黒羽快斗。
飲み物を買おうと入ったコンビニで、ふとそんな名前を見つけてしまったら、もちろん私の手が伸びないわけがない。
「……おうおう、まあたくさん雑誌に載ってることで」
事前にできる限りの情報チェックはしているが、それにしたってやはり手は回りきらない。こうしてふと立ち寄ったコンビニで、特集の組まれている雑誌を見つけてしまうのがその証拠だ。
それにしたって、本当に一体どれだけの雑誌で特集が組まれているものなのか。雑誌によってその扱いはピンキリだが、ファンとしてはどんな些細な情報や写真であっても、見逃したくないと思うのは当然のことであって。けれどそろそろ、少しばかりお財布もきつくなっている。
「いやいや、贅沢な悩みだけども」
社会人の財力を、ここで発揮しなくていつ使うというのか。雑誌の値段なんてたかが数百円。
覚悟も新たにレジへと向かった。受け取った雑誌を鞄にしまい、店を出て数メートル程歩いたところで、飲み物を買い忘れていたことを思い出した。一体何のためにコンビニに入ったのか。
それもこれも、黒羽快斗がいけない。その名前の前には、飲み物の存在なんて霞んでしまうのも当然というものだ。何て罪な男だろうか。
「……あぁもう」
あの笑顔を想像しただけで身体が震える。こんな冬空の下、口元をにやけさせていては、ただの怪しい人だ。
さすがにもう一度コンビニに入る気にはなれず、見つけたカフェに入ることにした。友人とも待ち合わせにはまだ時間がある。そうだ、せっかく雑誌も買ったことだし、ココアでも飲みながら早速読むことにしよう、そうしよう。
風が少し強いからだろうか、店の中はそれなりに混んでいたが、幸いと窓に面した席がいくつか空いていた。注文したホットココアを持って、一番端を陣取る。友人からのメールが来ていないことを確認してから、先ほどの雑誌を取り出した。
「……ちょっと」
表紙に書かれた名前が、ふと視線をやった時に目につく程度には大きかったのだ。
表紙での扱いと、本文のページ数は、まさにそのまま比例していると言っても過言ではない。つまり、私が期待した以上のページ数が組まれていたわけだ。
ココアを一口すする。心を落ち着かせる。私はどうしてこの雑誌の存在を確認していなかったのだろう。偶然今日こうしてコンビニに立ち寄ったからいいものの。そうでなければ出会えていなかったかもわからないのだ。これは何だ。神様からのプレゼントか。
何とか心を落ち着かせ、ページをめくる。その瞬間に、私の心臓は止まった。
「……っ」
これは神様からのプレゼントなんて、生易しいものではない。核爆弾だ。神様からの核爆弾だ。そうに違いない。
「……ワイシャツの袖まくりは反則……っ」
胸元のボタンも幾つか開けられ、その右手にはフライパンが握られている。
さながら、イメージは休日の料理風景のワンショット、だろうか。ものすごく様になっている。この上もなく様になっている。
―――『マジシャンの指先が生み出す料理は、タネも仕掛けもいっぱいで…?』
添えられたそんな煽り文句に、私は深く息を吐いた。黒羽快斗の料理。想像するだけでやばい。死ぬほど食べたいけれど、食べたが最後死んでしまいそうだ。最後の晩餐が黒羽快斗の手料理になるのなら、もちろん文句など無いのだが。
料理姿はまずい。そこらの男だって、いっちょまえに料理などしていれば、それだけでイケメン度が三割はアップするものだというのに。
元々のイケメンに、そんなさらなるイケメン度が加わったら、それはもう核爆弾にしかならない。殺す気だ。黒羽快斗はファンを殺す気だ。お願いだからもっとやって下さい。
「……あぁもう」
写真の威力が強すぎて、インタビュー記事もまともに読めない。ココア程度では到底心を落ちつけられるわけもない。そんなことは不可能だ。
一体どうして、こんなにも料理姿が様になっているのだろうか。黒羽快斗はマジシャンだというのに。もちろん料理上手なマジシャンだって、きっと探せばたくさんいるのだろうということはわかっているけれど。
初めてテレビで黒羽快斗を見た時には、またえらく雰囲気のあるモデルさんだと思ったものだ。けれどその数分後に、スタジオ内に設置された小さなステージで、マジックを披露したその姿を見て、私はテレビにかじりついた。
