同棲生活


 改めて、オレは新居へと足を踏み入れた。
 これからオレと新一が暮らし出す、まさにここが愛の巣だ。まあそんなことは恥ずかしいからとても口には出せないけれど。築二十年超えのアパートも、隣に恋人がいると思えばとたんに輝いて見えるものだ。
「こうやって見ると、けっこういいアパートだよな」
「あんな豪邸に住んでた奴が、なに言ってんだよ」
「バーロ。無駄に広い家に一人で住むよりも、好きな奴と一緒に暮らすアパートのがいいに決まってんだろ」
「新一……!」
 いつもなら多少照れ臭く思うような台詞も、引っ越し初日でテンションが上がっているからだろうか、今のオレには嬉しくて嬉しくてたまらない。
「ここが今日からオレ達の愛の巣だぜ」
 オレが恥ずかしくて到底口に出せなかった台詞を、さらりと言ってしまえる辺りがさすがの名探偵だ。
「嬉しい、ダーリン!」
 テンションの高いまま、オレはとりあえずその言葉に乗ってみる。工藤も嬉しそうに頷き、そのままオレにちゅっちゅちゅっちゅとキスをしてきた。オレもますます嬉しくなって、ちゅっちゅちゅっちゅと工藤からのキスに返してみた。こんな暖かな春の日に、恋人が傍にいてキスをせずにいる理由がない。
「これから幸せになろうな、黒羽」
「もちろん! オレのこと幸せにしてね!」
「それこそ当たり前に決まってるだろ」
 工藤は恥ずかしそうに、けれど自信に溢れた顔で答える。この、いつだって自信に満ちているところは、時たま鬱陶しい半面オレの好きな工藤の一面だ。
これでこそ工藤だよなぁと、オレは無意味に嬉しくてなってしまう。にこにこが止まらない。ついでに言えばキスも止まらない。
「……自分らな、玄関先で何やっとんねん!」
 怒鳴り声が飛んできた。
 見れば重そうな段ボール箱を抱えて、服部が玄関先に立っていた。慌ててオレはその段ボールを受け取る。重さからして、この中身は工藤の本だろうか。
「何やってるも何も、恋人同士が新居に喜んで幸せを実感することの何が悪いんだよ」
「じゃかあしい! 自分ら少しは状況を考えたらどうなんや! 頼むからな、そないなことはオレが帰ってからにしてくれって……」
「あぁ、一人身のおまえの前で、恋人といちゃつくのは悪かったよ。そうだよな、おまえ何だかんだ言って大学入ってからずっと一人身だもんな。うん、悪かったって」
「余計なお世話やっちゅーねん! オレはやな! ただ、男同士の……それもよりによって、親友と友人のそないな場面は見たくないっちゅーことを言いたいんやってな……!」
 後ろから聞こえてくる、服部の言い分は、まあ尤もと言えるだろう。
 普通は男同士のあれやこれやに、耐性など無くて当然だ。オレだってこうして現に工藤とお付き合いなるものをしているけれど、他人のそれには偏見がある。何を勝手なと思うかもしれないが、オレは男が好きなのではない。工藤が好きなのだ。工藤が工藤なら、女であっても同じように好きになっていた。ただそれだけのことだ。何だかいますごく深くていいことを言った気がする。
 そんな中で、オレらが恋人的なお付き合いなるものを始めても、変わらず友人として付き合い続けてくれる服部のような存在はありがたい。今日だって、「人手足りねぇから服部でも呼ぶか」の工藤の電話一つで、ここまで駆け付けてくれるのだから。何て優しい男だろうか。
「ほらほら、工藤も荷物取ってこいって。おまえの本が一番多いんだからなー」
「わあってるよ」
 そんな心優しき友人を助けるためにも、工藤の背をほれほれと押した。オレは先に運び入れてあった段ボールを開封することにする。このままでは部屋が埋まりそうだ。
