1.
そこに立っていたのは工藤新一だった。
間違いない。ここ最近メディアでその顔を見ることはなかったが、これだけの有名人の顔を見間違えるとは思えなかった。どうしてこんな所にと驚きながらも、それを顔に出さないよう努め、黒羽はそれなりの笑顔を浮かべた。
「どうも初めまして、黒羽といいます。今日隣に越してきたんで、挨拶にと思いまして」
「それはどうも、ご丁寧に」
今どき引越しの際、隣人への挨拶が必要なのかどうかはわからなかったが、何もせずにいるのは黒羽としてしっくりこなかった。もう何度か引越しを繰り返しているが、今のところ、好意的に挨拶を返されたのが半分、鬱陶しそうな顔をされたことが半分。タイミング的な物も大きいのかもしれない。相手がいつ忙しくしているかなんて、もちろん黒羽にはわからないことなのだから。
「あのこれ、つまらない物ですけど」
中身はただのフェイスタオルだ。謙遜でも何でもなく、これ以上につまらない物などはないだろう。それでも工藤新一は、その辺りのお約束など承知しているのだろう、にっこりと微笑んで右手を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
これは今まででトップクラスに好感覚な隣人だ。けれどその好感覚な隣人は、黒羽の差し出した薄っぺらい箱を、なかなか受け取ろうとはしない。
「あの」
やはりこの程度の物はいらないという、無言の意思表示だろうか。もし迷惑だというのなら、持ち帰っても構わないのだ。男の一人暮らしにそうフェイスタオルは必要な物ではないが、一枚増えたところで困りはしない。雑巾にしたっていい。
「すみません」
ずいっと、さらに工藤新一は右手を伸ばしてくる。疑問に思いながらも、黒羽はその手に箱を押し付けるようにして差し出した。しっかりと受け取られたことを確認して、思わず内心で安堵の息を漏らしてしまった。
「あぁ、いえいえ、ご迷惑でないのならいいんですけど」
「迷惑なんて。その、目が少し不自由で。見えなかったもので、こちらこそすみません」
「あ、そうなんですか」
目が。
あぁ、だから自分が差し出した箱の位置がわからなかったのかと、頭の片隅でぼんやりと考えた。
「何かわからないことがあったら遠慮なく聞いて下さい。とは言っても、オレが助けになれるかどうかはわかりませんけど」
挨拶は五分にも満たない時間の内に終わった。扉がしっかりと閉められ、施錠の音が聞こえたのを確認してから、黒羽もまた隣室へと戻った。部屋にはまだ幾つもの段ボールが残っているが、伊達に何度も引っ越しをしているわけではない。半日もあれば粗方片付けることはできるだろう。
それにしても、驚いたのは隣人だ。工藤なんて名字はありふれている。扉が開かれるまで、まさかそこに住んでいるのが、あの工藤新一だとは夢にも思わなかった。それも目が不自由になっているだなんて。
「……だからここ最近、テレビにも出てなかったのか」
理由は他にもあるのかもわからないが、とりあえず黒羽はそう納得した。そうして何とも言えない気持ちになった。毎日のようにテレビで名前を聞いていた有名人が、今はこんな小さなアパートでひっそりと暮らしているとは。栄光と衰退ではないが、それにも似たものを感じずにはいられなかった。
「まあいいけど」
他人のことを一々気にしていても仕方がない。とりあえずは荷物を片づけなければと、黒羽は目の前の段ボール箱に意識を移した。
久しぶりに東都に戻ろうかと、そう思った時にたまたま見つけたのがこのアパートだった。
築三十年の木造アパート。見た目はそれなりの物件だが、意外に水回りはきちんとリフォームがされている。ちょうど空いていた一階の部屋は小さいながらも庭付きで、防犯的な面が多少心配ではあったが、女性の一人暮らしではないのだ、どうとでもなるだろうと勢いで部屋を決めた。今のところ、黒羽はこの部屋での暮らしに満足している。