マジックに元々の興味は無い。だから正直、黒羽快斗のマジックがどれ程のものなのか、私にはよくわからない。
もちろんマジック自体も面白かった。そのトリックなんてまるでわからない。けれどマジック以上に、私はそれを見せる黒羽快斗の表情に魅せられた。
マジックというよりも、その繊細な指先の動きから、視線が逸らせないのだ。かと思うと、ふとした瞬間に浮かぶ小さな笑みに、引きつけられてもいるのだ。
雰囲気のあるモデルではなく、彼は雰囲気を作り出すマジシャンなのだと思い知った。あの瞬間、ほんの数分間のマジックで、そのステージで、私は黒羽快斗のファンになった。
今思うと、かなりミーハーなハマり方をしてしまったのかもしれない。彼はマジシャンなのだ、そのマジックよりも、彼自身に興味を持つというのは、あまり嬉しいことではないのかもしれない。数々のインタビューを読み漁っていれば、黒羽快斗がいかにマジックを愛しているかということは伝わってくるのだ。そんなところもまたたまらなかったりするわけで。
「……素敵すぎる」
この感動を、今すぐだれかに伝えたかった。けれど、まだ友人からの連絡は来ない。
確認をしてから、私はツイッターの画面を開いた。思いの丈をそのままにぶつけようと思ったのだが、タイムラインを遡るまでもなく、とある呟きが目に入った。
―――shinichi0106:快斗が遅い
その名前をタイムラインで目にすることは、もちろん珍しくはない。同じく黒羽快斗ファンを何人かフォローしているから、その名を見ない日は無いと言っても過言ではない。
けれど、この「shinichi0106」だけは違うのだ。何せ彼は黒羽快斗ファンではない。ファンでもなければ芸能人のお仲間でもなく、恐らくは黒羽快斗のフォロワーの中で、もっとも身内に近しい人なのだ。
とはいえ、わかっていることは少ない。まだ高校生らしいとか、黒羽快斗と一緒に暮らしているようだとか、そうしてせっせと面倒を見てもらっているのだとか、その名前は新一と言うらしいとか。
見ず知らずの高校生に興味なんてもちろん無い。「shinichi0106」自体に興味なんてからきしないが、けれど黒羽快斗と親しいアカウントをフォローしているということには十分に意味がある。交わされるリプライの中には、雑誌には載らないような情報も数々混ざっていたりするからだ。
今日はまた、どんなやり取りをしているのかと携帯をいじったが、shinichi0106の呟きはそれだけだった。当然黒羽快斗とリプライを交わしてなどいない。
「なんだ」
リプライも交わしていないのであれば、何か有益な情報の一つでも投下してくれればいいというものを。
……なんて、思う方がどうかしているとはわかっているのだが。shinichi0106はあくまで趣味の一環としてツイッターをやっているだけのことで、何も黒羽快斗の情報botではないのだ。ただ私がそう思ってしまっているというだけのことであって。
この見方はどうにもいけない。わかっているのだが、けれど感情ばかりはどうにもならない。
「……遅いってさぁ」
仕事をしているんだから、そんなことは当然だろう。
shinichi0106のツイートには、往々にしてこうした呟きが見られるのだ。「快斗が遅い」を始めとし、「腹が減った」「快斗は?」と続き、快斗あれ買って来てこれ買って来て、何は嫌いだの何が食べたいだの……。
はっきりと言おう。私はそうしたshinichi0106の呟きを見る度に、軽く苛立ちを覚えているのだ。
自分の食事ぐらい自分で作れと言ってやりたい。まだ高校生だというのが何だろうか。私だって共働きの両親に代わり、高校時代は毎日のように夕食の準備をしていたものだ。煩い弟たちの相手をしながらに。
文句を言う暇があるのなら、その分少しは家事を手伝ったらどうなのだろう。働く社会人が、帰宅して早々に家事を行う、そんな生活にどれ程の労力を割いていると思っているのか。
「……あぁでも、優しいからなぁ」
日々のツイートを見ていると、黒羽快斗がいかに優しくマメな男性なのかということがよくわかる。
