世の中には、どれだけの頭脳を誇ろうが理解できないものがある。


 それは探偵にとっては由々しき問題であった。
 探偵というのは真実を追う者であり、謎を解く者であり、隠されたトリックを暴き虚偽を見破る者であった。そうであるからには、“理解できない”なんてものがあっていいわけはないのだ。探偵には常に探究心が求められ、そうして貪欲に新しい知識を得ていかなければならない。
(……わっかんねぇなぁ)
 けれど探偵と言えど人間だ。人の子だ。詰め込んだ知識でそうとわかってはいても、感情論として理解できないことなんて幾らでもある。現に今、東の高校生探偵こと工藤新一は、文字通り到底“理解できない”状況に陥っていた。
(身動きできない程度の満員電車。帰宅ラッシュともなればそれも当然。制服姿も山ほどある、っと)
 振り返ることもできない程に込み入った車内だが、視界に映る光景だけでもそうとわかる。恐らく普段と変わらない、いつも通りの車内風景なはずだった。と言うのも、普段新一は学校帰りに電車を使うことはないからだ。家までは徒歩でこと足りる。
(こんだけ制服姿があるっつーんだよ)
 確認できる範囲で、制服の種類はそう多くない。自分と同じ、帝丹高校のそれもあったし、近隣の高校だろうセーラー服も目にとまった。選り取り緑とまでは行かないが、選択肢は他に幾らでもあるはずだった。
(なのに何でだよ)
 何か起こった際、とりあえず現状の確認をしようとするのは探偵としての性なのかもしれない。なるほど、確かに状況を見極めるのは必要なことかもしれなかったが、今の自分はある意味で現実逃避をしているのかもしれないとも思えた。思わず逃避をしたくなるような現実が、今は新一を取り巻いていた。
(……こんだけ他に女子高生がいる中で、何で俺なんだよ)
 先ほどから下半身に、妙な違和感を感じていた。
 何せ身動きが取れない程度には混雑している車内であるし、最初は何も気にしてなんていなかった。手や鞄がぶつかるぐらいのことはあるだろうと、そう考えていた。けれどその動きがだんだんと変わってくれば、いくら何でもそれが『偶然』なのか『故意』なのかなんて、考えずともわかろうというものだ。
 それでもやはり理解ができない。いくら考えたところで、わからないものはわからないのだ。
(だから、何でオレなんだよ)
 西の名探偵工藤新一は男である。とある事情で一時期身体が縮んだりもしたものの、その時だってさすがに性別までもは変わらなかった。生まれてから十七年間、間違うことなく男であるはずなのだ。
 だというのに、先ほどから見知らぬ男の手は、ずっと背後から新一の尻を―――何が楽しいのか―――撫でている。姿はもちろん見えないが、手の平の大きさから言って男だろうと新一は見ていた。まだ女性であった方が、幾分精神安定上は良かったかもしれない。もちろんそれでも願い下げな現状ではあったが。
(女と間違えてる? ……わけねぇよな)
 学校帰りの今、新一はもちろん制服を着ている。特別小柄なわけでも、女顔なわけでもない。時々ふざけたように「新一は美人だから」なんて言う相手がいないわけでもなかったが、世間一般から見て自分の容姿がとても女性に見えるとは間違っても思わない。身長だってそれなりにはある。
 間違い、あるいは勘違いという線は薄いだろう。そう考えれば、推理をするまでもなく出てくる答えなんて一つしかない。
(……つまり、そういう趣味の男ってわけか)
 わけがわからない、と心底から思う。思うと同時に、けれど同性の恋人を持つ自分が思うことではないのかもしれないとも考える。今頃その恋人は、駅で新一がやってくるのを待っていることだろう。
(でもなぁ。俺達別に、元々こっちの趣味があったわけじゃねぇしな……今だって別にそうとも思えねぇし。他の男を見て、何か思ったりするわけでもねぇしな)
 新一とその恋人は元からノーマルな趣味であったし、付き合っている今だって恐らくはそうなのだろうと思っている。ただ単に、たまたま、今回好きになった相手が同性だったというだけで、元々男好きなわけでも何でも無い。恋人に関すれば、あいつは根っからの女好きでフェミニストであろうとも思う。
