまた片手で目元をこすっていた。
「あ、ごめん。玉ねぎ目にしみた?」
 真横にいるのだから当然だ。こっくりと頷きながら、新一はちらりと玉ねぎに目をやった。
「玉ねぎ切るとな、涙が出てくるんだよ」
「……知ってる」
 あ、何だ知ってたのか。
 知ってたというか、新一の場合は覚えていたというべきか。
「悪い男みたいだよな」
「……はい?」
「悪い男は相手を泣かすんだろ」
 玉ねぎを見てそう連想する人間は、東都広しと言えどこの新一君ぐらいのものなような気がする。その柔軟な発想にはびっくりする。
「どこでそんなこと覚えたの」
 それとも、これまた覚えていただけだろうか。思わず尋ねたオレに、新一はあっさりと答えた。
「テレビでやってた」
「テレビで?」
「昼間に、ドラマやってた」
 今は主人公が妹と一人の男をめぐって争ってる、と新一は言う。昼ドラでも見ているのだろうか。あんまり今の新一には見てほしくないなぁと、勝手ながらに思ってしまう。
「そのドラマ、楽しい?」
「そうでもない」
「だろうなぁ」
 到底新一の好みに合うとは思えなかったし、それに今の新一では、見ていたところで全てを理解することができないのではないだろうか。
「じゃあ何で……」
 見ているのか、と尋ねようとして。
 そんなの決まってるじゃないか。
「あれだなぁ、三分間で料理するテレビの方が、オレは好きだな。ためになるし」
「ために……」
「スパゲティの作り方とか、教えてくれるだろ」
「あぁ」
 その点は間違いがないのだ。ただし新一君には、料理番組を見る前に、ぜひとももう少し根本的なことを覚えて頂きたいところだ。
 みじん切りにした玉ねぎを、鍋の底で炒めていく。その様子を、興味深げに覗きこんでくる。
「新一、あんま顔近づけると危ないから」
「なあ、何で玉ねぎ焼くの」
「こうした方がカレーが美味しくなるから」
「これ、カレーになるのか?」
「カレーを作ってるんだろ?」
 材料を切っている内に、本来の目的を忘れてしまったのだろうか。そこまでぽやぽやだったのか。
「だってこの間食べたカレーに、玉ねぎは入ってなかった」
「あー」
 何だ、そういうことか。
「こうやってね、よーく炒めて、その後にニンジンやお肉と一緒に煮込むと、玉ねぎは溶けちゃうんだよ」
「溶けちゃうのに、入れる意味あるの?」
「溶けて、カレー全体に旨みが広がるんです」
 多分。
「あ、そっか。溶けても玉ねぎの成分は残るもんな」
 頭のネジが緩んでいるようで、時たま賢いことを言う。あるいは、料理番組で学習した成果なのか。成分という言葉になると、何だか理科の実験のような単語だけれど。
「オレも炒めたい」
「んー、焦がさないように気をつけてね。焦げるとカレーが不味くなっちゃうよ」
「任せろよ」
 何だか不安だ。
 何が不安って、この新一君が、とかく自信満々な様子を見せることほど、不安なことはないというのだ。まあ自信に溢れているのは、以前と同じと言えばそれまでだが。
 けれど結果的に、新一は玉ねぎを焦がさなかったし、カレーは美味しくできた。市販のルーを使っているのだから当然だ。手順さえ間違えなければ、だれが作ろうと美味しくできるのがカレーのいいところなのだ。
「カレーはおいしいなぁ」
 新一君もご満悦だ。
 オレも大変満足していた。美味しい物を食べると疲れが吹き飛ぶ。帰って来た時はやれやれと思っていたものだが、作った甲斐があったというものだ。新一に教える分の手間を加味したとしてもだ。
「そうだなぁ、カレーはいつ食べても美味いよなぁ」
 学校帰りのカレーも美味いが、仕事上がりのカレーもまた格別なのだ。何せ動き回っていたら腹が減る。当然のことだ。
「明日は、何作るんだ?」
「ん? 明日? 明日の夕飯?」
「そう。明日の夜は何を作るんだ?」
 妙に楽しげな顔は、いつもの夕飯の尋ねる時の顔ではなかった。そもそも普段の新一なら、食事中に明日の夕飯内容を尋ねてはこない。
「オレ、明日も何か切ったりしたいなぁ」
「……新一君、明日も一緒に料理する気でいる?」
「だって、夕飯は毎日食べるだろ?」
 こりゃあ困った。オレは毎日毎日お料理教室を開く程暇ではないし、そこまでレパートリーだってないし、できることなら惣菜やコンビニ等で済ませたくもあるのだ。こういうお料理教室は、たまのイベントだからいいのであって。
「あと、ケチャップだともっといいな。ケチャップはおいしいし」
 カレーを頬張りながらに、新一はそう希望を述べる。
 元々の新一は、決して料理好きな性質ではない。そもそも新一が料理を作り出したのも、昼間に料理番組を見ているからだ。なぜそんなものを見ているのか。答えは単純、暇だからだ。
暇は何ともいけない。暇をこじらせた人間は、大体ろくでもないことしかしないのだ。いや、新一の料理がろくでもないと言いたいわけではなくて。決してそうではなくて。
「……やっぱなあ、あれっきゃねぇかなあ」
「あ、あと、卵もいいな。卵もおいしい」
 考えを巡らすオレには気付かず、新一はカレーを食べ終えるまでの間ずっと、あれがいいこれがいいと、楽しげに話し続けていた。

