料理本などを開いている姿は初めて目にするもので、珍しいなと思ったのだ。
「何か料理作るのか」
「……え?」
よほど真剣にレシピを眺めていたのか、珍しくも黒羽は、すぐには工藤が話しかけたことにも気付かなかった。
「だから、何か作りたいもんでもあるのかなって」
隣に腰掛けながら再び尋ねれば、黒羽は「うーん」とでも言いたげな、至極曖昧な表情を返してきた。
「何だよ」
「何か特別作りたい物があるわけじゃないけど」
「けど?」
「強いて言うならお弁当、かなぁ」
「弁当?」
言われて横から本を覗けば、なるほどそこには、様々な弁当用のレシピが載っていた。工藤は根っからの読書好きではあるが、それでも間違っても購入することはないだろう類の本であった。
「友達とどっか行くのか」
弁当の用途なんてそれぐらいしか浮かばなかった。今までにも、黒羽と二人出かける際に、黒羽が弁当を作ってくれたことは何度かあった。
「そうじゃないけど、四月からは、やっぱお弁当持ってった方がいいよなって。だからその練習?」
「四月からって……あぁ、大学入ったらってことか?」
「そうそう」
「おまえあそこの学食気に入ってたじゃねぇかよ」
「毎日学食やコンビニなんかで買ってたら、お金すぐ無くなっちゃうもん」
至極当然のように黒羽は言う。普通はその手のことを考えるべきなのだろう。嫌がおうにも考えなくてはならないというべきか。
幸いにも工藤は金銭的には何も困っていないものだから、弁当を作ることなど一度も考えたことはなかった。ろくな自炊ができない時点で、弁当を作るも何もないのだが。
「毎日は無理でも、頻繁に作るんだったらさ、それなりに効率よく作らないとだし、手軽に安く作れないと意味ないし」
だから今の内から練習するのだと黒羽は言う。まだ肝心の受験も終わってない時期で、心配するのが昼食かと呆れる気持ちはあったが、それこそ試験その物には何の心配もないのだろう。工藤だってそれは同じだ。黒羽の頭の良さはこの上もなく知っている。
「料理は別に嫌いじゃないけどさ、お弁当にするんだったら冷めても美味しくないとだし、そういうの考えると面倒だよなぁ。……あ、でもこれ美味しそう」
「どれ?」
横から再度覗きこめば、これこれ、と黒羽は一つの写真を指差した。
「豚肉の甘辛味噌炒めだって。豚肉残ってたし、明日のお昼用に作ってみるかなぁ」
「へえ、いいな。オレもその弁当食いてぇな」
写真で見たレシピは確かに美味そうだった。学食にも似たメニューで生姜焼き定食ならあったが、甘辛味噌味というのもなかなかに食欲を誘った。
「……え?」
「あ?」
「え、工藤さん……」
気づけば、こちらを見つめる黒羽が、わずかに顔を赤らめていた。
豚肉炒めを見ていたその次の瞬間に、どうして黒羽が顔を赤らめるのかわからず、工藤はわずかに目を見開いた。
「黒羽?」
「えっと、工藤さん……お弁当、食べたい?」
「は? 弁当?」
「あ、だから……」
ぱくぱくと口を動かしていた黒羽は、けれど次の瞬間に「うわあああっ」と声を上げた。
「違う、違った!? 今の別にそういう意味じゃなかった!? ただの相槌だったそうだったんだ!? うわあ恥ずかしい恥ずかしすぎるうわあああっ!」
「ちょ、おま……っ」
「恥ずかしい恥ずかしいオレの勘違い恥ずかしい! 恥ずかしい埋まりたい! 穴掘って埋まるから十年後にタイムカプセルとしてオレを掘り出してね工藤さんお願いねうわああんっ」
「おま、落ちつけよ少し。そのテンパリっぷりの方が遥かに恥ずかしいぞ」
なんて声をかけたところで、ソファに倒れ込んでしまった黒羽には届いていないのだろう。
おいこらと肩をゆすっても、クッションを抱きしめたまま倒れ込んで、黒羽は顔を上げようとはしない。早々に諦め、工藤はキッチンに何か軽くつまめるものを探しに行った。料理本などを見ていた所為か、若干小腹が空いて来てしまったのだ。