(男のケツ撫でて楽しいのかよ)
 自分だったら間違いなく女性のそれを選ぶと、思って新一は内心で首を振る。現実逃避とはいえ、一体何を考えているのか。
 男の手の動きは止まることを知らない。限りある時間の中で、精々堪能しようとでも思っているのか。吐き気のするその考えに、新一は小さく眉を寄せた。目的地に着くまで、あと十分近くはあった。
(どうするかな)
 考えたところで、この場で取れる選択肢なんて二つ程しかない。
 つまり、「この人痴漢です」と声を上げるか、黙って目的地まで耐え続けるか、だ。
 探偵というのは、多少の例外はあれど往々にして正義感の強い性質を持っており、そうして工藤新一におけばそこに負けず嫌いという性質も加わっていた。つまり、このまま黙って痴漢なんぞのされるがままになっているのは気が済まない。
(……だけどな)
 ここでバカ正直に、「この人痴漢です」と叫ぶのはいかがなものだろうか。
 それを言うということは、イコール、「自分は男に痴漢をされていました」と告白するようなものである。男として、これ程までに情けない台詞があるだろうか。
(探偵が電車の中で痴漢されるって、そうはねぇぞ)
 こんなとき、なまじ顔の売れてしまっている立場を恨みたくなる。下手な真似をすれば、この騒ぎはあっという間に世間中に知られるところとなるだろう。顔なじみの警察官からマスコミ、そうして学校のクラスメイトに至るまで、顔を合わせる度に「工藤君、痴漢にあったんだって?」なんてことを言われようものなら生きていけない。想像しただけで死にたくなる。
(オレだって気づいてんのか?)
 撫で続ける手からは、相手が男であろうということしかわからない。
 けれど、恐らく今自分が痴漢行為を働いている相手が、まさかあの工藤新一だと気づいているわけはないだろうと、と考える。一般的に考えれば、探偵相手なんてリスクが高すぎる。普通の痴漢であれば避ける相手であろう。男からは、新一の後ろ姿しか見えていないはずなのだから。
(どうするか)
 麻酔銃を撃ち込むか、とふと思う。
 身体が元に戻った今も、それらの便利道具は常に身につけている。さすがに蝶ネクタイ型変声器は鞄に入れてあるが、今でも重宝する道具であることに変わりはない。
(いや、でも、座席に座ってるならともかく、ここで眠らせると急病人に間違われるか……)
 そうして下手に電車が止まりでもしたら、いい迷惑である。第一この立ち位置では、真後ろにいる相手に麻酔銃を撃ち込むのは少し難しい。何せ、ろくに身動きすら取れない状況なのだから。
 下手な事件よりも難しい。どうするべきかと、考えながらも電車は目的地へと線路を走る。
 最善の策が浮かばないまま、ただ時間だけが流れていく。この調子では、このまま目的地に着いてしまうだろうと思われた。内心でため息をもらしつつ、まぁそれも仕方ないかと新一は諦める。納得できない気持ちは大きいが、周囲に騒がれることを考えれば致し方ない。
 ―――等と、思ったのが間違いだったのか。
(……えっ)
 男の手つきが変わった。
 ただ撫でるだけだったそれから、揉むようなそれに。
(……おい、冗談じゃねぇぞ)
 抵抗らしい抵抗を何もしなかったことが、相手を調子付かせてしまったのか。けれどこんな時、どうすればいいのかなんて新一はわからない。左腕につけた麻酔銃に視線が落ちるが、やはりこれは使えない。
(ふざけんな…っ)
 肌がざわりと粟立った。性的な行為を感じさせる手つきだった。吐き気がすると、心の底からそう思った。
(あと五分)
 麻酔を打つ変わりに針の動きを眺める。あと五分。電車は問題なく走っている。駅に止まり、けれど降りる乗客もいなければ乗り込む乗客もおらず、変わらない車内のまま再びドアは閉まる。次だ。次の駅で降りる。そうすればこの変態ともおさらばできる。
 耐えろ、と、ただひたすらに自分に言い聞かせた。
