「ただいまぁ」
と、オレが宿屋の一室に戻った瞬間、ぐいっと腕を引かれた。
「うおっ」
倒れそうになる、が、そこはオレの腕を引いた張本人が、しっかりオレを支えてくれていた。もちろん感謝する気にはなれないが。
「危ねぇじゃねーか!」
オレは当然文句を言う。当たり前のことだ。扉を開けた瞬間に腕を引かれては、うっかり転んで怪我でもしかねない。
そんな当然すぎる文句を言っただけのオレに対し、思い切り眉を顰めた上に、くんくんとオレの首筋の匂いを嗅いでくれるのは―――粉うことなきオレの使役獣だ。
使役獣。文字通り、使役する獣なわけなのだが、こいつはどうにも強大すぎる力を持っていて、そうしてオレの予想を上回ることばかりしてくれるのだ。今この時のように。
「……どこの男の匂いだ」
「男のって……」
オレはもちろん男だから、オレから男の匂いがするのは当然だ。
けれどオレの使役獣は、そんなことを言っているのではないのだろう。
「オメー、買い物に行くだけだっつってたじゃねぇか。なのに何でこんな、よその男の匂いをぷんぷんとさせてんだよ、あぁ? オレのいねぇ間に、どこの男に触られやがった」
「触られって……触られてなんかねーよ! 人聞きの悪ぃこと言うんじゃねーよ!」
「触られてねぇんなら、何でオレの知らない雄の匂いがおまえからぷんぷんしてんだよ! どう考えてもおかしいじゃねーか!」
「おかしいのは、帰って来た主人の匂いをくんくんくんくん嗅いでるオメーの方だよっ!」
振り払うようにして、オレはその腕から逃れた。そうして、抱えていた荷物を寝台の上に置いた。旅には何かと荷物がいるもので、そうしてオレはその買い出しに行っていたのだ。
人の集まる町にやって来たのは久しぶりのことで、楽しくもあり疲れもする。オレの故郷は、あまり都会とは呼べないものだからこそなおさらに。
どさっと寝台に腰掛けたオレの前に、まるで仁王立ちになるように立ったのは、やはりオレの使役獣―――新一だった。勘弁してくれ。
「……何でオレを連れていかなかった」
なるほど、どうにも不機嫌だとは思ったが、オレが買い出しに新一を連れていかなかったことからして、機嫌を害していたらしい。いや、わかってはいたのだけれど。
「だーかーらー、オレだってたまには一人で買い物ぐらいしてぇの。そう言っただろ」
「オレはおまえの使役獣じゃねぇのかよ」
「そうだよ。だからオレの、主人の言うことに少しは従ったらどうなんだって」
新一の米神がぴくりと動いた。同時に、オレの心臓もびくりと動いた。
主人が使役獣に対して命令するのは当たり前のことだ。そうわかっているのに、何せ相手が新一なものだから、オレは一々緊張せずにはいられないのだ。けれどそれも、あまりに格好が悪すぎるものだろうと思うから、せめて表面上は得意の仮面をかぶっておく。せめてもの見栄というやつだ。
「……主人、ね」
「そ、そうだよ。おまえはオレの使役獣で、オレはおまえの主人だろ。何か間違ってるかよ」
「あぁ、何も間違っちゃねぇけどな」
新一が一歩近づく。オレは反射的に寝台に足を上げる。新一が寝台に乗り込んでくる。オレはさらに後ろに下がって行く。
そうした攻防を続けた結果、オレの背中が壁につくのは当然のことで、いくら表面上だけ仮面をかぶっても意味はないのだった。何せ怖いものは怖いのだから。
「なら、使役獣としては、オレのご主人様に、一体どこの男が匂いをつけてくれやがったのか、知る権利ぐらいはあるよなぁ?」
「……い、いやぁ」
至近距離で微笑まれると何とも怖い。
笑っているのに、その実、目が笑ってなどいないのだ。もう少しこいつは、人間の微笑みを勉強した方がいいと思う。
「おい、どうなんだよ、快斗」
使役獣の身で、ご主人様を呼び捨てするとは。
なんて、言いたくても言えない。新一の正体は翼を持った銀竜で、その大きさもさることながら、吐いた火炎一つでオレを簡単に消し炭にしてしまえるのだから。