 *

 新一が特別好きでもない昼ドラなんてものを見ているのも、料理なんてしようと思い立ったのも、他にやるべきことがないからだ。つまりは暇だからだ。
 料理をするのはいいことだが、あまり創作料理を披露されるのもオレの舌と胃袋が困ってしまうし、新一が一人の時に包丁や火を使うのは、やはり危ないと思うのだ。一人で料理はしないと約束はしても、また料理番組を見ていたら、作りたくなることがあるかもしれない。
「そんなわけで、新一君」
「うん?」
「君をこれから、とっても楽しいところに案内してあげましょう」
 今日の授業は午後からだ。ちょっと早めの昼食を二人で終えてから、オレはそう言ってダイニングから新一を連れ出した。
 原因が『退屈』にあるのなら、その『退屈』を消してしまえばいい。話は単純なことなのだ。
「楽しいところって?」
「それは着いてからのお楽しみです」
 普通の家でこんなことを言えば馬鹿みたいだが、何せ工藤家はとんでもなく広い。二人並んで、その長い廊下を進んでいく。
「楽しいところってどこかな。お風呂かな」
 わくわくとした様子で新一は言う。
「お風呂楽しいんだ?」
「あわあわと、あとアヒルが楽しい」
「あーそうだね、新一君いっつも楽しそうにアヒルで遊んでるもんね……でも残念、お風呂じゃありません」
「んー、じゃあベッドかな」
「……新一、ベッドでも遊んでるの?」
 自分で髪を洗うのが嫌だと言う新一に付き合って、風呂は一緒に入っているが。当然寝室は別だ。オレは勝手に客室を使わせてもらっている。
 オレの問い掛けに、新一は心なしかえへんと胸を張るようにして答えた。
「でんぐり返りと後ろでんぐりと、あと逆立ちができるぜ」
「え、すごいね。でも新一、ベッドの上で前転とかしてると、落ちたりして危ないよ」
「もう落ちたから平気」
「……あ、そう」
 それははたして平気なのか。
 逆立ちまでできるとは驚きだ。そりゃあ元は工藤新一なのだから、運動神経は良いに決まっているだろう。でもどうにもこのぽやぽや君には、鈍そうなイメージがあると言おうか何と言おうか。
「だけどなぁ。横にぐるっと回るのがなぁ、できないんだよなあ」
「横にぐるっと……? 側転とか?」
「あ、そんな感じな気がする」
「新一君、側転て寝室でするものじゃないから。ぶつかったりして危ないから、それ。でんぐり返しぐらいならいいけど、側転まではダメだよ。狭い部屋でやるもんじゃないから」
「あ、部屋が狭いからできなかったのかな」
 なるほどなるほど、と新一は頷く。その後に「じゃあやめよう」と続かなければ、オレは普通に突っ込んでいたところだろう。そういうことじゃないからと。
 それにしてもそんなことまでしているとは。それもテレビで、何かの体操番組でも見たのだろうか。テレビが子供に与える影響が大きいという意見もよく聞くが、確かにそうなのだろうとよくわかる。実感する。
「楽しいところって、ベッドでもない?」
「うーん、ベッドじゃないんだなぁ」
 以前は確かにオレにとっても楽しい場所だったのだ。お風呂も、そうした意味で楽しくなるのなら大歓迎なのだが。妄想しそうになって慌ててそれを押し止める。
 何せ一緒にお風呂に入っているものだから、裸なんて文字通り見放題なのだ。ついでに言えば触りたい放題でもある。けれどそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。何て拷問だろうか。はたまたどんなプレイだ。
「じゃあどこだろう」
 真剣に新一君は悩んでいる。
 うーんと考え込むその様子は、当たり前だが以前の面影を残していて、オレは内心で少しどきりとしてしまったりするのだけれど。
 そんな顔も、長くは続かなかった。と言うのも、そうこうしている間に、目当ての部屋に辿りついてしまったからだ。
「正解は、この部屋でしたー」
じゃじゃーんと効果音の一つも立てたいところだったが、生憎とそんな仕掛けはしていなかった。
「この部屋に入るの、新一は初めてだよね?」
 記憶を失ってからは。
 以前はどうだったかなんて、そんなことは言うまでもない。この部屋で一日を過ごすことなんてざらにあっただろう。
 何せオレのよく知る工藤新一は、この上もなくある分野において、読書好きな人間だったのだから。
「ここ、何の部屋?」
「新一がすっごく喜ぶ部屋だよ」
「早く」
オ レの言葉に素直に喜ぶ様が可愛らしい。もう少し焦らしたい気もしたが、オレはこの後大学に向かわなくてはならないのだ。
 扉をゆっくりと開けて、新一を招き入れる。きょろきょろと辺りを見回しながらも、同時にその表情には戸惑いの色も浮かんでいた。何を指してオレが『楽しい』と言っているのか、よくわからないと言った顔だった。
「ここ、何の部屋? でんぐり返りする部屋?」
「いやいや、そうじゃなくてね」
 広いからそう思ったのだろうか。確かにこの広さなら、あとはマットでも敷けば軽く運動なんてできてしまえそうだが。
「ここはね、本を読むための部屋だよ。ほら、周りの本棚に、いっぱい本が入ってるだろ?」
「本」
「新一君、字はちゃんと読めるんだし」
 その辺りの記憶はしっかりとあるのだ。あるいは知識とでも呼ぶべきか。メールも打てるし、料理番組を見ている時には、どうやらしっかりメモも取っているようだった。
「へぇ、本かあ」
 ふむふむと頷きながらも、あまり気乗りしていないことがわかる声だった。そんな様子を横目で見ながら、オレはよく見慣れた背表紙の、読み古された本を手に取り、そっと新一に差し出した。
「多分これとか、新一はすごく好きなんじゃないかなあ」
 オレが何の本を差し出したかなんて、もちろんそんなことは、言うまでもないだろう。