 周りの乗客にばれてやいないかと、そんなことが気にかかった。こんなみっともない姿を、だれにも見られたくなんてなかった。わずかに俯き、鞄を持った手で左腕をぎゅっと掴んだ。そうせずにはいられなかった。
 電車は走り続けて行く。



 工藤新一の恋人の名前を、黒羽快斗と言った。
 黒羽快斗は江古田高校の二年生であり、彼の有名な、今は亡きマジシャンの息子であり、その性質を受け継いだ根っからのエンターティナーであり、そうして月下の奇術師でもあった。
 探偵と怪盗、その相反する性質を持ちながら、なぜか一緒にいることは楽であり楽しくもあり、そうして気づいた時にはこうした関係になっていた。つまり、学校帰りに待ち合わせをして食事をしたり買い物をしたり、あるいは休みの日に互いの家に行って他愛もない会話をしたり昼寝をしたりやっぱり食事をしたり、そうして時たま思い出したようにキスをしたりなんていう関係に。
 黒羽快斗は工藤新一とよく似た顔をしていて、けれど工藤新一には無い無造作に跳ねた髪を持ち、そうしてお調子者な性格をしていた。友人は多いのだろう、快斗の地元で待ち合わせをすれば、途中でクラスメイトであろう相手に声をかけられることも多かった。隙あらばマジックを披露し、チョコアイスを食べれば喜び、魚を見れば悲鳴を上げて逃げ出した。何とも喜怒哀楽の激しいムードメイカーで、そこに怪盗キッドの面影なんてどこにもなかった。
 けれど黒羽快斗は、確かに怪盗キッドという一面も持っているのだ。
「で、新一、今日は何があったんだよ?」
「……は?」
 ハンバーガーショップで軽く胃袋を満たし、店を出た直後のことだった。
 不意に掛けられた言葉に、新一は小さく声を上げた。何を問われているのかわからなかったのは、ほんの一瞬のことだった。
「何って、別に何もねぇぞ。つーか、今日会わねぇかって声かけてきたのかオメーの方じゃねーか」
 正確には、送られてきたのはメールだって。『今日暇?』と。警察からの呼び出しもなく、前回は快斗にこちらまで来てもらったからと、放課後そのままの足で新一は電車に乗った。そう、そうしてあの電車に乗ったのだ。
「オメーさぁ、その癖止めろよ」
 先ほどまでご機嫌でハンバーガーにかじりついていたはずの快斗は、今は渋面顔になっていた。そうした顔は、やはり気障ったらしいあの怪盗とはあまり似ていない。
「止めろって、だから何が……」
「オレが何を言ってるのか、全部わかった上で、それでもしらばっくれようとするその癖を止めろって言ってんだよ」
 黒羽快斗は、大変頭の切れる人物でもあった。
 あの月下の奇術師であるのだからそれも当然と言うべきか、それだけの頭があるからこそ怪盗として暗躍することができるのか。卵が先か鶏が先か。
「……癖ってわけじゃねぇけどな」
「しょっちゅうやってるくせに、よく言うぜ」
 呆れたように快斗は言う。この男に隠し事なんて、そうそうできるものではないのだ。ポーカーフェイスを得意とする男は、逆に相手のそれを読むことも得意なのか。その辺りは、新一の得意分野ではないからわからない。
「別に、大したことじゃねぇよ」
「はいダウト」
 あっさりと言われる。カードゲームなんて最近めっきりしていない。懐かしいなその言葉、と新一は軽く笑う。
「オメーの言うことって、大概あてにできねぇよな」
「仮にも探偵に対して言う言葉かそれ。それを言うなら立場的にオメーの方じゃねぇかよ」
「嘘つきは泥棒の始まりとは言うけどな、怪盗は嘘をつかないんだよ」
 まったく適当なことを言う。正体を隠して暗躍していることが何よりの証拠ではないのか。
「オレだって嘘なんてつかねぇよ。探偵が嘘をつくわけねぇだろ」
「だから、オレは何もオメーが嘘つきだとは言ってねぇだろ? ただ、言うことがあてにできないって言ってるだけでさ。だってオメーに言わせたら、殺人事件だろうが自分が多少の怪我をしようが、全部何でもねぇことになるんだからな」