shinichi0106のために料理を作っていることだけではない。休日は遊びに連れていき、具合が悪ければ看病をし、天気が良ければ布団を干し、さらには勉強をも見てやってと、挙げ始めれば切りがない。そうしてさらに数々の仕事をこなしているのだから、一体どれだけ多忙な日々を送っていることなのか。
家人がそれだけ多忙を極めているだろうというのに、そうした中でshinichi0106は一体何をしているのか。ツイッターか。何ていい御身分だ。
誤解をしないで貰いたいが、私は間違ってもshinichi0106に対して、妙な嫉妬心を覚えているわけではない。熱狂的なファンの中には、そうした周りを見ないハタ迷惑な人種もいるが、私はその手の輩とは違うのだ。ただ単に、あまりにもshinichi0106の行動が、少し我儘なものに思えて仕方ないからこそ。
いや、でも、わかっているのだ。私も少し感情的になりすぎている。
ツイッターに書かれている行動が全てではないし、立ちえばそれ以上に我儘放題の行動をしていたとしても、黒羽快斗がそれを可愛いと思っていたりもするのかもしれない。十分にありえる。何せテレビで「うちのが」と話す時の黒羽快斗は、それはもういい笑顔をしているものだから。思い出しても身体が震える。
―――shinichi0106:快斗来ないから、コーヒー飲む
「あれ?」
そろそろ時刻は夕飯時だ。
てっきり家でまた、黒羽快斗の帰宅を待っているものだとばかり思っていたのだが、違うらしい。
添えられていた写メは、私もよく知っている―――と言うよりも、今私が来店している店と同じロゴマークの入った物だった。コーヒーとココアの違いはあるものの。苦い物が苦手で、どうにもコーヒーは飲めないのだ。そういえば、やはり甘党で、黒羽快斗もコーヒーが飲めないと言っていたのを見て、私はついにんまりとしてしまった。
「……あれだけのイケメンがなぁ」
コーヒーが飲めないだなんて、何とも可愛いではないか。
―――kaitokuroba:@shinichi0106 悪ぃ、打ち合わせ延びた。今向かってる
どうやら今日の二人は、どこかで待ち合わせをしているらしい。この時間だ、恐らくは夕飯でも食べていくのだろう。黒羽快斗は一体普段、どんな所に食事をしに行くのだろう。具体的に書いてくれれば、ぜひとも次の機会に私もそこに行きたいというのに。
それにしても、本当に毎日お仕事お疲れ様と言ってあげたい。芸能人の仕事というのは、とくに時間が日々まちまちに思えて、余計に大変そうな印象を覚える。
―――shinichi0106:@kaitokuroba おせーよ。オレが飢え死にしたらオメーの所為だぞ
「……っ」
だからどうしてこのshinichi0106は、そこでそうしたリプを送るのだろう。お疲れ様の一言はないのか、一言は!
思わず携帯を握りしめる手に力がこもる。いかんいかんと、自分に言い聞かせてココアをすする。少しばかり温くなってしまっている。
この二人は親しい仲なのだ。兄弟なのか親戚なのか赤の他人なのかはわからないが、一緒に暮らしているのだ、身内と言ってもいい仲なのだろう。
当人同士にしかわからないものがあるというのに、ただツイッターを見ているだけの、一ファンに過ぎない私が、あれこれ思うだなんて間違っている。お門違いというものだ。
そうわかっているというのに、けれど親しき仲にも礼儀ありだろうとか、こんなことを言われた黒羽快斗が傷ついてやいないかとか、きっと今頃大急ぎで待ち合わせ場所に向かっているのだろうとか、私だったらもっと優しい言葉をかけてあげるのにとか、色々と想像が頭の中を駆け巡っていく。大忙しだ。ココアをすする。
ちょうどタイムラインとかぶったタイミングで、友人からメールが来ていた。電車を一本逃し遅れるという。
店で暖まっているから慌てずに、と返信をしておいた。私はなかなかに短気な方だが、けれどこうした返事の一つ返すことぐらい、難しいことではないだろう。まあ、男子高校生相手にそうした気遣いを求めるのも、また難しいことなのかもわからないが。
何度更新をしても、それ以降黒羽快斗のツイートは更新されなかった。やはりきっと、待ち合わせ場所に急いでいるに違い無いのだ。これ以上疲れるようなことをしないでもらいたい。
