Dear,my brother
 例えば二人で夕食を囲んでいる時に、こんな一幕があるのはどうなのだろうか。
「快斗、口にソースがついてますよ」
「んあ?」
 今日の夕食は、兄が腕を揮ったトマトソースの煮込みハンバーグだった。キノコの旨みがたっぷりと広がったソースに、肉汁の溢れるハンバーグを絡めて食べるのが何とも言えない。
 舌鼓を打ちながらそんなハンバーグを楽しんでいたのだが、たっぷりと絡めたソースがそのまま口の端にもついてしまったらしい。
「どこ?」
「この辺りに」
 兄が自身の口元を指差す。鏡よろしくそれを頼りに手の甲で拭うが、兄はふるふると首を横に振るばかりだ。
「まだついてます」
「えー、もういいよ。後でどうせ口拭くし」
「またあなたはそんな……」
 面倒になって言った快斗に、兄は呆れたように肩をすくめて見せた。
 その腕がふと伸びる。代わりに拭ってくれるのかと手を止めて待っていれば、近づいてきたのは顔だけではなかった。
 ぺろりと舐め取られたのは、頬と呼ぶにはずいぶんと唇に近過ぎる、そんな場所で。
「はい、キレイになりましたよ」
「……は」
「まったく、だれもあなたの分を取ったりしないんですから、もっとゆっくり食べたらどうなんです? 好物を前にすると早食いになる癖は、昔から変わらないんですからねぇ」
「……ンなことはどうでもいいだろ!」
 何をされたのかを理解して、もう一度慌てて快斗は手の甲で唇を拭った。ごしごしと勢い良く拭う快斗に、兄はどこか不思議そうな眼差しを向けてくる。
「何で! 普通にティッシュで拭いてくれねぇんだよ! あ、あんな、舐め取るとかって、なに考えて……っ」
「兄弟なんですから、そのぐらい普通ですよ」
「どこが!? どの世界で普通なわけ!? おまえの頭の中だけの話じゃねーか!」
「そんなに恥ずかしがらなくても、だれも見てないんですから……」
「どこが! オレのどこが! 恥ずかしがってるように見えるんだよ!?」
 どうにも兄の頭の中はお花畑だ。そのお花畑を垣間見る度に、快斗はどうしようもない気持ちを覚える。幸せなのはいいことだが、そこに自分を巻き込まないでもらいたい。
「あぁもう、おまえの中で普通だろうが何だろうが構わないけどな、そこにオレを含めるんじゃねーよ! 恥ずかしい真似は一人でしてろ!」
「と言うと?」
「弟にキスすんなっつーの!」
「ほう」
 わざとらしい声音だった。
 ワイングラスを傾けながら、これまたわざとらしい笑みを向けてくる。こんな笑顔に引っかかる女の気がしれないと、弟の立ち場からすれば思えてたまらない、そんな笑い方だった。
「……な、何だよ」
「つまり快斗は、先ほどのあれを『キス』にカウントすると、そういうわけですね?」
「は」
「いやぁ、私の弟は可愛いですねえ」
 高校二年の快斗に、まともな恋愛経験は一つもない。
 当然どこかの女の子と、キスを交わした経験もなければ、当分その予定もない。
 そんなことは兄も当然知っているだろうが、それにしたってこんなあから様に馬鹿にされたのは初めてだ。
「うっせーな、ほっとけ!」
 どうせ自分は兄とは違ってモテはしない。そんな八つ当たりも込めて蹴りを放ってやれば、絶妙なタイミングで兄は立ち上がってしまった。目標を失った足は、そのまま椅子にぶち当たる。
「……っ」
「快斗、椅子を壊さないで下さいね」
 壊してやりたいと半ば本気で思ったが、その為に足を痛めるのは本意ではない。
 しぶしぶフォークを握り直し、ハンバーグを口いっぱいに頬張った。味に文句の一つもつけられればいいのだが、どれだけ噛み締めたところで浮かばないのだから仕方ない。一流のマジシャンは、その器用さでもって料理の腕前もまた一流になるものなのだろうか。
 席を立った兄は、次のワインを取りに行っていたらしい。コルクを抜き、グラスにとぽとぽと注いで行く。まだ高校生の快斗のグラスに注いであるのは、いつもと変わらぬ麦茶だった。
「機嫌を治して下さい、快斗」
 馬鹿にした本人がそう言うか。
 今すぐ彼女が欲しいとは思わないが、それでもこの年で恋愛経験が一つもないことを、気にしていないわけではないのだ。友人に彼女ができたと知れば、ごく自然といいなと思う。快斗だってそうした年頃なのだ。