 オレが何でこの暇つぶしを早く出さなかったのかと言えば、まあ簡単なことだ。
 いくらちょっと頭のねじが緩んでいようが、ちょっとぽやぽや君になっていようが、新一は新一なわけで。推理小説をこよなく愛するお人なわけで。
「……ホームズってすごいなあ!」
 長い講義を終えて家へ帰れば、出迎えをしてくれるわけでもなく、書庫に鎮座していた新一君は、おかえりよりも先にそんなことを言った。
「……えーっと」
「すごいなぁ、ホームズってすごいなあ! どんな事件でも解決しちゃうんだぜ。探偵ってかっこいいなぁ。でも、中でもホームズは多分すごい探偵なんだよな」
「新一君、オレにお帰りは?」
「何でオレ、今までこんなすごい人を知らなかったのかなぁ。テレビに出て無かったからかな。ホームズは本当すごいよなぁ。周りの人が何もわからないのにさ、ホームズだけはいつだって真実を突きとめちゃうんだぜ。すごいなぁ。ホームズはすごいなぁ」
 すごいすごい、と本を抱きしめるようにしながら新一は言う。その頬は紅潮している。こんなにもうっとりとした新一の表情なんて、まったく久々に見た気がする。以前に見たのはいつだったろうか。そうそう、新一が楽しみにしていた推理小説を読み終えた後だったような―――あれ、何だか変わらない気がする。
「あ、でもすごいのはホームズだけじゃないよな。ワトソン博士もすごいよな。二人で協力して事件を解決してくっていうのがすごいよなぁ」
 結局お帰りも言ってもらえないまま、新一は一人シャーロックホームズの良さを語っている。つい先日まで、走って出迎えに来てくれたのになぁと、とたんに虚しい気持ちになる。止めよう。
 どうしてオレがさっさと新一に本を渡さなかったのか、これでわかるというものだろう。いや、わかってもらえなくても構わない。構わないが、ほんの少しだけでも、本に夢中にならない、夢中になってオレのことを忘れない、ホームズのことを熱く語らない、そんな新一を堪能したかったのだ、なんて。
 オレも大概バカだとは思う。思うがまあ仕方ない。恋は人を愚かにさせるのだ。ちょっと哲学めいたことを言ってしまった。恋は人を愚かにさせる。いい言葉だ。
「なあなあ、快斗」
 オレが一人哲学に耽っていると、新一がとことこと近づいてきた。
 オレの横にぴったりと座り込んで、期待するような眼差しで見上げてくる。
「ホームズはどこにいるんだ? あ、ベーカー街っていうのはわかるんだけど」
 ベーカー街はどこにあるんだろう。ここから歩いて行ける? と、新一君はどこまでもあどけない表情でオレを見つめてくる。
 いやあこれは。
「どこに行けばホームズに会える? 会いたいなあホームズに。会ってさ、この事件のこと聞けたらいいな!」
 瞳がとんでもなく輝いている。だからこんなにも輝く新一の瞳を見たのは以下同文。
「……えぇっと」
 小さな子供に、アンパンマンやドラえもんの存在を聞かれた親というのは、きっとこういう心境なのだろうか。も作って風呂にも入れてと、何だか今なら主婦の方達の子育て談義にもしっかり混じれる気がするのだから恐ろしい。
「……どこだろうねぇ?」
 小説を夢中になって読んでいたくせに、これが作り話だとは気付かなかったのか。
 いや、夢中なあまり気づかなかったと言うべきなのかどうなのか。その辺りはさすがぽよぽよ君と言うべきなのか。
「快斗、知らないのかよ」
 とたんに新一君はつんと唇を尖らす。キスしたくなるから止めて頂きたい、本当に。
「ごめんね。オレあんまその本読んでないもんだから」
「読んでねぇの? こんなに面白いのに?」
 つんと尖らせた唇もあれだが、人非人を見るような目で人を見るのも止めて頂きたい。オレが勧めなければ、今の新一はホームズに出会うこともなかったというのに、畜生め。
「オレはどっちかって言うと、ホームズよりルパン派だからなぁ」
「ルパン? そういう探偵もいるの?」
「いや、ルパンは探偵じゃなくて怪盗」
「かいと? 快斗?」
「違う違う。オレじゃなくて怪盗。か・い・と・う」
 ルパンは探偵じゃなくて快斗、だなんて、文脈がおかしいというものだろう。文脈以外にも色々と。
「かいとーって?」
「んー、わかりやすく言えば泥棒のことかな。泥棒とはまたちょっと個人的には違うとは思ってるんだけどまぁ……。あ、泥棒はわかる? 人から物を盗む人のことなんだけど」
「わかる」
 真面目な顔で、こっくりと新一は頷いた。
「犯罪者のことだろ?」
「……う、うん」
 間違ってはいないし、事実その通りなのだが。
 でも何だろう、今のこの新一君なら、「悪い人のことだろ?」とでも言ってくれそうなものなのに。急に頭のネジがしまるからびっくりする。
「快斗は犯罪者が好きなのか?」
 真面目な顔のまま、またそんなことを尋ねてくるのだから困ってしまう。
「やー、犯罪者が好きっていうか……」
 オレ自身が犯罪者なんです。なんて、言ってみたらどうなるのだろう。言わないけれど。
「何かこう、悪役にこそ感じるロマン? っていうの? そういうのがすごくいいなぁと。そりゃまあただの泥棒は好きじゃないけど、怪盗っていうのは同じ盗みにしたってそこに怪盗なりの美学があるわけでしてね」
「ふーん」
 至極どうでもよさそうな声だった。以前から、オレがどれだけ怪盗紳士の良さを語ろうが、まったく聞く耳もたなかった新一であるから、これは仕方が無いことなのかもしれない。ちょっと寂しいが。
 新一はぱらぱらと本をめくっていたかと思うと、読み途中だったのか、とたんにそこからまた物語りの世界へと入り込んでしまう。真剣な表情はオレのよく知る新一の横顔そのままで、あぁやっぱり変わらないんだなあと、今更のように思ってしまった。当然だ。
「新一くーん」
 呼びかけても、もちろん返事など返ってこない。
 読書に集中している時の新一に、ろくに声など届いていないのだ。邪魔をすれば、どんな目にあわされるのかわかったものではない。
 でも今は、それとは少し事情が異なる。何せぽやぽや君だ。オレはよいせっとその身体を持ちあげて、自分の膝に乗せ直した。
 新一が幾ら痩せていようが、それでも身長の変わらない同い年の男だ。もちろんそれなりに重い。重たいが、けれどこれが幸せの重みだとも思うのだ。
「……あー」
 新一は、ただもくもくと本を読んでいる。
 オレは新一を後ろから抱きかかえるようにして、ちょっと首筋に鼻先を埋めてみたりする。幸せだ。
「いいなぁ」
 これで新一の記憶が戻りさえすればとは、そうは思わなかった。