開いたままの雑誌に再び視線を落とせば、そこには優雅な笑みを浮かべた黒羽快斗の姿がある。気品があると言おうか、やはり自然と人目を引いてしまうというのか。立ち振る舞いが、不思議な程に洗練されているのだ。見惚れる程に。
一枚目の袖まくり写真があまりにかっこよすぎて、なかなかその先に進むことができない。この写真一つで、一年は寿命が延びたように感じる。何てありがたいことだろう。
「……あっ」
そんなありがたさに浸っている中。
すぐ横から、小さな叫び声が聞こえた。何だろうと思った瞬間に、視界に茶色い物が入った。
「ちょ……」
コーヒーだ。コーヒーがこぼれている。
そう認識すると同時に、真っ先に雑誌を非難させた。と言っても、そのまま少し横にスライドさせただけなのだが。
「あー……」
情けない声が聞こえた。せっかく注文したばかり―――かどうかはわからないが―――のコーヒーをこぼしてしまったのだ、そんな声を漏らしたくなる気持ちもわからないではなかったが。
けれど、茫然と見つめていても仕方ないだろう。考えるよりも先に身体が動いていた。とりあえず、カップを直し、紙ナプキンを取って流れるコーヒーをせき止める。
「あ、……ごめんなさい」
「いやいや、それはいいんですけど……」
隣を見る。恐らくは高校生程の、若い男の子だった。キャップの所為でよくはわからないが、声からしても間違いはないだろう。
「ごめんなさい、ちょっと余所見してて」
「あー、はいはい。って、あの、それよりも」
素直に謝るだなんて、最近の若者らしからぬ褒められた態度だと、感心する暇もなかった。
「あの、袖、ついてますよ」
「はい?」
「いやだから、袖に、コーヒーの染みが」
カップを倒した時に、恐らくかかってしまったのだろう。すぐにわかると思ってそう指摘したと言うのに、高校生は反対側の袖を見ている。
「どこに?」
「……反対です。右腕の袖です」
あぁもう。イライラとしてきていけない。自分が短気なことは十分自覚しているけれど。
「早く洗ってこないと、染みが取れなくなりますよ」
一応は親切心だ。お節介とも言うのかもわからないが、後で気づくよりかはいいだろう。
私のそんな一応の気配りに、染みを見つめながらも、高校生は首を傾げている―――ように見えた。だからさっさと洗いに行かんか、こいつは。
「でも洗うって、洗剤とか無いですよね?」
「……水洗いです。ついたばかりなら、水で軽くつまみ洗いをするだけでも、汚れはある程度落ちますから」
「つまみ洗い?」
「あー、ですから」
説明するだけ無駄なような気がする。
天然ボケか。天然ボケなのかこいつは。それとも最近の高校生というのは、こうした時の対処の一つも知らない生き物なのだろうか。ゆとり教育もここに極まれり。
「あの、洗ってきましょうか」
「え?」
「時間が経てば経つ程、落ちにくくなりますから」
私も大概お節介だ。おばさん気質とも言うのかもしれない。自分でもわかっている。わかっているがどうにもできないのだ。
差し出した手に、けれど高校生が迷った様子を見せたのは数秒のことで、素直に上着を脱いで渡してくれたことは驚きだった。
「お願いします」
何とも素直なことだ。そうしてお願いされたからには、きちんと染み抜きをしなくてはならない。
荷物を見ててもらうように頼み、お手洗いへと向かった。幸いに他に利用客はいなかった。汚れた個所を掴み、極力他の布地を濡らさないよう気を付けて洗い流す。
ついたばかりの染みは、驚く程簡単にとれた。全てが全てキレイになったわけではないが、後で袖口を見てため息をつくこともないだろう。変わらず他の利用客も来ないことから、ハンドドライヤーで洗ったその個所を乾かした。完璧に乾くまではいかないが、多少はマシだろう。
「よし」
そこそこの出来に満足する。あの高校生に任せていたら、きっと上着全体をびしょびしょにされていたに違いない。失礼だがそう思う。
意気揚々と席に戻れば、高校生がすぐさま振り返った。私は上着を差し出す。
「はいどうぞ。大体落ちたと思うから」
「ありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げられる。本当に素直だ。実家の弟たちの生意気さ加減に慣れているからこそ、余計にそう思うのかもしれないが。