お湯を沸かし、カップ麺を作って戻ってくる。数分前と変わらぬ姿で、黒羽は羞恥に悶えていた。
「おい、黒羽」
頭を突いてもそれは変わらない。
そうこうしていると三分が立ち、工藤は箸でカップ麺をかき混ぜた。一口すすってから、ふと思ってそのカップ麺を黒羽の顔付近に近づけた。
「……」
「……おまえわかりやすいな」
すぐさま顔を上げた黒羽の口元に、静かに麺を運んでやる。
麺類を相手に食べさせるというのは、これがなかなかに難しい。面倒になって箸とカップごと黒羽に差し出せば、黒羽もまた黙ってそれらを受け取った。居住いを正して黒羽はカップ麺をすする。
当然工藤の分が無くなってしまったわけだが、もう一度キッチンに行く気にはなれなかった。それに黒羽の食べる姿を見ていると、不思議と自分の小腹の空き具合も、気にならなくなってくるのだ。
「美味いか」
「……カップ麺は正義」
「そりゃ良かった」
一人暮らしの男にとって、カップ麺というのはありがたい味方だ。最近では黒羽が家に来ている時間が長すぎて、あまり一人暮らしという気もしないのだが。
「で、明日、オレの分の弁当作ってくれんの?」
「……だからそれ、オレの勘違いって……!」
「そうじゃねぇよ。おまえが作ってくれたら嬉しいって、言おうとしたのにこっち見もしねぇで、このやろ」
「うわーんだからカップ麺で釣ったのかよ! オレのこと釣ったのかよ! 工藤さんひでぇ!」
「こんなもんで釣られる方がどうかしてんだろって……んでおまえ、作ってくれんのかよ、どうなんだよ」
まったく、勝手に勘違いをして恥ずかしがって。そうした挙句にこちらを見ようともしないのは、黒羽の悪い癖だ。
「なあ、おまえが作ってくれた弁当、オレすげぇ好きなんだけど」
「……大して美味しくないじゃん。だれが作ったって似たようなもんだよ」
「バーロ。恋人が作ってくれた弁当は別だろ」
「うわあああんっ」
声を上げながらも、次の瞬間、黒羽は勢い良くカップ麺をすすっていった。汁までもを丁寧に飲み干し、空の容器と箸をテーブルの上に置いてから、勢いの良さはそのままに立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
「……コンビニ」
上着を着込んだ姿を見て、すかさず工藤がそう尋ねれば、黒羽はわずかに落ちつきを取り戻した声で小さく答えた。
「こんな時間にか?」
またアイスが食べたくなったのだろうか。夏だろうが冬だろうが、そんなことは黒羽にとっては関係が無いらしい。
「アイスじゃなくて、卵買いに行くの」
「卵?」
「……だって工藤さん、卵焼き好きでしょ」
初めて黒羽が弁当を作ってくれた時に、リクエストをしたのが卵焼きだった。
それ以来毎回、黒羽の作る弁当には必ず卵焼きが入っている。それが工藤の好物だと、今でも黒羽は信じているのだろう。
まさか特別な好物というわけでもないだなんて、今更言えるわけもなく。けれど事実、黒羽の作った卵焼きは美味しかったから、ある意味で新しい好物と言えるのかもわからなかった。
「待てよ」
どうせコンビニに行けば、アイスが食べたくなるに違いないのだ。
好きな物を買ってやろうと、思いながらに工藤もまた上着を着込み、財布を掴んだ。
*
キッチンに入れば、そこでは黒羽が何やら料理の下ごしらえをしていた。
「明日のサクの弁当か?」
「……あ、帰ってたんだ工藤」
「それ、明日のあいつの弁当かって」
重ねて尋ねれば、茹で卵の殻を剥きながらに、黒羽は「そうそう」と頷いた。続けて「オレがいる時ぐらいね、コンビニじゃなくてちゃんと手料理食べてもらいたいし」と告げられた言葉には、何やら含みを感じて仕方なかったものだが、まあそれはさておき。
「へぇ、美味そうだな」
「茹で卵が? 良かったら茹で卵の作り方教えてあげようか?」
