「海外で何カ月も暮らしてて、パパは心配にならないの?」
帰国し数日が経ったところで、突然娘にそんなことを尋ねられた。
「そりゃあ可愛い娘のことはいつだって心配ですよ。もう日増しに可愛く女の子らしくなっちゃって、いつどこぞの馬の骨にかっさらわれるのかと、パパは気が気じゃないったら」
「もう、私のことじゃないわよ」
ぷうっと娘は頬を膨らます。その顔は若干赤味を帯びている。
「あれ、サクのことじゃない?」
「そうよ。私じゃなくて、お父さんのこと! パパ、私にはしょっちゅうメールしてくるくせに、お父さんには何にもしないんだから。パパのいない内にお父さんが浮気しちゃうかもとか、どっかの女の人と仲良くしてるかもとか、心配にならないの?」
年頃の娘は、年頃らしく、どうやら父親達の仲を心配してくれているようだった。特異な環境で育てられたというのに、まるで反面教師のように育っている娘を、快斗はこの上もなく自慢に思っている。この可愛らしさは、まるで高校時代の自分を見ているかのようだ。
「まあ、別に一々新一にメールする用事なんてないしねぇ。送ったところで返事が返ってこないのはわかりきってるし。浮気ったって、あんなワーカーホリックな人が、自らほいほいどっかの女性に手ぇ出すとも思えねーし」
「でも、お父さんモテるんだから。この間三者面談に来てくれた時だってね、他のクラスのお母さんとかも、みんなお父さんを見て騒いでたもん」
「おやおや」
高校生の母親世代ともなれば、もうそれなりにいい年をしているだろうに。
けれど思えば、工藤新一というのは、昔から年上の女性受けをする男なのだ。それは年を重ねても変わっていないということか。
「パパが油断してると、お父さん、どっかの女の人と仲良くしちゃうかもしれないわよ」
どうやら娘は、本気でそれを心配しているようだった。よほどその三者面談時のインパクトが大きかったのか、あるいは何やら不遜な話でも耳にしたのか。
「うーん、浮気ねぇ」
しかし快斗には、新一がそんな行為に及ぶとは到底思えなかった。それだけ信頼していると言えば聞こえはいいが、そこまで要領のいい男だとは思っていない。それだけのことだ。
「もっとパパ、お父さんの心を掴まないと」
「いやいや、娘にそんなことを言われるようになるとは……でもねぇ、あの人そこまで器用な男じゃないよ。夢中になるのは仕事だけって言っても過言じゃないし。その上どっかの女性と……なんて、土台無理な話っていうかねぇ」
「でも、他の女の人にきゃあきゃあ言われてるの見るの、パパだって嫌でしょ?」
「んー、まぁいい気持ちはしないけど、別にそのぐらいならね。万が一にあわよくば、なんてことがあっても、サクだってそうだけど、何より哀ちゃんが真っ先に気づきそうだしなぁ」
目敏いのは、何も探偵だけの専売特許ではない。こと恋愛に関しての、女性の勘というのは恐ろしいものがあると、快斗はよく知っている。
「私と……哀ちゃん?」
「そ。哀ちゃんの目は誤魔化せないからねぇ」
にこにこと笑って言えば、厄介な会話もここでひとまず終了だろうと思われた。
けれど、年頃の女の子の思考回路は、やはり男には理解ができない。難しい顔をしたかと思えば、娘は「あのね」と重たげな口を開いた。
「こんなことね、哀ちゃんに言うと、怒られるんだけど」
「うん?」
それは珍しい。
隣家の女性化学者に、娘はこの上もなく懐いている。今や年の離れた姉代わりのような存在だ。思春期の女の子の心理を完璧に理解することは何分父親には難しく、その辺りでも大変お世話になっている。新一だけでなく、快斗だって頭が上がらない。
「私が言ったって、哀ちゃんに言わない? お父さんにも言わない?」
「言わないよ」
「……パパだけに言うんだからね」
パパだけに。
その言葉の、何て甘美なことか。
