スイッチの入れ方切り方切り替え方
 何となく、朝早くに目が覚めてしまった。
 もう9月に入ったというのに、目覚めると身体はどうも汗でべっとりしているように感じられる。シャワーでも浴びるかと、階段を降りて真っ直ぐ浴室に向かおうとすれば、頭に何がこつんと当たった。
「こーら!」
「……ってぇな」
 足元を見れば、そこには一枚のトランプが落ちていた。オレの髪が切れていないところを見ると、お得意のあの銃でもって飛ばされたわけではなさそうだ。良かったと言うべきか何なのか。
「どこ行こうとしてんだオメー」
「とこってな」
 振り返ればそこには恋人の姿がある。この家で一緒に暮らし始めて早一ヶ月。同棲というよりかは、最早これは新婚生活といってもいいだろう。朝起きて真っ先に新妻の顔を見る。一日の始まりはやはりこうでなくては。例えその妻がトランプを飛ばしてくるのだとしても。
「何だよ、おまえの顔見る前に風呂浴びようとしてたからって拗ねてんのか? 今日も可愛いなマイハニー」
「オメーの頭が今日も朝から沸騰してんのは勝手だけど、オレに鳥肌たてさせんのは止めてくれないかなぁいやマジで」
「一緒に風呂入るか?」
「入んねーよ。じゃなくてオメーも入るな。当分朝風呂禁止な」
「何だよそりゃ」
 そこまでしてオレと一緒にいたいのか。確かに朝の時間は貴重だ。オレはもう少しすれば仕事にでなくてはならない。こいつはどうなのか知らないが。
「節水」
「節水? 水道代節約しなきゃならねー程、オレは金に困ってねぇぞ」
「オレだって困ってねーよ! じゃなくて、水不足なんだっつの。昨日も町内放送が流れてただろ? ダムの貯水量が減ってるから、皆さん節水にご協力下さいって」
「あぁ」
 頷いて見せたが、仕事に出ていたオレはその手の放送など聞いていなかった。ただ、ニュースは見ていたし、何より昨日目の前の恋人が話していたことは覚えている。
 いくら水不足だと訴えたところで、人間だれしも水なんて使う時は使うものだ。一体どれだけの人間が節水を心掛けるのだろうと思っていたが、どうやらその中の一人はすぐ身近にいたらしい。灯台もと暗し。
「水不足はみんなの問題だろ。一人はみんなのために、みんなは一人のために! いつ雨が降るかもわかんねーし、できるところで節約していかねぇとな」
 うんうん、と頷きながらに黒羽は言う。元々決して節約好きな男ではないのだが、なぜだかスイッチが入ってしまったらしい。放っておけばそのうち元に戻るのだが、残念ながらオレはそのスイッチの切り方を知らなかった。
「っつってもな、何で朝風呂まで禁止されなきゃなんねーんだよ。無駄遣いしてるわけでも長風呂なわけでもねぇし、こんぐらい別に……」
「あー、その意識が怖い! オレぐらいいいだろ別にっていう、その意識が怖い! 例え一人一人の使う水の量はわずかでも、それをこの米花町の人口で考えればどれだけの莫大な量になるというのか、この名探偵ともあろう者が全くおわかりでないだなんて!」
「……あのな黒羽」
「大体朝シャワーって何ですか。朝にシャワーを浴びないと死ぬんですか名探偵は? 身体に水を浴びないと干からびるんですか河童ですか? このぐらいなら大丈夫だなんて余裕をこいて、後になってから後悔したって遅いんですよ干からびても遅いけど。あぁそうですね、名探偵がどうしても頭のお皿を濡らしたいとおっしゃるのでしたら、私が今晩の楽しみにとっておいた缶ビールを進呈しても……」
「何の話をしてんだよおまえは!? わーったよ、シャワーを浴びなきゃいいんだろ!」
「わかって頂けて何より」
 こくこくと頷いて、黒羽は笑顔を浮かべる。本当にこいつのスイッチはどうやって切ればいいのだろう。それともただ単にからかわれているだけなのか。
 朝からどっと疲れた。どちらにしろ、顔を洗うために洗面所に行かなくてはならない。いくら黒羽だってそこまで節水しろとは言わないだろう。言われても困る。
「あ、工藤。身体べとついてんのなら、タオル水で濡らしてそれで拭けよな。そんだけでも十分違うぜ」
「おまえが拭いてくれるって?」
「わたくしこれから朝食の準備がありますゆえ、申し訳ありませんがセルフサービスでお願い致します」
 あっさりと言って、黒羽はキッチンへ姿を消した。美味しい朝食を食べる前に、オレも身支度を整えてしまうとしよう。