 その言葉には少し語弊がある。その言い方では、まるで自分が人非人のようではないか。
 殺人事件自体は、もちろん大変なことだ。人の命が失われるのだから当然だ。ただそこに自分が巻き込まれるのも、あるいは呼び出しを受けて真相解明に乗り出すのも、つまりは自分が関わり合いになることに関しては、今さら大したことだとは思わないだけだ。そこで多少の怪我を負うことだって。
「職業柄仕方ねぇだろ、そんなん」
 制服姿のまま言うことではなかったかもしれない。けれど、他に適当な言葉が浮かばなかったのだから仕方ない。
「職業柄っつーか、新一のはもうただの厄介体質なだけな気がするけどな。オレは別に行く先々でばったり宝石に出会ったりはしねぇわけだし?」
「厄介体質で悪かったな。巻き込まれたくなかったら、離れて歩いてくれて構わないんだぜ」
「まあ、オレはそんなところも楽しんではいるけどね。……で、その体質で今日は何を引き寄せたわけ?」
「……しつこいなオメーも」
 それとなく話を反らせたかとも思ったのだが、さすがに甘かったようだ。
 店を出てから、行く宛てもなくぶらぶらと歩く。快斗と会っている時は大抵そうだった。何か明確な予定があることは少なく、大抵はくだらない世間話をして食事をして時間が経てば帰る。その“世間話”の中に、殺人事件や犯行予告と言った単語が時折まじることを除けば、ごく普通の高校生男子と変わりなかった。
「別に、新一が素直に白状してくれれば、オレだってこんなにしつこく問い詰める必要もないわけだけど?」
 ほら吐いちまえって、と快斗は小さく唇の端を上げながら言う。まるで警官の取り調べだ。自身の立場をわかっているのかと、こんな時に新一は心の底から不思議に思う。黒羽快斗という人間は本当によくわからない。
「だからな、本当に大したことじゃなかったんだって言ってんだろ」
「大したことじゃなくてもオレは知りたいんだって」
「何でだよ」
 若干の苛立ちを覚えながらそう尋ねれば、快斗は唇に浮かべた笑みを深めた。やはり怪盗キッドとは似ていない。それよりもずっと年相応に子供めいた、そうしてどこか狡猾さすら感じさせる笑みだった。
「知りたい?」
 問いかけに対し、同じく問いかけでもって答えるやり方はずるい。
 そうして恐らく、快斗が用意している回答は、新一が嫌がる類のものなのだろうと難なく予想できてしまったからこそ、小さく息をつくしかなかった。怪盗なんて人種は、人を困らすことが好きなのだろうか。その神経は新一には全く理解できない。
「……ここまで、電車で来たろ」
「うん?」
 どうしてこんなことを白状しなければならないのだろう。
 けれど、これ以上はぐらかしたところで、それこそ素直に快斗が諦めるとは到底思えない。以前にも似たような会話をしては、快斗のしつこさに辟易させられた経験があるのだ。最終的な結果が同じなら、無駄な時間を過ごす必要はない。
「ここまでの電車って、けっこう混んでんのな」
「あー、そりゃまあこの時間だし。朝もけっこうあれだけどな。まぁどこもそんなもんじゃね?」
「ま、そりゃそうだろうけどな」
 言うと決めたものの、決定的な言葉が出てこない。男としてのプライドは、そう簡単に拭えるものではないのだ。
「新一?」
 不思議そうに快斗が名前を呼ぶ。自然と足は少しばかり早足になっていた。身長の変わらない快斗は、もちろん遅れることなく付いてくる。駅前の商店街の中はそれなりに混みあっていたが、先ほどの電車内と比べれば遥かにマシだった。何よりここには変態男はいないのだ。
「……新一、まさかとは思うけど」
「言うな」
 察しが良くて助かったと思うべきなのか、そうでないのか。
「いや、だって新一」
「言うなって言ってんだろ。それ以上喋ったら蹴り飛ばすぞ」
「だけど」
「黙ってろ」
 自ら屈辱的な言葉を吐くことはなかったが、結果は何も変わらなかった。後悔なんて生易しいものではなく、襲ってきたのは吐き気にも近い感情だった。食べたばかりのハンバーガーの後味が、口の中にまざまざと浮かんでくる。特別美味しくもなければ不味くも無く、ファストフードというのはそういうものだ。