「でも、完全に落ちたわけじゃないからね。目立たなくはなってるけど。家に帰ったら、酵素系漂白剤をプラスした洗剤で洗ったりすると、よく汚れが取れて……」
席につき、話しながらも、高校生が疑問符を浮かべていることに気付き。
「……あー、お母さんとかに聞けばわかると思うから」
「そっか」
高校生に洗濯のあれこれを説いたところで仕方ない。私にできることはここまでだ。
テーブルの上には、もうコーヒーの染み一つない。恐らくは店員が片付けてくれたのだろう。だいぶ冷めたココアをすすりながら、携帯に手を伸ばした。
―――shinichi0106:コーヒーこぼした
なんて奇遇な。
最近の高校生の間では、コーヒーをこぼすことが流行っているのだろうか。そんな馬鹿な。
気をつけなさいよねと、shinichi0106に対して心の中で突っ込んでいれば、隣の高校生が席を立った。けれど、五分と経たずに戻ってくる。手には新しいカップが握られている。
「……もうこぼさないから」
照れ臭そうに微笑んだ口元に、私は「そうですか」と答えることしかできなかった。少し可愛いだなんて、思ってしまったことがまた恥ずかしかった。
私への配慮だろうか、それともただの気の所為だろうか、少し遠くにそのカップは置かれている。またこぼされたら同じことだが、さすがに続けてそんなヘマをすることもないだろう。
雑誌を再び引き寄せて、写真を眺めながらに、片手間に携帯をいじった。そうして身悶えた。
―――kaitokuroba:@shinichi0106 火傷してねぇか?
「……さすが」
コーヒーをこぼしたというツイートを見て、すぐさまのリプがこれだ。黒羽快斗が、真っ先に心配するのがそこなのだ。これぞ紳士というものだろう。
心配している黒羽快斗の顔が、まざまざと浮かぶようだった。いや、見たことなんてもちろんないけれど。こんな風に心配をされる立場が羨ましい。
―――shinichi0106:@kaitokuroba 二杯目飲んでる
そんな感動的なリプライに対し、この返事は何なのだろう。
相手からのリプライを、きちんと読んでいるのだろうか。読んでいたとしたら、どうしてそんな返事ができるのだろうか。私にはまるでわからない。
黒羽快斗が尋ねているのは、今何をしているかではなくて、火傷はしていないか、身体は大丈夫なのかという、そうした身の心配だというのに。shinichi0106が二杯目を飲んでいようが何だろうが、そんなことはどうだっていいのだ。どうでもいいにも程がある。
―――kaitokuroba:@shinichi0106 二杯目飲んでるとかどうでもいいんだよ
―――shinichi0106:@kaitokuroba おまえが遅いから出費が増えた
―――kaitokuroba:@shinichi0106 待ってろ
この二人の会話は、私から見るとどうにもかみ合っていないことが多い。大体はshinichi0106の返事がおかしいのだ。家で会えるからこそ、多少言葉足らずになる場面もあるのかもわからないが。けれどやはりおかしいだろう。
「……無駄に心配させて」
あれか、子供だからと甘えているのだろうか。黒羽快斗が甘やかしているのだろうか。優しい人だからまったく。そんなところが好きなのだけれど。日々ツイッターを眺めながらにそう思うのだ。
最初はその魅力的な雰囲気にだけ惹かれていたが、今は内面の優しさにこそ惹かれていると言ってもいい。人間として魅力的な人だと心から思う。
―――shinichi0106:腹減った
shinichi0106のツイートはぽつぽつと続く。人待ちの間で暇なのだろう。それならば写メの一つでも上げてくれればいいものを。もちろん何の写メって、そこはもちろん。
「快斗」
その名前に、私はもちろん敏感だ。何せ雑誌の表紙に書かれている文字にすら、即座に反応してしまうぐらいなのだから。
「おせーんだよ、オメー」
「……だから、打ち合わせが延びたって言っただろ」
まさか、まさか、そんな。
いや、だってあるわけがない。あるわけがないけれど。
「それより、どうなんだよ」
「すげぇ腹減ってる」