 相変わらず東都一帯の水不足は続いている。雨が降らないのだから当然だ。オレも仕事が休みの日に、黒羽が言っていた節水を呼び掛ける町内放送をやらと聞くことがあった。とは言っても、水の出が悪くなるようなことも、ましてや断水されるようなことがあるわけでもなく、オレの生活は別段変わらない。
 いまだ節水スイッチが入ったままの黒羽は、毎日せっせと節水活動に勤しんでいるようだった。あれをした何をしたと報告してくれることもあるが、基本的にオレが節水に無関心なことがわかっているのか、あまりオレ達の間で話題になることはない。朝にシャワーを浴びない生活にもまあ慣れた。元々どうしても朝にシャワーを浴びたいというわけでもない。
 そんな中、依頼人の都合で、明日の打ち合わせが無くなった。突如オフが舞い込んできた。
 夕飯の席でそれを言うと、黒羽は笑顔で「おー、オレも明日休みなんだ。日用品の買い込みにでも行こうぜ」と言われた。オレは頷いた。
 そうしてその夜、先にベッドに潜り込んで携帯をいじっていた黒羽に圧し掛かったところ、素気無く追い払われてしまった。おいこら。
「黒羽」
「はいはい盛ってないで早く寝ましょうねー。明日は買い物行くんだろ。けっこう大変だぞ。トイレットペーパーもティッシュペーパーもねぇし、味噌もねぇし米もそろそろ無くなりそうだし……」
「車出しゃんなもん大変でもなんでもねぇだろ。つーか買い物なんか午後から行きゃいいだろ。だからな……」
「いやいやいや」
 手元から携帯を取り上げて、その流れで首筋にキスでもしようとすれば、これまた見事に避けられる。元怪盗の身のこなしは伊達ではない。
「何なんだよ」
 明日オレは仕事が休みで、黒羽もまた休み。互いの休日がかぶることなんて滅多になかったから、そうした場合の暗黙の了解ではなかったか。それとも、それを『了解』と取っていたのはオレだけだったのか。
「おい黒羽」
「……あのさー、オレが最近、何してるかわかってねぇの?」
 背中を向けようとしていた黒羽は、いやいやながらと言った様子で振り返りながらそんなことを言う。
 今メールをしていて忙しいとか、そんな気分ではないというか、そういうことを言いたいわけではないらしい。
「生理か」
「……あ、うん。そうなのあの日なの。お腹痛くて腰痛くてとてもそんな気分になれねぇの。だから静かに寝かせてねダーリン」
「わかったお大事にな。……って、おいこら流すな。ふざけてんじゃねーよこら」
「最初にふざけたのはどっちだよ」
 オレが悪いとでも言いたげな声音で、黒羽はため息をつく。つきたいのはこっちだと言うのに。期待して寝室の扉を開けたオレの気持ちがわかるのか。
 のそのそと起き上がると、もう一度ため息をついてから、黒羽はじっとオレを見つめた。
「節水」
「は?」
「オレはね、最近毎日こつこつこつこつ節水してんの。水を大事に使ってんの。無駄遣いしないように心掛けてるの。わかった?」
「……それとこれと何の関係があんだよ?」
「オメーほんとに探偵かよ? 探偵は探偵でも殺人事件や暗号以外には興味がないって? オメーが盛った後にいつもどういう展開になるのか思い出せよ」
「オレが盛ると、始めは嫌だとか何だとか言ってたおまえも何だかんだですぐその気になるよな。つーか、おまえが最後まで抵抗した試しなんて一度もねぇよな。最初に抵抗すればするだけ落ちるのが早いっつーかぐちゃぐちゃになるというか、まぁそんなおまえがオレは好きだから全然構わ―――」
「もういい黙れ」
 思い出せと言ったのはそちらの癖に。
 でも、オレだって仮にも探偵だ。いや、探偵じゃなくてもこの場合の恋人の言いたいことなどすぐわかる。つまりオレが盛ると後で風呂に入る羽目に、つまり無駄に水を使うことになると言いたいのだろう。
 オレの口元を押さえていた手を、べりっと剥がした。マジシャンの指先は手入れの行き届いた繊細なもので、反射的にオレはその爪先にキスを落した。
「おいこら、だからな……っ」
「あのな、確かに水不足は問題だ。そんな時に水を無駄に使うべきじゃない。オメーのがんばりもわかってる」
「だったら盛るなって……! おい、どこ触ってんだよこのっ」
「だけどな、これは無駄遣いか? 確かに今日はもう風呂には入ったけどな。翌日に久々の休みを控えた恋人たちが、これまた久々に愛を確かめ合おうとすることの、それが本当に水の無駄遣いか?」
「……工藤ってば、確かめないとオレの愛がわからないんだ? やだー、ショックー」
「黒羽」
 窘めるように名前を呼べば、黒羽は小さく身動ぎした。でも、オレが掴んでいるその手を無理やり引っ込めようとはしないし、オレのもう片方の手が脇腹をそっと撫でても、逃げようとはしなかった。こいつのスイッチの切り方はわからないが、切り替えることぐらいならオレにもできるのだ。
「……あーあ、毎日がんばってるのになぁ、オレ」
 それでも諦めが悪い。
 キスの合間にまだそんなことを言うかと、オレは少しむっとしながら言ってやった。
「わーったよ。明日雨でも何でも降らしてやるから心配すんなっ」
「オメーは探偵から天神様にでも転職する気か?」
 呆れたように黒羽は言ったが、最初に抵抗すればするだけぐちゃぐちゃになる法則は今夜も適用されていて、結果的には大満足のいい夜だった。


「にしても、それでほんとに雨が降るんだからすげぇよなー。天気予報じゃんなこと言ってなかったっつーのに」
「オレの愛の力だな。これで節水なんて気にせず好きな時に好きなだけヤれるな」
「わたくしそこまでは身体が持つ自信がありませんゆえ、申し訳ありませんがセルフサービスでお願い致します」
「おいこら」

...12.09.13
市内放送で節水を呼び掛けているのを聞いたらつい。最近何を見ても聞いても思考が工藤さんと快斗に飛びます。