 さて、本を与えてからというもの、新一はさっぱりキッチンに立つことがなくなった。ついでに言えばテレビを見ることも。いや、日中新一がどうしているのかなんて本当のところオレにはわからないが、けれど様子を見る限りそうだろう。試しに新一に昼ドラの続きはどうなったかと聞いてみれば、「わかんない」と答えが返ってきた。
 オレの狙い通りだったわけだが、あまりにも急に本の虫になられると、これがちょっと寂しかったりもする。我儘なものだと自分で自分に呆れたが、あれだけ毎日のように届いていたメールが、あの日を境にぱったり届かなくなるというのも、それはそれで物悲しいものがあるのだ。男心は意外に繊細なものだから。
「……まあいいんですけどー」
 元に戻っただけのことだ。それもそれで何だか嫌な考えだが。
 けれどおかげで、オレもようやく友人達の誘いに多少応じることができるというものだった。一人二役の大学生活は忙しいことこの上もなく、新一とのお料理教室が無くても真っ直ぐ家に帰りたい気持ちは満々なのだが、そうとばかりも言ってはいられない。
 あまりに付き合いが悪いと、いざという時に代勉やらノートやらの協力が得られない。打算的と言うことなかれ。友情は友情として、もちろんきちんと大事にしている。今日も呼ばれた先のカラオケで、オレはぱーっと誕生日パーティーを盛り上げてきた。鳩をうっかり飛ばし過ぎて、タイミング悪くやってきた店員に注意を受けてしまったぐらいには。
「おおっと」
 そんな風に、多少予定外のハプニングがあったりしつつも、久々に友人達とバカ騒ぎをするのは楽しかった。安い酒も、ああした場で飲むと不思議と美味く感じるものだ。
 友人達はそのまま二件目へと流れて行ったが、オレはそこで別れ一人帰路へと着いた。
「何してるかねぇ、新一君は」
 今日は遅くなることがわかっていたから、新一の世話は灰原女史に頼んできた。世話と言っても別に子供ではないから、必要なのは夕飯の面倒ぐらいなのだが。どうせ新一は、今日も本ばっか読んでいるのだろうし。
「あ、土産でも買ってくか」
 新一にというよりは、灰原女史に。意外にあの子は甘い物が好きなのだ。そんな辺りは年相応―――と言うよりも、見た目相応と言うべきか。女の子が喜ぶ様を見るのは素直に嬉しい。
 スーパーの中に入っているケーキ屋なら、まだぎりぎり開いているだろう。時間を確認しようと携帯を取り出せば、ちょうど一通のメールを受信したところだった。
 送り主は、工藤新一。

『早く帰ってきて(*゜▽゜*)』

「おおお」
 久々の新一からのメールで、これまた久々に可愛らしいメールだった。
 オレが珍しくも帰って来るのが遅いから、さすがに寂しくなったのだろうか。ちょうど本を読み終わったタイミングだとしても構わない。なんだなんだ、やっぱりオレが恋しいんじゃないかと、にまにまと頬が緩んでしまう。この甘えん坊め。
「はいはい、すぐ帰りますよー」
 駆け足でスーパーに駆けこんで、手早く残っていたケーキを幾つか箱に詰めてもらう。駆け足でケーキを持って帰るなんて、普通であれば中身がぐしゃぐしゃになるところだろうが、バランス感覚に長けたオレにとっては何てことはない。
 新一はまだ、隣家にいるのだろうか。そう思ってちらりと門越しに覗いたが、工藤家にもしっかりと明かりがついていた。時間も時間だし、もう家に戻ってきたのだろうか。
 ケーキを見てから、まずは一旦家へと帰る。今日はオレの帰りを待ってくれているようだし、また駆け足で出迎えてくれちゃったりするのだろうか。それはけっこう、いやかなり嬉しい。
 とは言え、あまりに期待をしすぎるのもまずい。何せ今のぽよぽよ君は、いい意味でも悪い意味でも、オレの想像を超えた行動に出てくれるのだから。今に始まった気ではない気もするが。
「ただいまぁ」
 期待半分、その期待をなお半分程押さえながら、扉を開けた。
 とたんに、ぱたぱたぱた、とスリッパの音が聞こえていた。一体いつぶりのことだろう。頬がますます緩む。このままでは落ちてしまいそうだ。
「快斗っ!」
「ただいまー、新一」
 駆けよってきた勢いのまま、飛びかかって来た新一の身体をオレは抱きとめる。あらかじめケーキは床に置いておいてよかった。
「快斗、快斗っ」
「どうしたの新一。寂しかった? ごめんねー、今日は遅くなっちゃって」
「快斗、灰原が」
「あぁ、哀ちゃんと夕飯食べたんだろう? 美味しかった?」
「……おいしかった、けど」
 オレの胸に頭をぐりぐりと押しつけながらに、新一は小さな声で言った。
 何だ。これはまた、哀ちゃんと何かあったのだろうか。何かあったというか何というか。
「……灰原が怒った」
「新一、何したの。何もしなきゃ哀ちゃんだって怒らないだろ?」
「本読んでた」
「読んでて?」
「ご飯だって、呼ばれたの、気づかなかった」
 そうしたら怒られた、と。
 何ともまあ、想像のつきすぎる光景だった。オレが夕飯を作っている時だって、そりゃあ新一君は全く呼びかけに気づかないのだ。もはや工藤新一の習性とも言えるだろう。
「まあ、せっかくご飯作ってくれてるのに、気づかない新一が悪いわけだからなぁ」
 その点については、何とも弁護のしようがない。オレは心が広いから、そうした新一の不作法も気になることはないのだが。いや別に、哀ちゃんの心が狭いと言っているわけではないけれど。そういうわけではなくて。
「だって、気づかなかった」
「うん、無視したわけじゃないっていうのはわかるんだけどね」
「気づいたら、ちゃんとオレだって返事してる」
「うーん、そうだねぇ、新一に悪気がないことはわかるんだけど……」
 でもやっぱり、かばい切れないなぁと思うのだ。そこまで読書に集中できるというのも、本当何かの才能なのではないだろうか。
 オレがなかなか新一に同意をしてやらないからだろうか。新一が不服そうな目でオレを見る。
「灰原、オレの頭ぶった」
 これならどうだと、あの手この手で、喧嘩相手の罪状を訴えてくる子供のようだ。可愛いことこの上もない。
「ぶたれたの?」
「うん。痛かった」
「そりゃあ可哀相に」
 なでなでと頭を撫でてやれば、少しだけ新一は満足したように微笑んだ。けれどすぐさま、必死な顔になって、オレの襟元を掴んでくる。ぽよぽよ君でなければ、掴み上げられているような格好だ。
「快斗、本取り返してきて」
「本?」
「灰原が怒って、オレの本返してくれない」
 いつの間にやら、新一は涙目になっていた。幾ら夕飯だと言っても本を読み続ける新一に、怒った灰原女史がその本を取り上げた上に頭を叩く図が、瞬く間に脳内に広がっていた。脳内一人劇場だ。見ていてもあまり楽しくは無い。
「快斗、お願い」
「……えーっと、新一君」
「快斗なら、本取り返せるだろう?」
「えー、取り返せるって……」
「快斗の方が、灰原よりも大きいし。きっと灰原も倒せると思う」
 倒せるって。
 新一の中で、灰原女史はどんな存在になっているんだ。ラスボスか。ラスボスなのか。オレは怪盗であって勇者ではないのだ。あまりむちゃを言わないでほしい。
「快斗、オレのためにがんばって」
 きっとそのために、珍しくもメールなんて送ってきたんだろうなぁと。
 わかりながらにもそんな可愛い声援を送られては、オレはもちろん隣家に向かわずにはいられないのだった。


