窓の外から聞こえる鳥の鳴き声と瞼の向こう側から僅かに感じる眩しい光。朝特有の凍てついた空気が布団から晒されている皮膚を刺激して、ぶるりと身震いした。体全身を分厚い毛布に覆われていようとも一度自覚した寒さはそう簡単に逃げるわけがない。首筋、手足の指先、果ては尻尾の先端まで冷たくなっていく感覚に眉を寄せる。傍らにあるはずの温もりを求めて生暖かい布団の中で尻尾を左右に動かしてみると自分と同じように彷徨っていた柔らかなものを見つけた。
快斗の尻尾だ。
そうと分かると漸く探り当てたそれを自分のもとへと引き寄せるようにして絡ませる。肌に馴染む温もりがより密着して暖かい。
「しんいち」
快斗がゴロリと寝返りを打つ気配がした。
寝ぼけたような声とすり寄ってくる快斗の体。少しでも間を開ければ冷たい空気が流れ込むから、オレは快斗に隙間なくぴったりとくっ付いた。
「うん?」
「もうそろそろおきなきゃ」
「うん」
「とうさんとゆうさくさん、へやにきちゃうよ」
「うん」
「あさごはんもあるし」
「うん。でもあったかいからもうちょっとこのまま」
触れているところからじわじわと広がる体温が気持ちよくて再び眠ってしまいそう。このままではいけないと分かっているのにこの心地よさからどうしても抜け出すことができない。
快斗も実のところ満更ではなさそうで、口ではそう言っていても一向に離れる気配はない。このままもう一回寝直そうか、と思ったとき。
「あ」
快斗の耳がピクリと揺れた。
なんだ、とオレも耳を澄ませてみるとトントントン、と小気味良く階段を上る音が聞こえた。聴力のよい自分達でさえ聞こえるかどうかのそれは間違いなくこの部屋に向かっている。きっと盗一さんがまだ起きてこないから心配して様子を見に来たのだろう。
コンコン、と控え目に鳴った小さなノック音。
「快斗、新一くん。そろそろ起きる時間だよ」
薄目を開けて見ると開かれた扉から顔を覗かせたのは予想していた通りの姿。シャキッとしたワイシャツと整った髪型は朝とは思えないほどちゃんとしていて、それが純粋にすごいと思った。でも今はそれとこれとは別。
「うーん」
「あと五ふん」
優しい声に起きようとしたけれど、結局上瞼と下瞼は離れてくれなくて、思わず二度寝の常套句が口に出た。少し離れた場所からくすりと笑う声がする。
「二人とも、寝るのは朝ごはんを食べてからにしなさい。今日はいい天気だ。庭で日向ぼっこでもしてくるといい」
「ひなたぼっこ」
「ううう、おきる」
元気に遊び回るのも好きだし、家で本を読んでいるのも好きだけれど、今一番好きなのは日向ぼっこ。
薄目を開けた先に盗一さんが窓の向こうを指していたので見てみると透き通るような空の青が見えた。
こんないい天気なのに日向ぼっこをしないなんて勿体ない。
快斗と顔を見合わせるとまだ寝ぼけた顔をしていたからぺちぺちと頬っぺたを叩いてやった。そうしたらたぶんオレも同じような顔をしていたのだろう。快斗に頬を叩かれたけれど本当に軽くだったから全然痛くない。それどころか眠気覚ましにもならなくて、どこかふわふわと思考が定まらないまま快斗と一緒にベッドから降りた。
隣で揺れる快斗の尻尾はあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、と忙しない。
「私はリビングで朝食の準備をしているから、服を着替えたら来なさい」
「はーい」
「わかった」
軽い足取りで部屋から出ていく盗一さんを見送っている間に、オレと快斗はもたもたと箪笥の近くまで歩き始めた。
とても眠い。
立ったままでも寝てしまいそうだったが、日向ぼっこという甘い誘惑に寝てはいられないと必死になって頭を振りかぶる。