「そうじゃねぇよ。火傷は? してないだろうな?」
「してない。けど、服ちょっと汚した」
「服?」
そんなまさか、まさかまさかまさか、まさかそんな。
携帯を握る手が震えて仕方なかった。人生で初めて、ここまでの手の震えを経験した。就活中にだって、恐らくこうまでの緊張を覚えたことはなかったはずだ。
もう何度も何度も繰り返し、テレビで聞いた声だった。けれどやはり、電波越しの声とは何かが違う。そこに、本人が、生の本人が、存在してかつ喋っているのだろうか。だからそんなまさか。
「オメーはな、だからもうちょっと気を付けろって……」
「あ、でも、そこのお姉さんが洗ってくれた」
「お姉さん?」
心臓が飛び跳ねた、なんて。そんな可愛らしいものではなかった。
「お姉さん、さっきはありがとう」
「……あ、いや」
我ながらびっくりするほど、声はしゃがれてしまっていた。この数分間の間に、まるで一生分喋り尽くしたかのような声だった。緊張は人をここまで変えるものなのか。
ぎりぎりと首を動かす。私はゼンマイの切れた人形だろうか。先ほどの上着を羽織って、高校生が笑顔を浮かべていた。その後ろに、一人の男が立っている。立っているのだ、そこに、快斗と呼ばれた人物が。
「何で洗ってもらうような羽目になったんだよ」
「袖にコーヒーがかかったのを見つけてくれて。そうしたら洗ってきてくれた」
「……おまえな」
ため息をついたことが、その音からわかった。視線を上げることができない。睨みつけるように床を眺めていた私の視界に、一歩進むその足先が見えた。革靴はぴかぴかに磨かれている。
「すみません。うちのがご迷惑をおかけしたようで」
「……っ」
うちのが。
テレビで聞くのと同じフレーズ。
間違いない。そもそも声を聞いた時点で、間違えようだなんてどこにもなかったのだ。
ぎちぎちと鳴るかのような首を、それでも懸命に動かした。見上げた先にその顔があった。瞬きの回数すら覚えてしまいそうな程、繰り返し繰り返し見つめた顔が、すぐ目の前に存在していた。触れたら触れそうな程に近く。
「……黒羽快斗……っ」
「はい?」
反射的に、ただ名前を呼んでしまった。
いや、呼んで、と言うか。いつものように、口にしてしまっただけというか。
驚いたように、目の前で黒羽快斗が首を傾げる。その妙に小動物めいた仕草がたまらないのだ。お願いだから止めてほしい。いややっぱり止めないでほしい。
「あ、いや、すみません……っ」
「もしかして、オレのことご存じですか?」
ふわり、と笑顔が浮かぶ。柔らかな、それでいてとたんに人目を引きつける笑顔だ。
心臓が高鳴るなんてものではない。間違いなく心臓が止まった。今この瞬間、私の心臓は止まった。数秒ぐらいは余裕で止まっていた。
「……し、知ってます」
それどころか、大ファンです。
大好きです。好きすぎて死にそうです。
テレビに出る時には、いつも見てます。録画して何度も何度も繰り返し見ています。先週の衣装が特別好きです。
ツイッターも毎日見てます。楽しませてもらってます。もう全部好きです。笑顔も立ち振る舞いもマジックをしている時の指先も料理上手なところも優しいところももう全部、全部。
「―――っ」
好きすぎて、言葉にならないだなんて。
私の口は、まるで喋ることを忘れてしまったかのようだ。あるいはこの光景を、必死に網膜に焼きつけようと、ただそれだけに脳が集中してしまっているのか。
テレビで見かけるよりも、だいぶ髪が乱れている。ここまで急いで来たのだろうから、その所為もあるのかもしれない。いつもよりも若干幼く見える。真っ直ぐに見つめられる視線から、逃げたいようなもっと見つめ返していたいような。心臓が壊れてしまいそうだ。
「……あれ?」
その黒羽快斗の視線が、ふと逸れる。
テーブルに向けられ、自然と私も釣られて視線を向けた。
「……あっ」
「あぁ、これ」
隠そうと思っても、もう遅い。
「ちょっ、すみませ……っ!」
雑誌が開かれたままだった。それもちょうど、黒羽快斗の特集ページで。袖まくりをし、フライパンを手にした姿で。
偶然開いただけなのだと、そんな言い訳は通用するはずもない。いや、言い訳をしたいわけではないのだ。ただ、とにかく恥ずかしい。恥ずかしいなんてものを通り越して、居た堪れない。穴を掘って埋まりたい。