「あら、帰ってくるのが早いのね」
 ケーキを持って向かったオレを、灰原女史は至って普通に迎え入れてくれた。
それどころか、ソファに着くと同時に、紅茶と共に一冊の本を差し出された。言わずもがなのシャーロックホームズ。
「届けに行く手間が省けて良かったわ」
「……えーっと、返して頂けるので?」
「私の手元に、こんな物を置いておいてどうするのよ」
 全国のシャーロキアンが憤慨しそうな。
 けれどごもっともだ。この科学者は、推理小説を愛読書にしているわけではないのだ。
「夕飯が終わったら、返すつもりだったのよ。近くにあると、あの人絶対食事に集中しないと思ったから」
 なのに、夕飯が終わったらすぐに帰っちゃうんだもの、と。
 何気なく灰原女史は呟いたが、オレにはその光景が目に浮かぶようだった。どうにもあの新一君は、灰原女史を怖がっている。その気持ちは十分によくわかるから、オレは何とも言えない。別にオレは注射や採血を怖がっているわけではないが、もっとこう精神的な意味でもって。
「せっかくあんな状態なんだもの、食事マナーぐらいしっかり躾直してちょうだい」
「躾直してと言われても」
「あなたによく懐いてるじゃないの」
「雛の刷り込みみたいなものじゃない?」
 とは言ったものの、この新一が初めて出会ったのは、オレではなく哀ちゃんなのだった。本当に刷り込みなのなら、今頃哀ちゃんにべったりになっていてもおかしくはないのだ。想像して、オレは思わず妙な顔になってしまった。何ともかんとも。
「今の彼なら、少しは素直にこっちの言うことも聞くでしょう? ……ま、逆に面倒なところもあるみたいだけど」
 今頃家では新一がオレの帰りを―――もとい、本の帰りを待っていることだろう。そうわかっていても、紅茶が美味しいものだから、オレはしっかりとソファに座り込んでしまう。
「まあねぇ、可愛いことは可愛いんだけど」
 そりゃあもうものすごく。
 ものすごく可愛くて、そして同時にものすごく手がかかる。
 いや、手がかかるのは元の新一も同じことか。その種類が少しばかり違うだけで。思い出せばやっぱり懐かしい。懐かしい、と思うことにも違和感を感じる。新一は新一なのに。
「でも、いい加減、どうしたものかしらね」
「食事マナー? そりゃ何にでもケチャップかけるのはどうかと思うけど……」
「そこじゃないわ。記憶の方よ」
 呆れたように眉を寄せられてしまった。察しの悪さは、久々に酒を飲んだ所為だと諦めてもらいたい。あのぽよぽよ君と一緒では、酒も満足に飲めやしないのだ。下手に興味を示されても困る。
「いつまでもこのままってわけにもいかないでしょう」
「そうですけどね」
 何も新一だって、好きであの状態になっているわけではないのだ。解決方法だってわからない。精々オレらにできるのは、新一の経過を見守ることぐらいで ―――いや、灰原女史はもっと現実的に、色々な検査をしてくれているわけなのだが。それでも、記憶喪失を治す特効薬が作れるわけではない。
「ご両親に言うべきかと思ったのよ」
 思いがけない言葉だった。
 ぱちくり、とオレは思わず愛らしい瞬きを返してしまう。新一の両親と言えば、それはもうよく知っている。一方的にだけれど。
「工藤君に何かあった際には、連絡をしてほしいって前から言われていたのよ。本当ならすぐにでも連絡をすべきだったけど、もし三日やそこらで記憶が戻ったのなら、工藤君が嫌がることはわかっていたし。大事にもしたくはなかったしね」
 何だかんだ言いつつ、哀ちゃんも新一にはどことなく甘い。自然と周りをそうさせてしまう力を持っているようだとも思う。それはオレの欲目なのかもわからないが。
「……あー、ご両親、ねぇ」
 一人息子が記憶喪失ともなれば、すぐさま飛んで帰ってくることは確かだろう。放任主義なようでいて、新一がこの上もなく大事にされていることは知っている。新一を見ていればそうとわかる。
「それに、ご両親が来たからと言って、記憶が戻るわけではないでしょうし……逆に、今の工藤君を混乱させることにもなりかねないと思って」
「なるほど」
 哀ちゃんは一人で色々と考えていたらしい。オレとは大違いだ。オレと言えば、毎日何の料理を作るかと、ここ最近そればかり考えていたというのに。
 今の新一から、両親について尋ねられたことは一度も無い。親という概念すら、そもそも覚えているのだろうか。最近は本をよく読んでいるから、わかっているかもしれない。ただ、自身の両親について忘れていることは確かだろう。今の新一は、だれのことすら覚えてはいないのだから。
「……ううーん、何かのほほんというかぽやぽやーっとしてるし、変に混乱しちゃうようなことはないと思う、けど」
「気乗りはしなさそうね」
「そりゃあ」
 何せオレは新一の恋人だ。そこは隠して、ただの友達として挨拶するとしても、同時に怪盗という仮面もかぶっているわけで。
 恋人の両親相手に嘘をつくというのは、ポーカーフェイスに慣れたオレでも気乗りはしない。できることなら避けて通りたい道だ。いつまでもそう言っていられないことはわかっていたが、それでもまさか、新一がこんなぽやぽや状態の中、ご両親への挨拶をすることになるとは今まで予想もしなかった。何てことだ。
「ま、何も今すぐ連絡を取ろうと思ってるわけじゃないわ。その前に、工藤君に一応話をした方がいいとも思うし。その辺りの判断はあなたに任せるわよ」
「うわあ」
 嬉しいようなそうでないような。
 ていよく面倒事を押し付けられたような気もしたが、まさかそんなことを女史相手に言えるわけもない。恋人ならそのぐらいのことをして当然だろうとも思う。今のオレは、恋人というよりはまるで保父さんなのだが。
「そろそろ家に帰った方がいいんじゃない? 続きを読みたくて、きっとそわそわしてるわよ」
 見透かしたように哀ちゃんは言う。と、同時にジーンズのポケットに突っこんでいた携帯が震えた。