歩いて十分の所に大きなスーパーが一つあり、その間にコンビニ
もある。とりあえずその二つさえあれば問題はない。駅が多少遠かろうが、そんなことは黒羽の暮らしには関係がない。スーパーの品揃えにも満足していた。
仕事はまだ決まっていないが、当面食べて行くに困らないだけの蓄えならある。ゆっくり探せばいいだろう。何だったら、適当に日雇いの仕事をこなすのだって悪くはない。
「庭付きのアパートってのは初めてだな」
前の住人が出て行ってから、ろくに手入れもされていないのだろう。それとも、前の住人からして手入れなどしていなかったのかもしれない。窓の向こうに広がるそこは、まるで雑草の聖地とでも言うべき有様だった。
部屋の整理も終わっていないが、目についてしまったその荒れ様が気になって、ついつい腕まくりをした上に軍手などはめてしまった。庭がキレイになれば、その分やる気も増すというものだろう。きっと。
猫の額程の庭といえど、その一面に生えた雑草を全て引っこ抜くとなれば、思いの外時間がかかった。最初は多少肌寒さを感じたものの、その内ちょうどいいと思えるようになり、最後の方には汗までかいていた。
「……こりゃあけっこういい運動だな」
家賃が比較的安かったのには、これもまた理由に含まれていたのかもしれない。粗方キレイになったところで、黒羽はようやく立ち上がった。ずっとしゃがみこんでいたため腰が痛い。
「抜いたはいいけどなあ。こっからどうすっかな。花でも植えりゃいいのかもだけど、そこまではなぁ……」
すっきりとはしたが、同時にずいぶんと殺風景になってしまった。
考え込む黒羽の耳に、カラカラという軽い音が聞こえた。窓の開く音だと気づき顔を向ければ、フェンスの向こうで、隣人が庭に出てきたところだった。
隣室との境には、背の低いフェンスが一枚しかれているだけだ。どちらかが植木でも植えればいいのかもしれないが、それもない今、隣の庭が丸見えだ。もちろん同時に向こうからの丸見えなわけだが―――いや、この場合はそうではないのか。
何をするでもなく、隣人はただぼんやりと庭を見つめている。そのように黒羽には見えた。何も悪いことではない。隣人は隣人で庭に出て、黒羽もまたそうしている。ただそれだけのことだ。
けれど明確に違うのは、黒羽は相手の存在に気付いていても、相手はそうではないということだ。それは何だかフェアではないような気もしたし、ただただ居心地が悪かった。だから悩んだ末に、黒羽は小さく唇を開いていた。
「……こんにちは」
相手に聞こえるのかどうかと言う、それはぎりぎりの声だった。
けれど相手は腐っても探偵だ。黒羽の発した言葉を聞き逃すことなく、ぐるりと顔をこちらに向けてきた。
「黒羽さん、いらっしゃるんですか?」
「えぇっと、いらっしゃいました。すみません」
「あぁ、やっぱり。声が聞こえたから、そうじゃないのかなと思ったんですけど、急に物音が聞こえなくなったんで」
ぼんやりしているように見えたのは、あれは実は耳を澄ましていたのだろうか。声をかけて正解だったのかもしれないが、やはり居心地の悪さは変わらなかった。
「ちょうど一息ついたところだったんですよ。ところで、オレの声うるさかったですか。つい独り言もらすことが多くて。すみません」
「いえ、うるさくなんかなかったですよ。謝らないで下さい。こうなってから、どうも今まで以上に耳に頼ることが多くなったからでしょうね。些細な物音も気になるようになってしまって」
声がうるさいと、そう文句をつけたいわけではなかったらしい。好意的な笑顔を浮かべながら、隣人―――工藤はフェンスまで近づいてくる。その足取りは多少慎重なものの、危なっかしさは感じられなかった。
「何をしてらしたんですか?」