「すみません、ついあなたの反応が可愛らしくて。からかってしまっただけなんですよ」
 当分口などきいてやるものか。
 いつもいつも、兄にはいいようにからかわれているばかりなのだ。悪気があってのことではないとわかってはいるが、それでもいい気はしない。少しは懲りた方がいいのだ、この男は。
「まだ怒ってますか?」
 そりゃあもうお怒りだ。
 言葉には出さず、無言という形でもって快斗は返す。食べることだけに集中していれば、ハンバーグはあっという間になくなった。残りのソースは、千切ったフランスパンにたっぷりつけて口へと運ぶ。
「今晩のデザートに、いつもの店でケーキを買ってきたんですけど」
 ぴくりと、思わず眉が動いてしまった。
 いつもの店というのは、兄の気に入りの洋菓子店だ。品数は少ないが、そこのチョコレートケーキは絶品で、ことあるごとに快斗はそのケーキをねだっている。
「あなたが喜んでくれるかと思っていたんですけど、この様子では
食べたくないですよね? 残念ですねぇ、まあ私もケーキは大好きですから、何日かかけて一人で食べることに……」
「……オレも食べる」
「おや、食べてくれますか?」
「まだ腹いっぱいじゃないし」
 無言の仕返しも、五分と持たなかった。いつもこうだ。いい加減に少しは、自分も学習すべきなのかもしれないと快斗は後悔する。けれど仕方ない、甘い物に勝てるはずがないのだ。それが好物のチョコレートケーキともなれば。
「良かった。せっかく会いに来てくれたというのに、あなたと話ができないのは辛いですからね」
「別にキッドに会いに来たわけじゃなくて、ただ単に千影さんが温泉旅行に行ってるから……」
「えぇ、それはわかってますよ。誘いをかけたのも私からですしね。せっかく千影さんが留守なんていうこの機会を、私が逃すわけないでしょう?」
 一体何の機会だというのだ。
 二週間ほど前にも、誘われて外で食事を食べた。せっかくの一人暮らしをしているのだ、弟と会う機会なんて、一月に一度でも多いというものではないのだろうか。
「……こんな頻繁に弟に会って、楽しい?」
 思わず真顔で尋ねた快斗に、兄は軽く目を見開いた。
「いつ私が、あなたと頻繁に会いましたか?」
「え、だってこの間も焼き肉食いに連れてってくれて……」
「もう二週間も前の話じゃないですか」
「いやだから、二週間前に会ったんならいいだろって」
「二週間ですよ? 十四日ですよ? 二万百六十分も、あなたと会っていなかったんですよ? その間私がどれだけあなたに会いたかったかわかりますか?」
「…………あ、ごめんわかんない」
 素直に快斗は謝った。
 年中頭の中にはお花畑が広がっているのかと思いきや、突然ブリザードが吹き荒れたかのような勢いで、真剣な顔を向けてくるのだからわからない。兄が何を考えているのか、快斗にはいつだってわからないことばかりだ。
「それに、例え三百六十五日、二十四時間あなたと一緒にいたところで、十分すぎるなんてことはありませんからね」
 今時ドラマでも使われないだろう台詞だ。
 けれどそれを兄が言っているとなると、何だかあまり冗談には聞こえないのだから恐ろしい。そんなわけはないとは思うのだが、兄のポーカーフェイスはどうにも読めない。父のそれと匹敵すると快斗は思う。
「いや、まず二十四時間一緒とかねぇけどさ。いくら休みの日でも、風呂とかトイレとか行くし」
 とりあえず現実的な返答を返した快斗に、兄は「あぁ」と小さく頷いて見せた。
「それはそうですし、さすがの私もトイレまで付いて行こうとは思いませんけど……あぁでも、お風呂なら一緒に入れますよね。快斗、久しぶりに一緒に入りませんか?」
「あはは。その冗談笑えねー」
「え、私が冗談で言うと思いますか?」
 真顔で返され、快斗もまた釣られて真顔になる。
 そうして見つめ合うこと数秒、今度こそ勢い良く放った右足は、見事兄の足に命中したようだった。思い切り呻く姿を見ながらに、快斗はずずっと麦茶をすすった。
 度を超すブラコン野郎には、このぐらいでちょうどいいのだ。
[14.07.17]
14.08.24発行 A5/オンデマ/44P/\500
表紙はヒカルさんに描いて頂きました