『快斗負けちゃった?』

 オレは戦いを挑みにこの家に来たのだったか。

『ホイミ』

 暇を持て余している間、料理番組を見ているだけではなく、ゲームもしていたのだろうか、この子は。
「……あー、そろそろお暇するね、オレ」
「催促のメール?」
「うん、HPまで回復してもらっちゃったからね」
 もちろん哀ちゃんは怪訝そうな顔をしていたが、笑顔で手を振り残った紅茶を飲み干して、勇者快斗は隣家へと戻ったのだった。ぜひとも今後のために、ルーラぐらい習得したいものだった。


 新一のご両親。これはけっこうな難題だった。
 けれど言われてみれば、確かに息子の一大事だ、真っ先に親に報告して然るべきというものだろう。いくら名探偵といえども大学生。未成年。そうして今は名探偵ですらないというか、ただのぽよぽよ君だ。手のかかるお子様だ。何せ頭も満足に一人じゃ洗えないときた。
「新一くーん」
「……んー?」
「えぇっと、新一の両親についてなんだけど」
 とりあえず何と話を切り出そうか迷った挙句、オレは素直に話を切り出すことにした。こんな面倒な話を回りくどく言っては、余計にややこしくなるだけというものだ。
「……んー」
「ちょっと。寝ないでよ新一。寝ないでってば」
「だいじょーぶ、起きてる」
 その声がそもそも怪しい。
 風呂の中で話を切り出すのはまずかったか。今日も今日とてオレは新一の頭を洗っている。バスタブに入って美容院のように頭だけ外側に突き出して、オレに頭を洗ってもらうのが今の新一君のお気に入りのスタイルだ。そうして湯船にはアヒル君が浮かんでいる。
「お風呂で寝ると危ないから。溺れるから。ほら起きて起きて」
「だから起きてる」
 ちょっとばかしむっとしたように言われてしまった。人に頭を洗わせてるんだから、もうちょっとこう感謝の念とか何かは無いのだろうか。新一相手に一々そんなことを言う気もないけれど。
 まあ気持ちはわからないではないのだ。オレだって美容院で頭を洗われるのは気持ちがいい。オレのシャンプーテクがそこまで上達しているのかと思えば、少しばかり気分もいい。マジシャンは指先が命。
「オレのりょーしんがなに?」
 ちゃんとオレの話は聞いていたようだ。発音と言うか何というかが、やっぱり怪しいような気はするが。
「ご両親のこと覚えてる?」
「だれ?」
「だから、新一のご両親。お父さんとお母さん」
「知らない」
 覚えてない、ではなく、知らないと来たか。
 今の新一にとってはそうなのだろう。過去のことを全て忘れているのだから。けれど会話は一応成り立つし全てを全て忘れてしまっているわけではないしで、何とも微妙なものだ。記憶喪失というのはこういうものなのだろうか。
「えーっと、お父さんとお母さんっていうのはわかる、よね?」
 オレが一番危惧していたのはそこだった。
 わしゃわしゃと頭皮をマッサージしながら尋ねたオレに、新一は小さく頷いた。こっくりと深く頷けば、泡が垂れてしまうからだろう。新一君は何度もそれをやっては「目が! 目が!」とムスカごっこをしているのだ。いや本人は本気で痛がってるんだけど。
「父親と母親のことだろ。そのぐらい知ってる」
「おお」
「でもなぁ、ホームズのりょーしんのことはわからないんだよなぁ。お兄さんしか出てこなくて……」
「あ、うん。ホームズはいいんだけど」
 この、油断すると話題がホームズに流れていくのはどうにかできないものだろうか。だれだ新一にシャーロックホームズなんて読ませたのは。オレだ。
「いやいや、でも新一が、両親について知ってて良かった」
 人間も卵から生まれるとでも思われていたら、一体どうしようかと思っていたのだ。オシベとメシベの話からしなければならないのかと、オレはけっこう本気で悩んでいたのだ。恋人相手にそれは嫌すぎる。いやだれが相手であろうと嫌だけれども。
「だから、りょーしんのことは知らない」
「あぁ、ごめんごめん。そういうことじゃなくて」
 会話が噛み合っていないと思ったのだろう、少し憮然とした声だった。
「新一君の両親は、今離れた所に住んでいます」
「ロンドン?」
「違います」
「ちぇっ、ベーカー街ならいいのに……」
 えぇい、だから少しホームズから思考を離せ、このホームズオタクめ。
「だからね、普段は離れた所に住んでるんだけど、今の新一はまだ両親に会ったことはないだろ?」
「きおくそーしつになってからは、ってこと?」
「そうそう。だから、ご両親に会いたいかなぁって」
「別に」
「うわあ」
 何ともかんともな返事だった。新一らしいと言えばそれまでだが。
「だって知らない人だし」
 それを言えばそうなのだ。どれだけ仲が良かった友人であろうが追い詰めた犯人だろうが、今の新一にとっては全て知らない人であり、だから会いたいとか会いたくないとか、そんなこともそもそも頭に浮かばないのだろう。きっと。
 でも両親だ。幾ら知らない人とはいえ両親だ。いくら記憶を失っていても、自分の親がどんな人かは気にならないだろうか。と言っても、オレに記憶を失った経験はないからわからない。
「オレのりょーしん、どんな人?」
 いや、気にならないわけではないらしい。自分の頭から、オレがもこもこに立てた泡をすくい取って、アヒルの頭に乗せながら新一君は尋ねてくる。湯船に落ちそうだから止めてほしいのだけれど。
「お母さんは、工藤有希子さんて言って、元女優だった人。すげぇ美人」
「ふーん」
「んで、お父さんは優作さんて言って、世界的にも有名な推理小説家」
「えっ、推理小説?」
 この反応の差だ。元女優の名が泣くというものではないだろうか。慌てて振り返ってくれたものだから、泡が当たりに飛び散っていく。あぁもう。
「新一君、前向いて前。頭洗ってる途中に動かないで」
「だって、推理小説って! ホームズ書いたりするのかな。するのかな」
「いや、別に優作さん、コナン・ドイルじゃないし……」
「あぁ、そっか。……じゃあオレ、コナン・ドイルがお父さんだったら良かったな。あ、今からオレのお父さん、コナン・ドイルにならないかな」
 前言撤回。やっぱりこのぽよぽよ君には、オシベとメシベの話からした方が良かったのかもしれない。