「え?」
「一息ついたところだって」
「あぁ……」
積まれたこの雑草の山を見れば一目瞭然だろうに、それが工藤にはわからないのだ。なぜなら彼は目が見えない。
「草むしりですよ。ここの庭、ひどいことになってたんで」
「そんなにですか」
「雑草以外は見当たらないぐらいには」
黒羽は軽く肩をすくめて見せたが、当然その仕草も工藤には伝わってなどいないのだ。これはおかしな感覚だった。自分だけが相手を見ることができ、相手はそれができないとは。まるでマジックミラーのようだ。
「もうキレイになりましたか?」
「雑草は全部抜いたんですが、おかげでどうにも、殺風景になりすぎましたね」
「雑草だらけよりはマシですよ」
「それはそうだ」
この殺風景な風景にも、いずれ慣れるだろう。あるいは、それよりも先にまた雑草が生えるかだ。いっそ芝生でも植えればいいのかもしれない。それならさして手入れも必要ないことだろう。
「うちの庭はどうですか?」
「はい?」
「うちの庭、雑草がひどくないですか?」
問われて黒羽は、改めて隣の庭に視線を向けた。その広さはここと変わらない。植えてある樹木の位置でさえも。
「あー、ちょっと荒れてますね」
「やっぱり、そうですか」
「庭の手入れなんかは」
「やらないですね。あまり興味もなくて」
そうだろうな、と黒羽は内心で呟いた。庭いじりが趣味な探偵というのも、なかなか想像に難しい。
「どうして二階にしなかったんです?」
そうしていれば、そもそも庭の手入れの心配なんてする必要もなかったのだ。この隣人は、間違っても庭付きの部屋を望んだわけではなかっただろう。
「あぁ、二階だと、階段があるので。……オレは平気だって言ってるんですけど、身内がどうも聞かなくて」
「あぁ……」
確かに、目が見えないとなれば、階段一つとっても厄介なことだろう。そうと気付かず、安易に二階と口にしてしまった自分は、いささか配慮が足りなかったのかもしれないと黒羽は反省した。
何か話題を変えなければと、焦ったわけではない。そう思いたかった。けれど、常より余裕がないことも確かであった。らしくない。
「えぇっと、そもそもどうして、工藤さんは家を出られたんですか。実家もこの近くでしょう」
尋ねた黒羽に、工藤はどこかきょとんとした顔を見せた―――ような気がした。その目が真っ先に黒羽を射る。
「どうしてオレの実家がこの近くだって、ご存じなんですか」
「あ……」
なぜ最初に会った時に、工藤が盲目だと気付かなかったのか。勘の良さには自信がある。そうでなくとも、相手の目が見えているのかいないのか、数分でも会話をすればわかるだろうというものだ。
なぜなのか、なんて。
その視線が、全ての原因だったのだ。
「オレのこと、ご存じなんですか?」
当たり前のように視線がぶつかる。こちらの姿が見えているかのように。だから気付かなかった。気付けなかった。その瞳に自分の姿は確かに映っているのだと、そうとしか思えない風情だったからこそ。
「黒羽さん?」
「……そりゃ、知ってますよ。名探偵工藤新一は、何たって有名人でしょう」
吐き出すようにして言えば、工藤はゆっくりと顔を動かした。
「もう最近は、あまり表舞台には立っていないんですけどね」
「それでも工藤新一の名前を知らない人なんて、この東都にはいませんよ」
「その実家もですか」
「……まあ」
長年東都に住んでいれば、工藤新一の実家ぐらい、だれでも知っていそうなものだとは思う。とはいえど、居心地の悪さを感じて仕方ないのは、やはりこの会話に若干のストーカー性を感じて仕方ないからだろう。
何やら考え込むかのように、工藤は片手を顎に添えている。あるいはそれは、日頃の癖なのかもしれない。難題を前にしているかのような風情がそこにはあった。こんな雑草の生い茂った古びたアパートではなく、パトカーのサイレンの音が鳴り響く、事件現場にこそ似合う仕草であるような気がした。