盗一さんの姿が見えなくなってバタン、と扉が閉まる音を聞くとぺたりと床に座って寝る前に置いていた服を手に取った。
オレは青で快斗は紫。
色違いでお揃いの服はたくさんあるけれど、最近の特にお気に入りの服は体より少し大きめのパーカー。前面は無地という至ってシンプルなものだったが、背中の部分は猫の足跡のような柄がある。
買ったあと家で試しに着てみたときは思わず足跡をなぞる様に快斗と二人してお互いの背中をペタペタと触ったものだ。
とはいえ、お気に入りのその服でも一つだけ欠点があった。
「しんいち、だいじょうぶか?」
「んー、耳がぬ、ぬけない」
フードの付いている根元の部分。
頭を通すには十分な大きさがあるはずのその穴だったが、猫耳が邪魔をして上手く着ることができないのだ。寝起きで思考が正常に働いていないのも一つの要因となっているかもしれない。何度やっても上手くできないので無理やり着ようとすると今度は首元の布に耳が引っかかってとても痛い。
中身をこぼさないように袋を開け、一つまみずつ口へと入れる。ちょっとの鼻息でも、かつおぶしは軽く飛んでしまうから気を付けないといけない。
「んーっ」
かつおぶしは美味しい。けれど、なかなか袋ごと貰える機会は少ない。猫缶とどちらが美味しいかと聞かれれば、それは答えに迷うところだ。
しばらくの間はかつおぶしに夢中になっていたが、次はチョコレートを食べようと、銀紙を剥きながらに、また快斗のことを思い出した。快斗は猫でありながら、かつおぶしよりもチョコレートの方が好きだという、大層な変わり者なのだ。
「……快斗も食いたいよな」
新作マジックは我慢することができたが、何せチョコレートは目の前にある。かつおぶしの方が好きだと言っても、新一だって決してチョコレートが嫌いなわけではないのだ。むしろ好きだ。
「うーん」
駄目元で机の中に隠してみたが、すぐさままた引きだしを開けてしまった。あるとわかっているおやつを、我慢することは難しい。
落ちつかなげに尻尾が揺れる。
「快斗も一緒に食えればいいのにな」
そう独り言を漏らしながらに、新一ははっと気付いた。
そうだ、快斗にチョコレートを渡しに行けばいいのだ。どうしてそんな単純なことに、今まで気付かなかったのだろう。
「同じ家にいるんだし」
何も病院に入院しているわけでもない。会おうと思えば、それこそすぐに会える距離なのだ。
もちろん、会ってはいけないことはわかっている。だからこその『会えない時間』なのだが、もう三日も快斗の顔を見ていない。風邪を引いてはいないのだし、少しぐらいは構わないだろう。快斗だって、新一がこっそり部屋にやって来たとしても、それを優作や盗一にはばらさないはずだ。
「今が一番狙い時だよな。盗一さん、さっき快斗の部屋から食器を下げたばっかりだし」
そうとなれば、あとは早速向かうのみだ。
ポケットの中に無理やりチョコレートを突っ込んで、新一は部屋を出た。快斗の部屋はすぐ近くだが、そこで「待てよ」と考え込んだ。三角の耳がぴくぴくと動く。物音は聞こえないが、それでも念には念をという言葉がある。
ドアから出入りをするところを、万が一でも見られたら困る。それにもしかしたら、鍵がかかっているかもしれない。わからないが、確かめるよりもここは安全策を取った方が懸命だろう。そう考えて、新一は忍び足で玄関へと向かった。
庭に出て、ぐるりと快斗の部屋へと向かう。天気がいいからか、ちょうど小さく窓が開けられていた。中を覗きこむ。新一と同じ三角の耳と尻尾が見えた。数日ぶりに見た姿に、新一はほっと息をもらした。良かった、本当に快斗は元気なのだ。
「快斗」