思わず緩みそうになる頬を、引き締めるのは難しかった。だが、ここで下手ににやけたりなどすれば、娘はとたんに「パパってば!」と怒りだすことはわかっていたから、精一杯のポーカーフェイスを被り続けた。
「……あのね、お父さんて、昔哀ちゃんと恋人だったの?」
「ぶっ」
飲んでいたココアを、思わず吹き出してしまった。
「パパってば!」
「ご、ごめんごめん」
ポーカーフェイスは被り続けたが、結局娘には怒られてしまった。
「えぇと、何でそんなこと思ったの?」
布巾で汚したテーブルを拭きながら尋ねれば、娘は難しい顔のままに唇を開いた。
「だってお父さんと哀ちゃんって、友達って雰囲気じゃないもん。哀ちゃんの方がずっと年下なのに、お父さんと対等か、年上みたいな感じで」
「年上……」
そんな感じではなく、まさしくその通りなのだと、言うことができたらどれだけいいことだろうか。
自分に似たのか、あらゆる場面で柔軟性の高い娘だが、それでも話せる内容とそうでない内容というのはある。―――まさか自分の父親が、高校生の頃、謎の組織に怪しい薬を飲まされ、小学生の姿になってしまっていただなんて、聞かされたところで到底信じられるものではないのだから。一体どこのおとぎ話だ。
「それに、蘭おばさんや園子おばさんといる時とは、お父さんの態度が何か違うんだもん。哀ちゃんだけ特別って感じで」
「いやはや、そこに気付くとは」
まったく驚きだ。女の子はどうしてこうも敏いのだろうか。これだから、いつまでも子供扱いなんてできないのだ。
「やっぱり? 哀ちゃんて、お父さんにとって特別なの?」
「まあ特別って言えば特別だろうね。ある意味あの二人って、運命共同体みたいな感じだから」
「……恋人同士だったってこと?」
「それがどっこい、簡単にそうはならないんだよね。そうだったって言う方が、サクは納得するんだろうけど」
ただの友人ではなく仲間でもなく、恐らくはそれ以上の信頼感や安心感があったのだろうと快斗は推測する。けれど、所謂男女の関係にはならなかった。あの当時、新一の心を占めていたのは幼馴染の存在だったろうし、結局その初恋が淡い想いのまま消えてしまった後も、隣家の少女に向かうことはなかった。
もし何か。
たった一つでも、ピースがかけ間違っていたら。
あるいはそんな未来も、十分に存在しえる未来だったのかもしれないけれど。
「恋人じゃなかったし、ただの友達でも親友なんて間柄でもないだろうし、もちろん単なるお隣さんなんかじゃないし、でもあの二人にしかわからないことっていうのは感じ取れない空気っていうのは色々あって、共闘した相手っていうのかな」
「キョウトウ?」
「一歩間違えたら、恋人になっててもおかしくない二人ではあるから、サクはそんな風に思うんだろうね」
そう言っても、まだ娘は不思議そうに―――いや、納得のいかない様子で首を傾げている。
何と説明すればいいのか、こんなに悩むこともないだろう。あの男が、うっかり子供になどなってしまうから悪いのだ。この場にはいない諸悪の根源に、えぇいっと快斗は胸中だけで毒づいた。
「うーん、つまりね、お父さんは高校生の頃、いやまぁそれを言ったら今もなんだけど、ちょっと厄介な事件に巻き込まれちゃってね」
「それに哀ちゃんも関わってたってこと? お父さんのことを助けてあげたの?」
「助けて……まぁそうだね。お互いに、厄介な組織に目を付けられちゃったっていうかね。その時お父さんと同じ立場なのは哀ちゃんだけで、事件に関することをそう周りに話すわけにもいかないから、お父さんにとっては哀ちゃんが特別だし、哀ちゃんにとってもお父さんが特別なんだよ」
「……パパだって、お父さんのこと助けてあげたんでしょ?」