「忘れろ」
 それに対する返事は無かった。
 隣を歩いているはずの、相手の顔を見ることすらできない。どれだけしつこく食い下がられようが、やはり言うべきではなかったのだ。らしくもない判断ミスに舌打ちが漏れた。
「……なっ」
 腕を引かれたのは同時だった。進路方向から九十度、ずれた方向に身体を引きずられる。
「何すんだよ」
 慌てて振り返ったが、快斗の表情は読めない。隠しているのか、それが無意識なのかはいまだに新一にはわからなかった。通行人にぶつかることなく、快斗は商店街の大通りを突っ切って行く。逃げようと思えばそうできないこともなかったのだろうが、意識が追いつく前に脇の小道へと引きずり込まれた。まるで路地裏のような薄暗さだった。
「何なんだよ、オメーは急に。人のこと思い切り引っ張りやがって、腕が……」
「新一」
 名探偵、と。
 以前はそう呼ばれていた。
 今だってもちろん、そう呼称されることはある。けれど、キッドに呼ばれるそれと快斗に呼ばれるそれでは全く違う。何がどう、と言葉にはできない。あるいはそれは、新一の思い込みや先入観というものなのかもしれない。キッドと目の前の学ランに身を包んだ人物を、本当の意味で同一視できていないのではないかと思う瞬間がある。
 それぐらい、あまりにも姿が違いすぎるのだ。
「新一」
「……何だよ」
 快斗が呼ぶその声に、どこか甘えた響きが混じっていることを知っていた。
 怪盗キッドが世間を魅了して止まない悪党であるならば、黒羽快斗は自然と人を引き寄せるムードメーカーだった。知り合ったばかりの相手とだって、気にせず話題を広げ笑い合う姿を何度目にしたことだろう。それは快斗にとっては当り前のことであり、相手に好意を向けられることも自身もまたそれに対して好意を返すことを、何ら不思議には思っていないようだった。
 だれに対してもその人懐こさを見せるのだろうと思っていたから、人との距離感の縮め方の上手い奴だと知っていたから、初めは何とも思っていなかった。快斗が新一を呼ぶ、その声の中に含まれた感情が、ただの人懐こさ故のものではないと知ってしまった時から、恐らくはもうただの友人同士ではなくなっていたのだろう。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
 あまりに静かに、名前を呼ばれることには慣れていないのだ。
 少し耳を澄ませば、夕方の喧騒はすぐそこにある。ほんの少し路地裏に入っただけで、日常とそうでない空間が切り離されているかのような錯覚を覚えた。馬鹿馬鹿しい考えだった。
「……それを今、新一がオレに言うんだ?」
「何か言いたいことがあるって顔をしてるからだろ。ポーカーフェイスを装うつもりなら、それも全部隠しやがれ」
「何でそういうことをさ、新一はオレに言わないの」
 快斗の手はもう離れている。道を塞がれているわけでもなければ、逃げることなんて簡単なように思えた。それでも、まるで壁際に追い詰められているかのような、そんな閉塞感にも似たものを感じた。向けられる視線、それだけで。
「オメーに言ったところで、何も変わらないだろ」
「変わらなければ言う意味もないって?」
「言いたいと思ったことは言うし、そうじゃなきゃ言わないってだけだよ。オメーだってそうだろ」
「まあね。別にオレは、その辺り新一に無理強いをしたいわけじゃないし」
 オレの我儘だってことはわかっているよ、と。先手を打ってそう言われてしまえば、次の言葉が浮かばずに新一はうっと言葉に詰まる。
 子供のような顔をして、現に『キッド』なんて名乗っている癖に、こうした時快斗は不思議なまでに落ちついた顔をして見せる。動揺しているなんてことは、絶対に知られたくはなかったから、表情の下で新一はぐっと力を込めた。
「だから別にさ、怒ってるわけじゃねぇし。……怯えるなって」
「だれがだよ」
「新一が?」