 とは言っても、言った通り嵩張る荷物のほとんどは工藤の本であって、そこはオレでは手出しができない。ただ本棚に突っ込んでいいのなら簡単だが、工藤のことだ、並べる順にも色々とこだわりがありそうで。
「んー」
 少し悩んでから、まずは服をタンスに入れることから始め出した。とりあえず今着る服を、ある程度しまっておけばいいだろう。服と違って、この辺りに工藤は恐らくこだわりは無いはずだ。そう決めた。
「なあ黒羽。割れ物注意の箱って、これしか見いひんのやけど?」
 箱を抱えて、再び服部が戻って来た。軽トラと二階のこの部屋まで、もう何往復もしているからだろう、春先だというのにしっかりと汗をかいている。
「あー、食器類入ってるのってそれだけだから」
「は? 一箱だけかいな」
「え? 二人暮らしなんだからそんなもんじゃね?」
「オレは一人暮らしやけどな、引っ越しの際にはもう少し荷物はあったで」
 そんなものだろうか。
 男同士だから、荷物は少ないものだと思いこんでいた。まあ、工藤の本やらオレのマジック用品やらは別として。
「でもなぁ。お互いにあんま料理もしねぇしなあ」
「これから二人で暮らすんやろ。料理の一つもしないでどうするっちゅーねん」
「いや、するけど? 工藤はともかくオレは手先も器用だから? する必要があったらするけどさ。でもほら、工藤って急に呼び出されて出かけることが多いからさー。せっかく料理作って食べてもらえないのとか嫌だし」
「あー、そればっかりはなぁ……」
 同じ探偵だから、下手に弁護もできないのだろう。
「事件やからしゃあないことなんやけどな。さすがに、お好み焼きが焼き上がった瞬間に飛び出てかれた時には、オレも腹が立ったの何のって」
「え? お好み焼き? 服部が焼いたの?」
「そうや。実家から色々と送られたきたさかい、工藤にも食わしてやろ思てな。人がせっかく食材抱えて作りに行ってやったっちゅーのに、あいつはすぐさま飛び出してもうたから、オレはしょーもなしに工藤んちで一人で焼いたお好み焼き食べたっちゅーねん」
「何だよー。オレを呼んでくれたらすっ飛んでったのにー」
 服部の粉物料理は文句無しに美味い。まあ他の料理を食べたことがないのだが。その辺りはさすがは大阪人と言えるのだろうか。
「なあなあ、今度作りに来てくれよ。材料こっちで用意するからさ」
「おお。いつでもええで。暇な時呼んでぇや」
「やったー!」
「やけどなぁ……」
 喜ぶオレとは反対に、服部は浮かない顔で辺りを見回す。
「……この部屋、ほんまに何も無いやんけ」
「いやいや。ここに詰んである段ボール箱が目に入りませんか」
「どうせ工藤の本やろって。そうやなくてな」
 息をもらし、汗を拭いながらに、服部は部屋の反対側を向いた。玄関を入って真っ直ぐのそこは、キッチン兼ダイニングとなっている。
「冷蔵庫はどこや」
「んー、後で買う」
「電子レンジは?」
「そのうち買う」
「ポットは?」
「それもそのうち」
「オーブンは?」
「必要だったら買う」
「……何も用意してないんか、自分ら!」
 そんなことを言われても。
 いざ生活を始めなければ、何が必要かなんてわからないではないか。まあ冷蔵庫が必要なことはわかっていたけれど。
「何でこないな何もない部屋なのに、コーヒーメーカーだけが置いてあるんや! あんたらの基準がまるでわからんわ!」
「ンなのに、工藤がコーヒー好きだからに決まってるだろ? 朝はあいつコーヒー飲んでからじゃねぇとろくに動かねえし」
「知るかボケえ!」
「あ、うんうん。こんなこと、恋人であるオレが知ってればいいことなんだけど」
 ついつい調子に乗って服部にまで教えてしまった。
 いかんなぁと思っていると、そんなオレの目の前で、服部はため息をもらしていた。どうやらすっかり疲れをため込んでしまっているらしい。