それ程の力を持った奴が、どうしてオレとの契約に応じたのかはわからないが、大体にして竜という生き物は長命だ。恐らくはただの気紛れ、一時の遊びに過ぎないのだろう。そうわかるからこそ、本当にオレは新一の機嫌一つで殺されてしまう可能性だってあるのだ。
それだけは、何としても防がなければならない。
「……だ、だから、新一の誤解だって」
「誤解」
「そう、誤解」
「オレの鼻が効かないとでも?」
「……そ、そういうわけじゃなくて」
オレの頭はそれなりに回転の良さを誇っていたはずなのだが、一体どうしてしまったのだろう。
実のところ、新一が言う『よその男の匂い』とやらには当てがあった。オレは奇術師を生業としていて、一応旅の間はそれで生計を立てようと目論んでいるのだけれど、この町は人も多いからと、多少その奇術を披露したのだ。
披露したところ、この町の町長の息子だという若い男がずいぶんと気に入ってくれて、十日後にある町の祭りでぜひまたオレの奇術を披露してくれないかと持ちかけてきたのだ。
よほど奇術が好きなのか、あるいは祭りに力を注いでいるのか、それはもう熱心に口説かれた。途中で手を握られたりもしたもんだから、そりゃあ多少の匂いぐらいはついているものだろう。香水をつけていたわけではないのだ、もちろんオレにはわからないが、新一の鼻は別である。
「……ここは人が多いだろ。大通りに買い物にでも行けば、色んな人とすれ違うし、ぶつかったりもするんだって。そうやって匂いもついたんだろ」
まさか本当のことなど言えるわけもない。
何ともない話だ。何ともない話だけれど―――それどころか、オレにとっては嬉しい話だけれど―――新一に話せばどうなるものか。この使役獣は、いささかオレに対して執着心が強すぎる。良くも悪くも―――いや、悪くも悪くも。
「……色んな人に、ね」
「そう。色んな人に」
若干厳しい言い訳だ。
けれど、他に言い訳が見つからないのだから仕方ない。これは人命救助だ。だってオレが本当のことを言えば、多分新一は町長の息子を丸焼にしてしまう。いや消し炭か。
「なるほど」
こっくりと新一は頷いた。神妙な顔をしていた。
新一はまだ若い竜で、まともに人間と接したのも、オレが初めてだという。町に来た経験だって、ろくに無いことだろう。そこは幸いだった。
どうやらオレの言い訳を、一応は信じてくれたらしい。そう胸をなでおろした時だった。
「じゃあオレも、ちょっと出かけてくるな」
「えっ」
主人が使役獣を置いて出るのはともかく、その逆はどうなのだ。
「いや、出かけてくるって」
「何だよ。オメーは一人で出てもいいけど、オレはダメだって?」
「当然のような顔をしてるけどな、どう考えても駄目だろ。オレが使いを頼んだならともかく、何で主人を置いて―――」
「うるせぇな。止められるもんなら止めてみろよ」
できもしないことを言ったかと思うと、新一は窓枠に足をかけた。窓から外に出ようと言うのだ。ちなみにここは二階だ。
「おおい! おまっ、町にいる間は人間らしく振る舞えって……! 目立つことすんな!」
「オレに指図すんなっつってんだろ。燃やすぞ」
「指図すんなって、それが主人に対して言うことか……!?」
「オレを置いて、よその男に触られまくってたくせに、よく言えたもんだなぁ?」
新一が笑う。笑いながらに窓を開け、その身体がふわりと浮く。
「……北の方、か」
「な…っ」
何を言っているのか、とっさにはわからなかった。
引きとめる間もなく、新一の身体は窓の外へと消えてしまう。姿こそ人間でも、その中身は竜だ。もちろん地面に落ちて死ぬようなこともない。オレが慌てて窓に飛び着けば、もう新一は軽やかな足取りで走り出していた。一応、人間の姿のままではいるらしい。
「北の方、って……っ」
それは町長の家がある方角だ。
そうしてそこには、もちろんオレに声をかけてきた、オレの手を握ってきた、あの若い息子もいるのだ。
「うわああああん新一……っ!」
どうしてこんなにも、竜の鼻はいいのだろうか。恨んだところで仕方ない。
オレは慌てて宿屋を飛び出していった。新一を捕まえ、そうしてその鼻の穴に、綿を詰め込んでやろうと本気で思った。人命救助のために。