「……何だか不思議な感じですね」
工藤にとっては、そう感じられるのかもしれない。一方的にその名が知られているというのは、一体どういう気分なのだろう。どこに行っても、どこを歩いても、その身を隠せないというのは。
「あ、あの、そちらの庭も、よければ草むしりしましょうか」
「はい?」
「あ、や、あの、ついでなので」
話題を変えなければと思った。
変えなければと思い、なぜそう言い出してしまったのかは、黒羽にもよくわからない。
「いえいえ、そんな、ご迷惑ですから」
「いえいえ、そんなこと仰らずに。どうせついでですから、ついで」
「いやでも、黒羽さん先ほど、一息ついたところだって……」
「一息ついてまたやる気になりました」
と言うのは、別段嘘ではない。元々体力はある方だ。少し休めばすぐに回復する。あと一時間や二時間、働き続けたところで支障はないだろう。部屋の片づけは進まないかもわからないが。
「あっ、ご迷惑ならやりませんよ、もちろん」
その辺りの分別はもちろん心得ている。雑草が生い茂る庭を、存外工藤が気に入っていると言うのならば、それはそれで引き下がるだけのことだ。変わった人なんだなと思いながら。
「いえ、迷惑なんてことは、そんな。むしって頂けるというのなら、ありがたい話なんですが……」
良かった。工藤新一は、それほど変わった人というわけではなかったようだ。
「そうと決まれば、失礼しますよ」
フェンスは黒羽の胸程にもない。よっと声を上げながら、軽くそのフェンスを飛び越える。軍手をはめ直し、再び地面にしゃがみこんだ。確かに雑草は生い茂っているが、かろうじて足の踏み場所ぐらいはある。黒羽の所とは違い、ある程度の手入れはされているようだ。
「終わったら声をかけますから、工藤さんはどうぞ中に―――」
ふと視線を向ければ、何を思ったのか工藤はその場にしゃがみこみ、それこそ手探りで地面へと手を伸ばしていた。素手のまま、そうして雑草を引き抜こうとする。
「工藤さん」
「全部は無理ですけど、多少手伝うぐらいのことはできますよ」
「それは……」
ありがたいと言うべきか何なのか。
本格的に抜く気でいるのなら、軍手を貸した方がいい。どうしようかと黒羽が考え込む間にも、工藤は届く範囲に手を伸ばしていく。その動きを追いながら、はっと黒羽は手を動かしていた。
「待った」
「……黒羽さん?」
工藤の目が見開かれる。その手首を、とっさに自分が掴んでいたことに、黒羽自身もまた驚いた。男にしては細い手首だなんて、思ってしまったことに対しても。
「驚かせてすみません。そこに、花が咲いていたもので」
「……花? だれも、何も植えてないと思いますが」
「どこからか種が飛んできたんでしょう。せっかくですから、そのままにしておいたらどうですか」
「そうですね」
工藤は大人しく腕から力を抜いた。黒羽は静かに腕を離す。突然掴んでしまったことに対しても、工藤は何も言わなかった。ただ、だらんと両腕を垂らしながら、少し情けなさそうに周囲を見渡した。とは言え、彼の視界には、一体どれだけの物が映っているというのだろうか。
「ダメですね。やはり、見えないと草むしり一つとっても難しくて」
「座っていて下さい。三十分もしないで終わるはずですから」
「すみません」
その場で足元を確かめると、工藤は静かに窓に向かって歩き出した。よく方向がわかるものだと思えば、地面には窓に向かって一列、石材が埋め込まれていた。これも黒羽の庭にはないものだから、工藤のためにと敷かれたものなのだろう。
「黒羽さんの所にも、何か花が咲いてましたか?」
そのまま部屋に戻るのかと思いきや、工藤は窓際に腰掛けた。さすがに隣人に草をむしらせ、自分はソファでくつろごうなんて気持ちにはなれなかったのかもわからない。