「あのな、服部。そんな電化製品なんか無くてもな、オレにはとりあえず工藤さえいればそれでいいんだって」
 とりあえず笑わしてやろうかと、冗談を飛ばしたオレに、返ってきたのは先ほどよりも深いため息だった。何でだおい。
「オメーらだけ、なに休憩に入ってんだよ」
 箱を抱えて戻って来た工藤が、床に座り込んだオレ達を見て、不機嫌そうにそう言った。何往復しても終わらないのは、それは偏に工藤の持ちこんだ本が多いからなのだが。
「服部がさぁ、オレらの部屋、何も電化製品が無いって」
「ンなの後で買えばいい話だろ」
「なら何でコーヒーメーカーだけしっかりあるんや!」
「一息つく時には飲みたいだろ」
 そのコーヒーメーカーにはオレも見覚えがある。工藤家に置いてあった物だ。
 工藤夫妻は今も海外暮らしをしているから、息子がコーヒーメーカー一つぐらい持って行ったところで、恐らく気にはしないことだろう。さすがに帰国した際に、冷蔵庫やら何やらが無くなっていれば話は別だろうが。
「コーヒーの前に、もっと気にすることがあるやろ!」
 工藤に向かって怒鳴る服部を見て、まるで母親みたいだなぁとオレは思う。
 オレが工藤と同棲を始めると言った時には、うちのお袋は何も言わなかった。あら良かったわね、工藤君に迷惑かけないのよ、なんて、その程度のものだった。
 けれどいざ引っ越しの準備を始めれば、これがとたんにうるさくなるのだ。これ持って行きなさいあれ持っていきなさい、あんたああしなさいよこうしなさいよ、これはいらないんじゃないの何でこんなもの持ってくのよ工藤君にも迷惑でしょ? ほらさっさと準備しなさい漫画なんていらないでしょ! ―――思い出しても頭が痛い。工藤家の放任主義な親が羨ましく思えた瞬間だった。
「オレだってな、その辺りはちゃんと考えてるんだよ」
 汗を拭いながらに工藤は言う。同じ仕草でも、服部がする分には何も思わないというのに、相手が工藤になるととたんにこれだ。かっこよくて仕方ない。かっこよすぎて嫌になる。
 ポーカーフェイスの裏で、オレがそんなことを思っているなんて、もちろん二人は気づかないのだろう。それでいい。
「考えてるって何をや。ずいぶんと自信に満ちた顔やないか」
「当然だろ?」
 そうした自信に満ちた顔も、文句なしにかっこいい。オレは内心でめろめろになっていた。めろめろ状態を、押し隠すことに必死になっていた。
 と、トラックの止まった音がする。すかさず、工藤が立ち上がった。
「何や?」
 オレに向かって尋ねられたところでわからない。冷蔵庫も電子レンジもポットもオーブンも何も用意してないわけであって。
 オレと服部を取り残して、でかい荷物が運ばれてくる。工藤は愛想よく宅配のおっちゃんの相手をして、そうして財布から金を取り出した。どうやら代引の荷物だったらしい。
「工藤。何だよそれ」
 おっちゃんが去って行ってから、オレもまた玄関へと近づいた。でかい段ボール箱がまた増えたものだ。おかげで辺りの圧迫感がたまらない。
 振り返って、オレを見上げながらに工藤は微笑んだ。
「大事な荷物が届いたんだよ」
「大事そうなのは見りゃわかるけど」
 何せ工藤の機嫌が良さそうなのだ。重たい荷物を散々運んで疲れただろうに、けれどにこにことその箱を抱えようとしている。
「だから、何が届いたんだよ?」
「決まってるだろ?」
 尋ねたオレに、工藤は口元の笑みを深めて答えた。
「オレらの生活に一番必要な物だよ。―――オレらのベッドに決まってるじゃねぇか」
 冷蔵庫よりも電子レンジよりもポットよりもオーブンよりも、そうだ、その存在を忘れていた。オレは一体、今日どこで寝る気でいたのだろうか。
「新一っ!」