「読んでくれていたんですか? ありがとうございます」
「……あ、いや」
だからもう、その笑顔は。そんな笑顔は反則というもので。
違うんですごめんなさい。この雑誌はすっかり発売日を忘れていて、偶然立ち寄ったコンビニで偶然見つけたものなんです。胸を張ってファンだと言うのなら、どんな情報だってチェックすべきだというのに。私は本当ファンの端くれとも言えないようなもので。そんな私で。そんな私でも。
「……だ、大好きなんですっ」
あぁもう、そんな言葉では到底伝えきれないこの思いを、一体どうしたらいいのだろう。
焦ってもただ挙動不審に両手が動くだけで、汗が吹き出すだけで、やはり気の効いた言葉なんて出てこないのだ。どうしようもない。いっそ死にたい。
黒羽快斗は浮かべた笑みを深めた。人懐こい笑みだった。たまらない。
「大好きって、この雑誌が?」
「……ちがっ」
言葉足らずにも程があったのだろうか。慌てて叫ぶように口を開いた私に、黒羽快斗は口元に手をあててくっくと笑った。
「いや、すみません。あまりにあなたが可愛らしいものだから、つい」
「は……」
からかわれたのだ、と気づくまでに、数秒の時間が必要だった。
私が必死に頭を回転させている間に、黒羽快斗は「いてっ」と小さく声を上げた。振り返って何やら文句を言っているのが聞こえる。聞こえるけれど、そんなことはどうでもいい。
可愛らしいって。可愛らしいって、可愛らしいって、可愛らしいって。
―――だれのことだろう。もう本当に。
「ありがとうございます。あなたのような、可愛らしい女性に応援されていると思うと、これからの仕事にも精が出そうです」
優しい微笑みは、まるで尽きることを知らないかのようだ。
芸能人の褒め言葉なんて、もちろん社交辞令だ。この場合はファンサービスだ。リップサービスだ。
普通にテレビを見ている時だって、黒羽快斗はとかく女性には愛想がいい。からかい混じりでも、決して貶すようなことは言わないし、それどころかさりげないタイミングで、どの女性にも、絶対に一度は褒め言葉をかけているのだ。繰り返し見て気付いたことの一つだった。
ファンサービスだと、リップサービスだと、だから確かにわかっているのに。
その微笑みから目が離せない。頬が熱い。手を取られていることにも、だからすぐには気付かなかった。茫然としていたのだ。
「……その上今日は、うちのまで助けて頂いたようで」
本当にありがとうございます、と。
温もりが触れたのは一瞬だった。
「―――えっ」
手の甲に。
すぐさま唇は離れて。
上目遣いに、黒羽快斗は、にぃっと口元から八重歯を覗かせていて。
「―――っ!」
いつその手までが離れたのか、その後に黒羽快斗が何と言っていたのか、まるで覚えていられなかったことが悔しくてたまらない。
気付いた時には、その背中は遠く離れて行こうとしていた。思わず腕が動き、けれどもちろん呼びとめる言葉などあるわけもなく、私は無駄な動きを繰り返してしまった。どうしようもない。
私は無駄に焦っていたのだろう。その空気を察したわけではないだろうが、くるりとその背中が振り返った。けれど、黒羽快斗ではない。
「お姉さん、今日はありがと」
ばいばいと手を振ってくれたのは、隣の席の高校生―――shinichi0106だった。
考えるまでもなく、私も右手を振り返していた。にこっと笑って、shinichi0106は小走りに駆けていく。先に店を出て行った、黒羽快斗を追うために。
「……」
一瞬の。
いや、現実的には、数分間の。まるで夢のような一幕だった。
よろよろと椅子に腰かけた私は、けれどまだ、その夢の一幕が続いていることに、すぐに気付かされた。
「……え」
雑誌の上に、見慣れぬものがあった。
恐る恐る手に取った。チケットだとすぐに気付いた。ここで例えば、それが何かの映画のチケットであったのなら、思わず笑ってしまうところだろう。けれどそうではない。
「……嘘でしょ」
もう来週に迫った、黒羽快斗の公演チケット。
いくつか先行受け付けに申し込み、そうしてもちろん一般受付にも挑戦したけれど、手に入れることができなかったそのチケット。