 からかうように快斗は笑う。少し雰囲気にのまれてしまっていたかもしれないが、怯えていたわけではないと不服に感じて仕方なかった。どうして同い年の男相手に怯えなければならないのだろう。いくら天下の奇術師相手とはいえ。
「でもさぁ。わかんないのかなー」
 努めてふざけた声音を出しているように感じられた。
 自分が怯えたために。いや、快斗にはそう見えたために。ハンバーガーの後味を再び思い出した。誘われるままに食べるべきではなかったのかもしれない。
「別にオレは、新一のことを全て把握したいわけじゃないけど」
「じゃあ一々聞いてこなくてもいいだろ」
「でも、それと心配をすることは別だろ? 恋人としてはさ」
「オレは女じゃねぇんだよ」
 だから心配される必要なんて何もないと、そう思っているわけではないけれど。
 けれどその比重が、軽くなることは確かだろうと思う。だれに触られようと何をしようと。これが同い年の少女相手であったら、もちろんそうはいかなかったことだろうが。
「女じゃねぇけどさ。でも、オレにとっては世界で一番大事な相手で、これまた世界で一番の美人に違いないと思ってるぜ?」
「……快斗てめぇ」
「いって、蹴るなよ! 褒めてんだろ!」
 男相手に美人と言うのが、本当に褒め言葉だと思っているのだろうか。モデルや役者ならともかく、自分は探偵だ。それを除けばただの高校生だ。
「嬉しくねぇんだよ、んなこと言われたって! オメーそれ言われて嬉しいのかよ!?」
「や、オレは新一と違って言われたことないしー? ちょっとその気持ちはわかんないかなぁ、なんて……」
「同じ顔だろ!」
 厳密にはもちろん違うが、そうと言っても差し支えない程度には似ているのだ。何の運命の悪戯なのか。
 もう一度容赦のない蹴りを食らわせようとすれば、快斗は焦った顔を見せながらも軽い身のこなしで避けて見せる。「ごめんごめん」と笑いながら言われたところで、誠意なんてこれっぽっちも伝わらない。気分だけがどっと疲れて、気づいた時には壁にもたれかかっていた。制服が汚れるかもしれないなんて、そんなことは気にもしなかった。
「んで、新一?」
「……何だよ」
「どこ触られたの? あと、具体的にどの辺りまで?」
「オレが答えると思ってんのか、それ」
 睨みつけるようにして答えてやれば、快斗は「いや?」と肩をすくめる。わかっていてどうして尋ねるのかと呆れる。こちらの機嫌を損ねたいわけでもないだろうに。
「ほら、万が一? 釣られて答えてくれないかなぁとか」
「聞いてどうすんだよそれ。楽しいわけじゃねぇだろ」
「楽しくはないね。むしろ心底から気分悪い?」
 楽しい話題ではないだろう。その嫌悪が自分ではなく、あの男に向けられたものだとわかりつつも、胸に小さくひやりとしたものが広がった。何度味わっても慣れることのない感覚だった。
「ありきたりだけどさ。オレがその場に居てあげられたら良かったのにとかさ。そういう無駄なことを、まぁ多少は考えるよな」
「オメーがいようがいまいが、ああいう輩はどこにでもいるもんだろ。確立の問題だ」
「でもオレがいたら、少なくともされるがままってことにはしなかったぜ? ま、どっちにしろ声は上げられないにしても、痴漢の背中に自己申告な張り紙をくっつけてやるぐらいのことはしただろうしな。新一はどうせ、外聞とか気にしてそのままだったんだろ?」
 まるでその光景を、見ていたかのような口ぶりだった。その通りだから何も言えない。ただ、改めてそう言われれば、何もできなかった自分が情けなくて歯痒くて仕方なかった。『何もしない』だなんて。それは普段の自分が一番嫌っていることだというのに。
「責めてるわけじゃなくてさ。それで仕方なかったんだと思うよ、オレも。女の子だってさ、怖かったからとか恥ずかしかったからとか、だれも助けてくれなかったらどうしようとかで、声を出せない子なんて幾らでもいるじゃん。皆そういうもんなんだって」
 優しい声音が、今は少しばかり辛い。それこそ、自分の我儘なのだろうとわかっている。
「……情けねー」