そうに違いないと言うよりかは、そうであって欲しいと言いたげな表情であった。あの子はころころ表情が変わるから面白いといつだったか新一に言えば、「そんなところはおまえに似たんだな」と言われたことを思い出す。なるほど、こういう様を指していたのかと、今更ながらに納得する気持ちだった。
「いやー、その頃は、逆にお父さんを困らせてたかもねー」
「困らせて……? パパ、何してたの?」
「まあ、人様に言えないことを色々と?」
新一が子供になっていたのと同様、自分が怪盗だったことも、娘にはトップシークレットとなっている。
だが、いつか娘には自分の過去を話そうと思っているため、時たまどうしても口は緩くなる。話す理由なんて単純で、だって父親も最後の最期で快斗にそれを告げてくれていた。だから自分もそうするのだと、その行為の是非を疑ったことはなかった。そういうものだとしか思わなかったのだ。
「……その頃から、お父さんのこと困らせてたの?」
「いやぁ」
「あれ。でも、お父さんとパパが出会ったのって、お父さんが大学生の頃じゃなかった? 高校生の頃に出会ってたの?」
うっかり口を滑らせてしまった所為で、そんな矛盾が発生してしまった。
怪盗として出会ったのは高校生の頃だが、怪盗を引退し、黒羽快斗として出会ったのは二十歳の頃だった。そんな矛盾を、今ここで上手く説明できる自信は無かった。娘を前にしていると、どうにも上手くポーカーフェイスをかぶることができないのだ。
弱味だからだろうと、快斗はそう思っている。
子供、それも娘だなんて、父親にとってはその存在だけで大きな弱味だ。だから可愛くおねだりをされるだけで、はいはいと財布を開いてしまう。どうしようもない。
「んー、その辺りは、またの機会にお尋ねくださーい」
笑顔で鳩を飛ばして誤魔化そうとしたが、そんなことで誤魔化されてくれる娘ではない。
「パパってば! そこまで話してくれたのにずるい!」
「えぇー、だって勝手に話すと工藤さんが怒るもん! 帰国した早々怒らせたくないしー」
「何で出会った話を聞くだけで、お父さんが怒るの?」
「オレとの大事な思い出だから?」
適当なことを言ったつもりだったが、娘は意外にも、「……だったら仕方ないね」と納得してしまった。それはそれで居心地が悪い。と言うよりも、この年になって恥ずかしい。
「え、いや、サクー? あのね、今のは冗談で、別に本気で言ったつもりじゃ……」
「お父さん、パパのこと大好きだもんね。パパ知ってた? お父さんね、パパの帰ってくる日がわかると、すごく機嫌良くなってるんだよ。ぱっと見にはわからないんだけど、それまではいくら私が脱いだ靴下そのままにしないでって言ってもそれで終わりなのに、パパが帰ってくるってわかると、鼻歌うたいながら靴下片付けてくんだもん」
「うわぁ」
そう聞いて、まず思うことは一つだった。
「お父さんの鼻歌どう? ちょっとは聞けるものになってる?」
「全然なってないけど、普通に歌われるよりかはまだマシ」
「なるほど」
高校生探偵として名を馳せていた頃から音痴だとは聞いているが、年を重ねてもその辺りは改善されないらしい。学生時代とは違い、そうカラオケに行くこともないだろうから、音痴でもさして問題はないのかもしれない。
「そっか。哀ちゃんが来るってなると、お父さんちょっと変な顔するけど、パパが帰ってくるってなると嬉しそうだから、やっぱりお父さんのお嫁さんはパパなんだね」
「そうそう、嬉しそうにしてくれるからパパがお嫁さん……お嫁さん?」
聞き間違いならぬ読み間違いかと思ったが、納得したように晴れやかな顔で、娘は「そっかそっかぁ」と立ち上がりキッチンに向かってしまった。
だから残された快斗は一人、微妙な面持ちで少し冷めたココアをすするしかなかった。
「……えー、オレ、男なんですけどー」
新一相手ならともかく、娘にまで嫁認定されてしまうとは。
一体どこが男として悪かったのだろうと、幾ら真剣に考えても、答えなんて当然わかるはずもないのだ。