「えぇと、そうですね。名前もわからない、小さな花が幾つか。残しておいたんですけど、やっぱり殺風景なことには変わらなくて、駄目ですね」
「花でも植えますか?」
「どうでしょうね。オレもそこまでマメな方ではないので」
「庭までは、なかなか手が伸びませんよね」
黒羽を気遣ってのものだと思ったが、案外この隣人は、暇を持て余しているだけなのかもしれない。工藤に仕事をしている様子は無い。少なくとも黒羽がここに越してきてから数日、隣室のドアが開く音も、閉まった音も、気付いた限りは聞こえなかった。そこまで防音設備のいいアパートだとは思えない。
暇なのかと、けれどまさか、知り合ったばかりの隣人に尋ねるわけにもいかない。そこまで重要な疑問でもない。今黒羽にできることは、ただただ無心で雑草を引き抜くこと。ただそれだけだ。
「疲れませんか」
申し訳なさがそこかしこににじんだ声だった。
「体力には自信があるんです」
「何のお仕事をされてるんですか?」
「あー……」
その質問は少しばかり耳に痛い。が、適当に誤魔化す気にもなれなかった。嘘というのはいずればれるものだ。
「今は何も」
では学生かと、そう重ねて問われることもなかった。黒羽はまだ若い。そうした問いを向けられることも多いのだが、相手は仮にも探偵だ、何か感じるところがあったのだろう。
「そうですか」
この微妙な会話にも、工藤は表情を変えなかった。隣人が無職であることよりも、その隣人に草むしりをさせていることの方が、工藤としては気になるのだろう。
それきり、工藤は何も尋ねてはこなかった。かと言って部屋に戻るわけでもなく、ぼんやりと窓際に腰掛けている。
視線が気にならないと言えば嘘になる。幾ら相手にこちらが見えてないとはいえ、そう簡単に割り切れるものではない。工藤は退屈そうに、けれど何を気にした風でもなく、ぼんやりと辺りを眺めていた。何を考えているのかよくわからない顔だと思った。
「……よっし」
黒羽の庭よりもだいぶ早く、片付け終えることができた。フェンスを越えゴミ袋を取り、その中に抜いた雑草を入れていく。二庭分ともなると、ゴミ袋はぱんぱんだった。
「工藤さん、あらかたキレイになりましたよ」
「ありがとうございます」
小さく言うと、工藤は部屋の中に引っ込んで行った。そのあっさりとした物言いに、このまま部屋に戻っていいのだろうかと、黒羽は思わず困惑した。とりあえずゴミ袋をフェンスの向こうに投げ入れていると、小さな足音が聞こえた。
「黒羽さん、良かったら、これどうぞ」
「ビール」
これは思いもよらない報酬だ。さっさと部屋に戻っていなくて良かった。外した軍手をフェンスの向こうに放り投げてから、ありがたく黒羽は缶ビールを受け取った。プルタブを開け、一気に喉に流し込む。
「うっまあ!」
「それは良かった」
同じように缶ビールを傾ける工藤は、再び窓際に腰掛けた。今度は端により、一人分のスペースを開けている。それがだれのためのものなのかなんて明白で、黒羽はこれまたありがたく好意に甘えることにした。
引っ越し前後でばたつき、ゆっくり酒を飲むのも久しぶりだった。それに、普段黒羽が買う安い発泡酒ではなく、きちんとビールなところもまた嬉しかった。しっかりとしたこの味が好きなのだ。
「労働の後のビールは最高ですね」
「すみません、オレ、労働してないのにちゃっかり飲んじゃって」
「え、何言ってんですか。工藤さんのビールでしょうに」
何と言っても、タダ酒ほど美味いものはない。これで枝豆か、あるいはレモンをたっぷりかけたからあげでもあれば最高だなと黒羽は思う。
「普段はそんなに飲まないんですけどね。ちょうど買い置きがあって良かった」