私が思うにも、黒羽快斗がショーをやるのに、今の会場では小さすぎるのだ。この二倍か三倍の会場でやってくれれば、もう少しチケットだって取りやすくなるものだろうと、常からそう思っている程であって。
「……何で、何で、そんな……っ」
私がこのチケットを、取りたくても取れなかったことを、まさか黒羽快斗が知っていたわけもないだろう。
ダブっていたらそれまでだと、思って置いていったのだろうか。こんな、倍率がどれだけかもわからないチケットを? そんな馬鹿な。
いや、そもそもいつ置いていったのだろう。そんな素振りはまるで見られなかった。いくら私でも、目の前で雑誌の上に手を伸ばされたら、さすがに気づくだろうというもので―――あぁけれど、黒羽快斗はマジシャンなのだ。その手のことは朝飯前なのだろう。
「……っ」
信じられない。
もう、一体何を信じていいのかわからない。
頭を抱えるようにして、私は雑誌に突っ伏した。とても冷静でなんていられなかった。周りからどう見られようが、そんなことは最早どうでも良かった。
先ほどあったことは、果たして現実なのだろうか。私の妄想なのではないだろうか。白昼夢ではないのだろうか。
けれど手の中には、このチケットがある。それだけが、このチケットの存在だけが、先ほどの黒羽快斗が私の妄想の産物ではないと、そう知らしめる証拠だった。それでもやはり信じられるものではなかったが。
「……もう、もう、もう」
携帯が震えた。友人からのメールだった。「今どこ?」という簡潔なそれに、いつもの駅前のカフェだと手短に返す。
友人も電車を降りたのだろう。ここにやって来る前に、少し気分を落ち着かせなくては。
一度携帯を握れば、自然と右手はツイッターを起動させていた。もうすっかり、この動作が癖になってしまっていると言ってもいい。
さして遡らずとも、そのツイートは目に止まった。
―――shinichi0106:さっきのお姉さんありがとう
私以外には、恐らく意味のわからないツイートのはずだ。
自身のツイートが、どれだけの黒羽快斗ファンに見られているのかということを、shinichi0106はわかっているのだろうか。別に芸能人ではないから、そこまで気にする必要も無いといえばそうなのだけれど。
私がこのツイッターを見ていると、知った上で呟いているのだろうか。そこまでではないとしても、ただ呟きたかっただけなのか。今頃は黒羽快斗と二人、夕食をとる店へと向かっている頃だろうというのに。
今振り返ると、shinichi0106の声や顔立ちは、黒羽快斗のものとよく似ているようにも思えた。帽子をかぶっていた所為で、すぐには気付けなかったが。
「……あれ? でも、兄弟じゃないんだよね……」
どうせなら聞けばよかったと、思った時にはもう遅い。もっとも、尋ねたところで答えてくれたかはわからないが。
「あー……」
そうだ。せっかく生の黒羽快斗を前にしていたのだから、色々と気になることを聞けばよかったのだ。なのに何一つも聞けないどころか、私が発した言葉は何だ、『大好きなんです』ただこれだけではないか。アホか。
「あああああ……」
今になって大きな後悔が押し寄せる。けれど一体、あの場で何を言えたというのだろう。無理だ、無理に決まっている。だって相手は、あの黒羽快斗だというのに。
左手にチケットを握ったまま、右手で携帯をいじる。何度更新ボタンを押しても、肝心の二人のツイートは更新されなかった。
まあ、それはそうだろう。今頃は店に向かっているか、あるいはもう着いている頃かもしれないのだ。二人は夕飯を楽しんでいるのだろう。
「―――」
黒羽快斗の素敵さは、もちろん想像と変わらず―――いや、それ以上のもので。
けれどそれ以上に、shinichi0106が、あんなにも可愛い男の子だとは思わなかった。生意気さの欠片も感じなかった。私に対する態度と、もちろん黒羽快斗に対する態度は違うことだろうが。
少しばかり、二人のツイッターを眺める目が変わりそうだ。いや、もうすでに変わっていると言ってもいいのだろうか。
コーヒー染みの効果的な落とし方を、リプライで送ってあげようかどうかと、友人が来るまでの間、私は真剣にそれを考え込んだ。