「馬鹿にしてんのかオメー。そっちじゃなくて、こっちの里芋だよ」
「あぁ、煮っ転がし。女の子のお弁当にはねー、ちょっと地味なんだけどね。でも栄養一番美味しさ一番ってことで」
菜箸で摘んで煮っ転がしを、黒羽は「はいあーん」と口元に運んでくれる。ありがたく一つ頂けば、なるほど味の染み具合もばっちりな、それは美味しい里芋だった。
「おまえ手先が器用なだけあって、ほんと料理が美味くなったよな。こんな料理上手な嫁さんを貰えてオレは幸せだよ」
「冷凍の里芋を使った煮っ転がしでそこまで喜んでもらえるなんて、こっちこそ嬉しいわダーリン」
「なあ明日、ついでにオレの弁当も作ってくれよ。ちょっと遠くの依頼人に会わなきゃならなくてな、車ん中で食うからさ」
残った甘い雰囲気の中そうねだれば、同様に煮っ転がしを頬張ってから、黒羽ははっきりと答えてくれた。
「えー? やだよめんどくさい。娘の弁当はともかく、何で大の大人の弁当まで作らなきゃなんねぇの」
「……ただのついでじゃねぇか」
「こっちはちゃんと分量を考えて作ってるんですけどねぇ? 三十分前に言ってくれたならともかく、急に言われても作る側の都合ってもんがあんだよ、お父さん」
「そうかよ」
言っていることは間違っていないのかもわからないが、何せその言い方があまりに可愛くない。
こちとら料理のことなど何もわからないのだ。料理をしている姿を見れば、ならついでにと思ってしまうのも仕方ないではないか。
「……もっと言い方ってもんがあんだろうがよ」
黒羽は卵の殻剥き作業に戻ってしまっている。背中を向けているから、どんな独り言を漏らしても安心というものだ。自棄めいた考えだった。
何とも面白くない。こんなことなら、真っ直ぐ帰宅せずに、どこかで酒の一杯でも引っ掛けてくるべきだったか。
「あ、それちょっと待った」
今から引っ掛けに行くのも面倒だと、代わりに冷蔵庫を開ければ、取りだしたばかりの缶ビールをさっと奪われた。
何をするんだと目で追えば、黒羽は流れるような仕草でその缶ビールを開け、ぐびぐびと喉に流し込んだ。ぷはっと漏れた声までが、全く何とも完璧だった。
「……オメーな」
思い切り蹴り飛ばすか、今晩は久々に嫌と言う程突っ込んでやるべきか。
「飲む前に、ちょっとコンビニ行って来て。お弁当の食材足りないからさ」
「さっきの自分の台詞を忘れたのかよ、あぁ? それこそ三十分前に言ってくれりゃあな、オレは家に帰って来る前に寄ってこれたんだぞ」
「帰ってきてから、お弁当が欲しいって言い出したのはどこのだれでしたっけねぇ?」
美味そうにビールを飲みつつ黒羽は言う。
「卵無くなったから買って来て、工藤さん」
「……卵?」
「茹で卵じゃ卵焼きが作れないだろって」
ビールをもう何口か飲んでから、黒羽はお湯を沸かし始めた。野菜室から取り出したブロッコリーを、トントンと包丁で切っていく。
「早く買ってきてね、お父さん。じゃないとオレ、作り終わる前に酔っ払っちゃいそうだからー」
そう言うのなら、ブロッコリーを鍋に入れながら、片手間にビールを飲むのを止めたらどうなのだ。
けれどもちろん、缶ビール一本程度で酔うような奴ではないと知っている。昔の酒に弱い黒羽も、それはそれで可愛かったのだが。
「……酔っ払いそうなら、それ以上の酒もツマミもいらねぇな?」
「ん、何か言った?」
「いーえ。料理上手な嫁さんの作る卵焼きのために、さっさとコンビニに行ってきますよっと」
「優しい旦那さんを持って、オレの方こそ幸せですよ」
黒羽の作る卵焼きは、昔と変わらず少し甘さが控えめの、工藤好みの味なのだ。
それはこの先何十年と経とうとも、きっと変わることはないのだろう。そんなことを考えながら、疲れた身体で再び家の外へと歩きだした。
[13.05.20]
大学生頃とその十年後程で、がらっと態度の変わる快斗が可愛いなと。