「ちゃんとダブルサイズのを買ったんだぜ。オレの部屋のベッド、いつもおまえが狭いって言ってたからな」
「うわああああん、好き好きっ! 新一大好き! 最高!」
「おまえがオレを好きなことなんて、わかってるっつーの」
 そんなことを言いながらも、嬉しそうな顔をしているのだから、まったく。
 いつの間にか、新一は荷物を足元に置いていた。代わりにオレの腰を持っている。だから当然のようにオレ達は唇を重ねた。ちゅっちゅちゅっちゅとキスをした。オレ達のベッドかあと思えば、もう幾らでも笑いなんて込み上げてきてたまらない。
「……組み立てるのがちょっとばかし面倒だけどな」
 工藤にしてみればそうなのだろうか。
 ベッドと聞けば、届いた箱はずいぶんと小さいように思えたが、そうか組み立て式だからなのか。そもそもベッドなんて、そうでなければ部屋に運び込めない物かもしれない。
「えー、オレそういうの好きだから全然いいけど。楽しいじゃん」
「そうか? 面倒じゃねぇ?」
「何で? 自分たちで組み立ててさぁ、そんで自分たちで寝るのって特別な気がするけど」
 もちろん新一のベッドで寝ることが嫌だったというわけではなくて。
 ただ、これからは正真正銘二人だけの生活が始まるのだなと思えば、それはまた格別だなと思いを新たにするわけであって。
「……まあ、そうかもな」
 照れ臭そうに工藤は微笑む。「でしょー?」とオレもそんな工藤を見て笑う。思わず首筋に顔を寄せれば、「おい、汗臭いって」と慌てたように工藤は言う。そんなことは今更だと思わないのだろうか。オレはけっこう、そうした工藤の匂いも好きなのだけれど。
「嬉しいなぁ。こうやってさ、おまえとの毎日が積み重なってくのって。何かすごい特別な気がしてくる。すげぇ嬉しい」
「……バーロ」
 頭を軽く叩かれる。でもそれが、工藤の照れ隠しなのだとはわかっている。よっぽど自分の方が、散々恥ずかしい台詞を口にしているくせに。工藤の羞恥のポイントはいまだにオレにはよくわからない。
「オレだって同じぐらい嬉しいんだよ。……一人だけ幸せ感じてるみたいな顔すんな」
「……新一っ」
 オレは今、とてつもなく幸せだ。
 その幸せを、恋人が同じように感じているのだとしたら、それは何て嬉しいことだろうか。嬉しすぎてポーカーフェイスも剥がれ落ちそうだ。いや、とっくにそうなっているのか。
 喜びのままに、オレ達はやっぱりちゅっちゅちゅっちゅとキスをする。今日だけでもう何回目のキスなのかもわからない。いや、何十回目か。
「……なあ、オレ、そろそろ帰ってもええか?」
 しばらくして、横から遠慮がちな声が飛ぶ。
 声をかけられるまで、オレ達は、すっかり服部の存在を忘れていたのだった。



 事の発端はこうだ。
 今日は久しぶりに工藤には何の予定もなく、オレ達はデートへと繰り出した。
 工藤と二人でのんびり出かけられるなんて、一体いつぶりのことだろう。思い返してみれば、二人で家電や何かを買いに行った時以来な気がした。一体何てことだろう。そりゃ、ちょっとコンビニに行ったりスーパーに米を買いに行ったり大学から一緒に帰ってきてというようなことはあったが、それらは断じてデートに属するものではないだろう。オレは認めん。
 久々のデートだから、オレはもちろん浮かれていた。いつ工藤の携帯に呼び出しがかかるかと、びくびくしながらもその反面で思い切り浮かれていた。とは言っても、オレらは人前で手を繋げるわけでもちゅっちゅちゅっちゅとできるわけでもない。法律で禁止されているわけではないが、オレらにも理性や常識というものがあるわけなのであって。
 傍目から見れば、友人同士がただ遊んでいるようにしか見えないのだろう。オレらは顔が似ているから、あるいは兄弟のようにすら思われているのかもしれない。でも、大事なのは周りからどう見られるかではなく、オレ達がどう思っているかだ。