「お父さんを替えることは無理だけど、優作さんも十分にすごく面白い推理小説書いてるからね。今度読ませてもらって……っていうか、この家に普通に置いてあるだろうから、今度読んでみなよ」
「お風呂上がったら読む」
「お風呂上がったらもう寝る時間だからダメです」
 そりゃあ寝るまでに、ほんの三十分か一時間読む程度ならいいのだが、この新一がそれで終わるわけがない。平気で徹夜をするとわかっていて、みすみす読ませるはずがないというのだ。
 そうして今の新一にとって、オレの言葉は割合と『絶対』であるらしい。素直なのはいいことだった。
「……ちぇっ、快斗のけち」
 唇を尖らせて拗ねて見せるとか、そんな高度な技と使うのは、本当に止めて頂きたい。主にオレの下半身的な意味でもって。
「……オレはケチじゃありません」
 バスタブの外にいて良かった。新一からは見えない位置に居て良かった。ただ問題は、この後どうするかというところだ。一応タオルを巻いているが、オレもほら、若い男であるわけでして。
「ケチだよなー。おまえもそう思うよなー?」
 新一君は、湯船に浮かんだアヒル君に話しかけている。当然先ほど頭に乗せた泡は、とっくのとうに湯船に落ちている。その頭をなでなでしながら、「どうしておまえはハゲなんだ?」なんて問い掛けている。そんなのアヒル君の好きにさせておいてあげなさい。
「なあ、他には?」
「えっ?」
「だから、オレのお父さんとお母さんについて」
 そんなに深く突っ込まれるとは、オレとしたことが予想していなかった。いかにオシベとメシベを回避するかということばかり考えていたのだ。
 語れることならそりゃあ山のようにある。何と言っても、工藤新一に化けたことは数知れず、というか今でも現在進行形なわけで、もちろん両親については念入りに調べておいたのだ。そうでもなくても著名な二人であるから、一般人だってそれなりの情報は知っているものだろう。
 それをありのままに伝えることは簡単だったが、状況が状況だ。そんなことよりも、やはり新一を両親に会わせるように、そんな流れに持っていった方がいいのだろうか。優作さんの推理小説家という札を使えば、持って行くことは難しくはない気がする、なんて。
 考えていたオレに、やっぱり新一は意外なことを言うのだ。このぽよぽよ君は、まったくもってオレの意表を突きまくってくれる。
「快斗は、オレのりょーしんをどう思う?」
 よりによってそこを突いてくるか。
 頭から余分な泡を取りながら、オレは数秒間考え込んだ。考え込んだが、まさか嘘をつくわけにもいかない。
「あー、オレは新一の両親に会ったことがないんだ」
「何で?」
「会う機会がなかったから」
 間髪入れずに返って来た問いに、オレも反射神経で答える。嘘ではない。新一から「両親に紹介しようか?」なんて言われたことはないし、多分これから先だって無いだろう。
「何で会う機会がなかったんだ?」
「えー……離れて暮らしてるから?」
 そんなのオレだって聞きたい。オレがこれだけ工藤家に入り浸っているというのに、それでも一度として新一の両親に会う機会がなかったのは、それは工藤夫妻が海外で暮らしているからだろうし新一もあえて紹介するような真似をしなかったからだろうし、なぜ紹介するようなことをしないからってそれは新一の性格によるところもだろうけれど何よりオレ達が男同士でかつオレが怪盗なんてものをしているからなわけであって。
「離れて暮らしてるから」
 オウム返しのように新一は呟く。
「そうです。滅多に日本に帰ってこないんです」
 嘘じゃない。嘘じゃないが、百パーセントの真実でもないから少しばかり胸が痛い。その胸の痛みも泡と一緒に流してしまおうと、オレはシャワーに手を伸ばした。
「だってさぁ」
「うんー?」
「快斗はオレの恋人なんだろ?」
 シャワーの向きを変えないまま、オレは思い切りカランを捻ってしまった。
 結果、冷水がオレの顔面にぶしゃあっと吹きつけた。新一が驚いて振り返るぐらいには。
「快斗?」
「……冷たい」
「オレも冷たい」
 この至近距離なのだ、当然新一君にも水が飛んでしまっていることだろう。ごめんなさいと素直に謝って、オレはカランを逆に捻った。水が止まれば、とたんに浴室は静けさに包まれる。何かBGMでも流してほしいところだ。オレの気持ち的に。
「ったく、シャワー使う前に、ちゃんと温度ぐらい確かめろよなぁ」
 あ、今のその言い方、すごく新一っぽい。
 なんてことに感動している場合ではなくて。
「……あの、新一君?」
「ほら、アヒルもびっくりしてひっくり返っちゃっただろ」
「あ、ごめんねアヒル君」
 けれどすぐにぽよぽよ発言に戻ってしまう。アヒルがひっくり返ったのは、びっくりした所為ではなく、新一が動いた拍子の波が原因なことは明白なのだが。
「……えぇっと、あの、オレが恋人って、何で?」
 とんでもなびっくり発言だった。
 だって、新一がこうなってからというもの、オレは新一にそんなことを言った覚えはない。だってそうだろう、このぽよぽよ君相手に、「オレはおまえの恋人なんだ」と主張したところでどうなるというのだ。いや、それとも何かの拍子に言っていたのだろうか。無意識の内に。
「何でって、快斗がそう言ってただろ」
「えええええ」
 やっぱりか。無意識の内に言っていたのか。何てことだ。
「い、いつ」
 慌てて尋ねたオレに、右手でちょいちょいとアヒルを突きながら、新一は怪訝そうな顔で答えた。新一にとっては当たり前のことを、オレがこんな様子で尋ねているのだから、それも当然だろう。
「初めて会った日に」
「初めて会った日?」
「そう」
 こっくりと新一は頷く。そうすると前髪の泡が垂れてくる。ムスカになる前に、オレは慌てて右手でその泡をすくい取ってやった。そうしながらに、必死になって頭の中の記憶を巻き戻しさせた。
 オレと新一が初めて会った日というと、それは忘れも無いあの四月一日、杯戸シティホテルの屋上―――ではなく、記憶を失くした今の新一を、オレが初めて顔を合わせた日のことを言っているのだろう。
 そう、灰原女史から衝撃の事実を聞かされ、オレは慌てて窓から工藤家へと入り込んで。