そう言って微笑む工藤が缶ビールを握る様は、確かに違和感を感じさせるものでもあった。一番テレビで顔を見ていた、高校生探偵のイメージが強いからなのかもしれない。いつまでも高校生ではないし、彼も年をとるのだと、頭ではわかっていてもそうしたものだ。子役時代から知っている芸能人が、いつの間にか車を運転していることに驚くように。
「工藤さん、よくお酒がわかりますね」
半分程を飲み切った黒羽がそう声をかければ、工藤はどこか戸惑ったように、小さく眉尻を下げた。
「一応、成人してますんで」
「あ、いや、そういうことじゃなくて。その、よく他の缶と間違えないなと思って」
それとも、全く見えないのだと思ったのは黒羽の気の所為で、多少は視力も残っているのだろうか。だとしたら悪いことを聞いてしまったと、反省する黒羽の目の前に、缶ビールが差し出された。
「ここ」
「え?」
「ここに、書いてあるんです」
手にした缶ビールの、プルタブのすぐ横を、工藤の中指が撫ぜた。
「あ、点字?」
「アルコールには、点字がついているんですよ。他の飲料と間違えないように」
おかげでコーラとサイダーの区別は付きませんと、工藤は肩をすくめながらに言う。やはり最初に黒羽が思った通り、その目はほとんど見えてはいないのだろう。
「点字、読めるんですね」
「まだ単語を幾つかだけですけど。文章が読めるようになるのはまだ先ですね。早くそこまで覚えられるといいんですが……これじゃ本の一冊も読めない」
目が見えなくなって一番困るのはそれだと、まるで言いたげな声音だった。笑ってはいけないのだろうが、悲痛極まりないその様子はいっそおかしい程で、ついつい黒羽は小さく笑い声をもらしてしまった。
「……笑いましたね」
じろりと睨みつけてくる。もらした笑い声は吐息にも似た小ささだったはずだが、この隣人はまたずいぶんと耳ざとい。
「すみません」
「傷つきました」
「顔が笑っているのに?」
「傷を癒そうと、努めて笑顔を浮かべているんですよ」
「それはまた」
普段はあまり飲まないと言っていたし、工藤は少し酔っているのだろうか。黒羽はこの程度の酒では酔わないが、それでも少し気分はいい。労働後の酒、それも明るい内に飲むそれというのは、簡単に気分を明るくさせてくれる。
「大変失礼いたしました」
詫びながら、手にした缶を工藤のそれへとぶつけた。今更ながらの乾杯だ。工藤はもう一度笑みを深め、それからぐいっとビールを喉に流し込んだ。いい飲みっぷりであった。
「黒羽さん、草むしりついでに、もう一つお願いがあるんですが」
「何でしょう。ついでに庭の剪定でもしますか?」
「いえ、労働はもう結構なんですが……その、お暇な時に、また付き合ってくれませんか」
工藤は片手で缶ビールを持ち上げる。黒羽はぱちりと瞬きをした。
「お酒にですか?」
「あと、お喋りに」
「お喋り」
「あまり外にも行けない上に、本も読めないものだから、どうにも退屈で」
暇なのかと思った黒羽の予想は、見事に的中していたようだ。考えてみればそうだろう。目が見えないということは、本も読めないしテレビも見れない。パソコンにしたって同様に。
「お暇な時で結構ですので」
こんな風に頼まれて、嫌だと言える男がいるのだろうか。酒を振る舞ってくれたから、だから良い人だと思っているわけではない。黒羽とてそこまで単純な人間ではない。ただ、良心というものが残されているだけのことだ。
「……そりゃあ、オレなんかで良ければ」
頷いた黒羽に、工藤はほっとしたように息をもらす。
無邪気な顔だなと思った。可愛い顔だなと。そんなことを思ってしまった自分に、黒羽はこの上もなく呆れた。そうして、残ったビールを一気に煽った。
[14.04.24]
14.05.04発行 A5/FCカバー+オンデマ/352P/\2000
サンプルは【Knockin' on heaven's door(書き下ろし)】より。