小声で呼びかけながらに、新一は窓に手をかけた。するりと中に入り込むのと、驚いたように快斗が振り返ったのは同時だった。マジックの練習をしていたらしく、手元にはトランプが散らばっていた。
「新一っ? 何でここに……」
「いい物持ってきたんだ」
「ダメだよ、来たらダメだって言われてんだろ? 早く戻れって」
てっきり喜んでくれるとばかり思っていた快斗に、開口一番そんなことを言われて、新一は目を見開いた。
「……何だよ、それ」
小さい頃からずっと一緒で、遊ぶのも悪戯をするのも怒られるのも、常に快斗と一緒だった。身体が少し大きくなってからは、さすがに一緒のベッドで眠るようなことはなくなったが、それでも一番の親友で一番大好きな家族だと、新一はそう思っているのだ。
それなのに。
「ダメなんだって。まだダメなんだよ、オレ。新一に会ったらどうなるかわかんねぇし、だから……」
「何だよ。何なんだよ。ずっと快斗が部屋にこもってるから、もう三日も会ってねぇから、だからオレ……」
「戻れって、新一」
真っ直ぐに目を見て言われる。耳の先から尻尾の先にまで、何か冷たいものがびりびりと走って行く気がした。
快斗は笑ってなどいない。それどころか怒っているような顔をして、新一から視線を逸らしている。そんな快斗の顔を、向けられたことは初めてだった。喧嘩をした時だって、もっと違う顔をしていた。新一が間違えて、快斗の尻尾を思い切り噛んでしまった時だって。
「……快斗」
怒っているのだろうか。あるいは、新一のことが嫌いになったのだろうか。
一人はつまらないと、思っていたのは自分だけだったのだろうか。そんな風に考えると、心臓がぎゅっと痛くなった。
「……快斗は、オレに会いたくなかった?」
頷かれたら、一体どうすればいいのだろう。尋ねてから思ったが、そんなことは今更のことだった。
ふるふると、小さく快斗は頭を振った。
「……そんなわけねーだろ」
「だって、じゃあ!」
「だから! 今は会いたくても会えねぇんだって、何でわかんないんだよ……っ!」
怒鳴るように言って、快斗は散らばったトランプもそのままに、つかつかとベッドに向かって行った。そのまま毛布の中に潜って、新一から姿を隠してしまう気だとわかったから、そうはさせまいと新一は快斗の前に立ちふさがった。
「新一……っ」
とたんに快斗は顔を顰める。お腹が痛いのを、必死に堪えているような顔だと思った。どうして自分の顔を見て、そんな表情をするのかと、新一は何だか悲しくなった。
快斗が喜ぶと思っていたから、快斗に会いたかったから、だからここまで会いに来た、それだけだったのに。
「何でオレから逃げるんだよ!」
「逃げてねーよ! そうじゃなくて……っ!」
「逃げてんだろ!」
快斗の腕を無理やりに掴んだ。その瞬間、快斗がびくりと肩を震わせたことに、新一の方が驚いた程だった。
「おまえ……」
そういえば、顔がずいぶんと赤い。いや、徐々に赤くなっているのだろうか。
もしかしたら、熱でもあるのかもしれない。風邪ではないと優作も盗一も言っていたが、それは新一を安心させるための嘘だったのか。
「快斗、おまえ」
大丈夫なのかと、額に手を伸ばそうとした。触れる寸前に、その手首を快斗の手が掴んだ。
いつもよりも力が強い。少し痛い程だった。目を丸くさせる新一に、やはり快斗は辛そうな顔を浮かべていた。
「……大丈夫なのかよ?」
大人しくベッドに寝かせてやるべきなのかもしれない。そう新一は思ったが、腕を掴む快斗の力は緩まなかった。
「……いい匂いがする」
「え?」
[14.04.24]
14.05.04発行 A5/オフセ/60P/600
鹿野さん、木苺さんとの合同誌。