「どこに行きたい?」
「えー、工藤と一緒ならどこででもー」
 玄関で思い切りちゅっちゅちゅっちゅと唇を重ねてから、オレらはアパートを出た。
 特別見たい映画があったわけでも欲しい物があったわけでもないが、とりあえず電車に乗って都心部へと向かう。
 土曜のちょっと都心の駅ビルなんて、見渡す限りカップルの姿ばっかりだ。それは少し言い過ぎかもわからないが、家族連れよりかは断然カップルの姿の方が目立つ。オレの目がことさら捉えているだけなのかもわからないが。隣を歩く工藤は、何も気にした顔なんてしていなかった。ただその視線がすいっと動く。
「本屋は無しー」
「……わあってるよ」
 視線を辿ってオレが言えば、工藤は苦笑を浮かべてそう答える。
 一度本屋に入れば、後はどうなるかなんて言うまでもないだろう。奇跡的に買い物が早く済んだとしても、買った本を読みたくてうずうずし出すに決まっているのだから。そうして工藤にうずうずされたら、オレはどれだけ今日のデートを楽しみにしていようが、結局「もう帰ろうか」と言ってしまうに違いないのだ。
 工藤はオレに甘いが、オレだって同じぐらいには工藤に甘い。恋人が大好物を前に「待て」をしている状況なんて、可哀相で見ていられないのだ。どうしようもない。
「今日はとくに新刊も出てないしな」
 その言葉を、オレは喜ぶべきなのかどうなのか。
 楽しみにしているシリーズの新刊でも出ていれば、工藤はきっとオレとのデートなど言い出さずに、開店直後の本屋に駆けこんでいたはずなのだ。そうわかって何とも言えない気持ちになる。紙っぺらに嫉妬なんてしたくないけれど。
「……帰りがけなら寄ってもいいぜ」
 精一杯の妥協だった。
 本当は帰ってからだっていちゃいちゃしたい。むしろ外でできない分、帰ってからが本番だとすら思っている。けれどオレは、何より工藤の喜ぶ顔が見たいのだ。オレが喜ぶ以上に、工藤が喜んでいる方が嬉しいのだ。恋人の喜びは即ちオレの喜びだ。何て哲学だろう。
「今日はいいって」
「何だよ、遠慮すんなよ。でかい本屋なら欲しい本があるんじゃねぇの?」
「本ぐらい、ネットで幾らでも買えるだろ」
「そうだけど」
 じゃあ何であんな顔をしたのだ。ネットで買えるとわかっていても、本屋と見れば習慣のように足を向けてしまうくせに。実はネットで本をクリックして買うよりも、実際に表紙を見て選んでそうして買う方が好きなくせに。オレは知っているのだ。
「今日はいいんだよ」
「工藤」
「……今日は、一日おまえと一緒にいるって決めてんだよ」
 わかれよ、と。
 ゆっくりとその唇が動いた。そうして腕が伸びてきた。
 頭を引き寄せて、そうしてキスをされるのだと思った。だからオレは焦った。だってここは駅ビルの中なのだ。辺りには人がうようよといるのだ。カップルだったりそうでなかったりする人達が。そんなど真ん中で。ど真ん中で。
「しん……っ」
「いつからゴミつけてたんだよ。おまえの頭は鳥の巣か?」
「は……」
 小さなシールのような物を手にして、工藤はにやにやと笑っていた。オレが勘違いをしたことなんて、全てお見通しだったのだろう。あるいは始めから、勘違いをさせることが目的だったのかもわからない。性格の悪い笑みだった。
「……工藤っ!」
「こんなとこでするかよ、バーロ」
「ンなの……!」
 オレだってわかっている。
 わかっているのにらしくもない勘違いをしたのは、それをオレが期待してしまった所為だ。
 だってデートなのだ。ふとした瞬間に交わすキスぐらい、だれだってしているものだろう。恋人相手なら当然のことだ。当たり前のように、みんなしていることなのだ。