『……自分のこと、何も、覚えてないの?』
『覚えてない』
『オレは高校生探偵工藤新一。幼馴染で同級生の毛利蘭と遊園地に遊びに行って、黒ずくめの男たちの怪しげな取引現場を目撃した。取引を見るのに夢中になっていたオレは、背後から近付いてくるもう一人の仲間に気付かなかった。オレはその男に毒薬を飲まされ、目が覚めたら身体が縮んでしまっていたってことも覚えてないの!?』

 そう、このもうちょっと後に。

『何それ?』
『オレのことも!? こんなにイケててマジックが上手くて顔も良くて頭がいい恋人黒羽快斗のことも覚えてないの!?』
『だれ?』
『怪盗キッドのことも!? オレ達のあんなに熱くて情熱的な月夜の追いかけっこのことも覚えてないの!?』
『だれ?』
『そ、そんな……っ!』

 はい、言ってました! 思いっきり言ってました!
 自分の記憶の良さに惚れ惚れするというか、それ以上に新一の記憶力の良さに驚くべきというか。いやこの場合はどっちもか。オレ達は顔も良ければ頭も良すぎるものだから、本当に困ってしまう。オレ達二人だけで、本当に東都の男の平均値を上げてしまっているというものだ。
「……新一君、あの日からずっと覚えてたわけ?」
 いくらこんなぽよぽよ状態でも、本当に根っこの部分は変わらないんだなぁと改めて思う。嬉しいような厄介なような。本当に下手なことは言えない。というか、キッドとかその辺りの、十分すぎるほどに下手なことを言ってしまっているのだが、その辺りはどうしたものか。
「んー、はじめはよくわかんなかった」
「わかんなかった?」
「恋人、って意味が」
「あぁ」
 始めはということは、もちろん今は理解しているのだろう。その理解はどの程度のものなのか。
 今度はしっかり温度を確認してからカランを捻る。さっきだって温度設定はばっちりだったのだ。ただ、最初だからお湯が出なかっただけのことであって。
「新一君、頭」
「ん」
 新一は大人しく、天井を仰ぐようにして頭を突き出してくる。またもや黒羽美容院の再開だ。気持ちよさそうに目を閉じている、そんな様子を見られるのは、やはり恋人の特権というものなのだろう。
「どっからわかったの」
「テレビでやってた」
 今の新一は、本当にテレビからの知識で構成されていると言っても過言ではないだろう。妥当なところなのかもしれない。記憶喪失になったからと言って、一日中辞書とにらめっこされても嫌だ。健康的ではない気がする。
「恋人って、あれだろ。恋人がいるのに、他の女を好きになっちゃったりすると、後ろからナイフで刺されたりするんだよな」
 訂正。やっぱりテレビから得る知識も、健康的ではないようだ。
「だから快斗も、他の女を好きになったりしたらダメだぜ。オレ、快斗のことナイフで刺したりしたくねぇもん」
「……う、うん」
 オレだって新一に刺されるのは嫌だ。新一相手でなくても嫌だ。
「あ、だけど、快斗がもし他の女に刺されたりしたら、ちゃんとオレが犯人見つけてやるからな。何だっけ、だいいんぐめっせーじ、だっけ? ああいうのあるといいよな。快斗、ちゃんと残してくれよな」
 楽しそうに気持ちよさそうに新一は言う。男の髪なんて短いから、シャワーもあっという間に終わってしまう。ぶるぶると犬のように頭を振る新一を見ながら、オレは何とも複雑な心境に陥っていた。
 オレがダイイングメッセージを残す時って、つまりそれはオレが死ぬ時だと思うんだけど。
 そりゃあまあ、名探偵ならどんなメッセージだろうと、ちゃんと解き明かしてくれることだろう。そこのところはありがたい。ありがたいが、恋人相手に交わす会話としては何ともかんともだ。オレとしてはもうちょっとこう、「オレより先に死ぬなよ」「いやおまえこそ」みたいな会話をしたいというか。
 最終的にそんな会話を交わしていたら、いつの間にかオレの下半身が大人しくなっていたことだけが、まあ救いと言えるのだろうか。
 けれど結局新一の両親についてどうするか、その肝心なところは全くまとまらないままなのだった。やれやれ。
[14.06.14]