「情けなくねぇって。むしろそこで新一が、痴漢を蹴り飛ばすなり麻酔で打つなりして、今頃警察に事情聞かれてたりする方がよっぽど恥ずかしいっての」
 いやそのぐらいして当然なのかもしれないけど、と慌てて快斗は付け足す。少し考えたとはいえ、やはり麻酔で眠らせなくて良かったと新一は思う。「痴漢されたので麻酔で眠らせました」なんてことになった日には、それこそ恰好のワイドショーの獲物になってしまう。
「だからさ。オレが言いたいのは、そういうのを言いたくない気持ちもわかるけど、少しは心配してるこっちの気持ちもわかってくれってこと」
「気が向いたらな」
「その返事おかしくない!? ……あと、新一は普通に美人なんだからその辺りも今後ちゃんと気を付けるように」
「そっちの方がおかしいだろうが」
 心底から思ったが、それこそ今さっきの出来事すぎて強くは言えない。最近では青少年相手にもこうした事件が頻発していると、一つの情報としては知っているのだ。ただそれに、自分を当てはめて考えたことは今まで無かった。これからもそうでありたかった。
「……オメーの困ったとこはさぁ、そうやって無自覚なところだよな、ホント」
「何がだよ。ちゃんとわかってんだろうが」
「わかってるとは到底思えねぇからこっちは困ってるんだよ。あー、本当色々疲れすぎてクレープでも食べたくなったなー。優しいどっかの名探偵が買ってくんねぇかなー」
「勝手に一人で困ってろよ。つか、何で俺がオメーにクレープなんか奢らなきゃいけないんだよ。さっき飯食ったばっかだろ」
「甘いものは別腹なんですよ、名探偵?」
 澄ました口調は、どこかキッドにも似ているもので。
 本人なのだから当り前だと、自分に言い聞かせながらもわずかに目を見開いてしまった。心臓が、少しばかり騒がしくなったような気もした。不意に見せられたその顔に。
 油断をしていたとは思いたくなかったが、驚いた隙にまた腕を引っ張られる。来た時同様、引きずられるようにして路地裏を出る。
「いてーな! 引っ張んじゃねぇよ」
「新一がノロノロしてっからだろ。売り切れたらどうしてくれんだよ」
「んなの知らねーよ! それにオレは行くなんて一言も言ってねぇだろ!」
「まあまあ」
 宥めるようなことを言いながらも、快斗の腕は離れない。わずかに力が緩んだが、それだけだった。頭の中にはもう、これから食べるクレープのことしかないのかもしれない。奢ること自体はやぶさかではないが、いいように使われているようでそれが少し腹立たしい。
「いいじゃねーか、行くとこも別にねぇしさ。新一にもちゃんと一口やるって」
「オレが金出すのに一口だけかよ」
「だって新一、生クリームが入ってると甘過ぎるって嫌がるだろ」
 その通りだったから、文句を言うことも諦めて新一は軽く息をついた。視線を落とせば、掴まれたままの腕が目に入った。捕まえてやると意気込んでいた怪盗相手に、そうして逆に掴まれていることが改めて不思議に思えた。当り前のように触れられていることが。
(……これは、嫌じゃねぇんだよな)
 相手が違えば状況も違う。当然だろうと思いながらも、けれどその相手は怪盗なのだ。痴漢よりも、よほど稀有な相手と言えるだろう。
 快斗に触れられることは嫌ではない。
 それが腕だからなのか、そうでないのか。
(試したいって言ったら怒るかな)
 わからない。怪盗キッドの逃走経路は読めても、黒羽快斗の思考回路はいまだ謎に包まれたままだった。突拍子もないことばかり言い、それに自分は振り回されてばかりなのだ。
「新一、ちゃっちゃか歩けよ」
「オメーをクレープ屋の前まで蹴り飛ばしてやろうか?」
「……すみませんでしたゆっくりお歩き下さい」
 そう言いながらも掴んだ腕は離れない。そんなことをしなくとも逃げ出したりはしないというのに。
「オメーさぁ」
「え、なに?」
 どこかびくびくとした様子で振り返るその顔は、怪盗は愚かマジシャンにすら見えない。
 まったく理解不能な男だと思った。この黒羽快斗という生き物は。
...12.05.18