「もうちょっと頭を使えよ」
「……うるせぇ」



「よしっと」
 いつもよりも少しばかり早く上がれた。
 外のゴミ箱にゴミ袋を入れて、オレはぱんぱんと手を叩く。
 翌日が休みの日でもない限り、ラストまでは入れないことが学生の辛いところだ。無理をすれば入れないこともないが、そうして単位を落としては意味がない。オレは真面目な学生なわけだからして。
「……あれ」
 ゴミを手放し歩きだしたオレの視界に、人影が映った。
「高遠さん? まだ帰ってなかったんですか?」
「あ、快斗君」
「早く帰らないとー。明日もお仕事なんじゃないですか?」
 数時間前に、また来て下さいねと見送った客の姿がそこにはあった。
 この辺りは、繁華街からは少し離れている。客引きの声は遠くから聞こえるというもので、けれどこの時間になれば、そんな声もここまでは届かない。
「飲み直してたんですか?」
「快斗君は、今上がったとこ? ずいぶん遅いんだね」
「明日休みなんで。たまにはラストまでと思いましてー」
 何となく、並んで駅までの道を歩き始める。二十代は後半辺りだろうか。いかにも人の良さそうな顔をしている、と言ったら失礼かもわからないけれど。中肉中背。顔は特別良くも悪くもなく。スーツ姿しか見たことがない辺りからして、いつも仕事帰りに店に寄っているのだろう。頻度が多いことからして、恐らく彼女もいないのだ。
「東都大生だっけ? すごいよなぁ。俺は逆立ちしても入れないよ」
「いやいや。立派にお仕事されてるじゃないですか」
「立派って言ってもなぁ。俺、君に何の仕事してるか言ったことあったっけ?」
「無いですけど。でも、うちの店にしょっちゅう通って来てくれるぐらいなんですから、けっこう稼いでらっしゃるんだなぁと?」
 半分は予想だが、半分は当てずっぽうだ。立派と言われて怒る人はいないだろう。
「いやあ、でもねえ、稼いだお金をほとんど飲みに使っちゃうからなあ、俺」
「えー、そうなんですか?」
 この時間まで飲んでいたのだ、さぞかし酔っているのだろうかと思いきや、隣を歩く高遠からはそこまで酒の匂いはしてこない。
 酒に強いのだろうか。そうなのかもしれない。強いカクテルを、割と何杯も飲んでいた気がする。見た目はこの上もなく平凡だが、オレはこの客のことをよく覚えていた。なぜなら。
「快斗君、明日休みなんだっけ」
「そうですけど」
「だったらさぁ、ちょっと飲みに行かない?」
 そうきたか、とオレは内心で呟いた。
 向けられる高遠の目は、やはりそこまで酔っているようには見えない。これが出来上がった酔っ払い相手であれば、まだその方があしらうのは楽だったりするのだけれど。
「いい店知ってるんだよ。だから、ね?」
「いやー、でもこの時間からって。もう始発動いてる時間だし」
「この時間をメインにさ、やってる店があるんだよ。居酒屋や何かで働いてる人達向けみたいなさ。快斗君、お腹減ってるだろ? そこの肉がまた美味いんだよ」
「肉……」
 それはちょっと惹かれる。
 途中で賄いに、今日はナポリタンを作ってもらったが、その程度で満たされるオレの胃袋ではない。バイトを上がる三時間も前から、帰ったら何を食べようかと思っていたぐらいだ。バイト上がりのコンビニ程、嬉しい時間は無いと言う物だ。
「霜降りのさ、またいい肉を出してくれるんだよ。普通に店に出すにはさ、ちょっと形が悪かったり小振りだったりするやつなんだけどさ。夕飯時には出せないそれを、こういう時間に安く出してくれるんだよね」
「えー……」
「快斗君、肉好きだろ?」
「……そりゃあまあ」
[13.04.26]
13.05.03発行/14.03.16完売 A5/120P/\1000