「探偵さんは何ていうか、今まで勉強で苦労したことはありませんって感じだよね」
この喫茶店には、いつも客の姿がない。
そこまで言うのは大袈裟かもわからないが、けれど新一が訪れる際、他の客を見かけることはまず無かった。八割近くの確立であろうか。そもそもが十席程しかない狭い店内であることを考えれば、それも当然なのかもわからなかったが。
立地にも問題はあるのだろう。この近辺を比較的歩き慣れている新一でも、こんな所に喫茶店があることなど知らなかった。看板の一つも出ていないのだから当然だ。だからと言っては何だが、新一はいまだこの店の名前を知らない。率直にマスターに尋ねたこともあるが、その返答といえば「店名? 何でもいいよ。何なら工藤さんが適当につけてくれても」ときたものだ。さっぱり意味がわからない。
「そんな風に見えますか」
「あれ? 今まで言われたことない?」
「……勉強ができそう、とか、そういう言葉ならありますけど」
ただ、『今まで勉強で苦労をしたことはありません』だなんて、そこまでの言葉で表現されたことはない。そもそもがこのマスターに、テストの点などを話したこともないというのに。
「あぁ、うんうん。オレもそういうことが言いたかったんだけどね」
「だいぶ意味合いが違う気がしますけどね」
「え、でも、おじさんの言葉間違ってなかったでしょ? 実際さぁ、勉強で特別苦労したこととかないでしょ、探偵さん」
言葉の端々に、どうにも違和感を感じる。
まずはその一人称だ。見たところ、この喫茶店のマスターは、二十代後半だろうと思われた。けれど話をする内に、三十路であるらしいことが判明したのは、つい最近のことだ。十分若く見える上に、三十代であるというのなら、まだまだ『おじさん』などという一人称は相応しくないだろう。
新一としてはそう思うのだが、そんなことを告げる度に、「いやいや、高校生から見たら立派におじさんでしょうが」と頑なに固辞するのだ。そんなやりとりを、もう何度交わしたことだろうか。
「ま、その若さで、探偵なんてやってるぐらいだもんね。もちろんそこらのお馬鹿さんに務まるわけもないんだけど」
「そんな、ガリ勉みたいな雰囲気でもありますか?」
「いーや、その逆? やんなくてもできそう。っていうのは言い過ぎだとしても、教科書一度見ればもう内容はわかるってところ?」
カウンター越しに、茶目っ気の溢れる視線が返ってくる。
茶目っ気、だなんて、それこそ年上の男性相手に思うことではないのかもしれないが、そうした表現がまさにぴったりの表情なのだ。やはりどう客観的に判断しても、三十代には見えない。三十歳の誕生日を向けたばかりなのだろうか。
「間違ってないでしょ」
妙に自信に溢れているところも、また新一に違和感を覚えさせる原因だ。
何よりその言葉が、的を得ているからこそに。このマスターの言葉は外れることがないのだ。さすがは情報屋と言うべきか。―――新一がこの喫茶店に初めて足を踏み入れたのも、ある筋から紹介を受けてのものだったのだ。そうでなければ、この店の存在に気づくことなど一生なかったことだろう。
「そうですね」
大人しく新一は頷いた。カップに口をつける。訪れる度に味の変わるコーヒーも、またここの隠れた名物と言えるのだろう。豆はその時のマスターの気分で選んでいるのだという。そうしてここでもまた外れはないのだ。
「そもそもの頭の回転がね、そこらの高校生とは違うって感じだもんね。学校の授業、退屈じゃない?」
「いえ、とくには」
「ほんとに? オレなんかさ、大体の授業は居眠りしてたけどなぁ。まあ時代が違うからね、昔はそんなお受験お受験じゃなかったし、今よりも緩かったのかもだけどね」
「時代って、言う程年も離れてないのに、なに言ってるんですか」
「工藤君こそ何言ってんの。オレと工藤君じゃ全然違うでしょー。時代だよ時代。おじさんが子供の頃なんかね、テレビはまだ白黒だったんだからね」
「……黒羽さん、オレのこと馬鹿にしてます?」
「あ、ごめんごめん。そうじゃないけど。でもね、音楽聞く時にはカセットテープだよ。MDが出た時には驚いたもんだけどなぁ。通学中に音楽聞くのがずいぶん楽になってさ」
探偵さんはわかんないでしょと、楽しげにその瞳が瞬きをする。確かにカセットテープもMDも、新一には程遠い存在だ。そこには多少時代を感じると言ってもいいのかもしれない。
「レコードじゃなかったんですね」
白黒テレビと聞けば、次に思い浮かぶのはそれだった。
ふざけて返した新一に、マスターは大袈裟に胸の辺りに手を当てた。狙撃を受けた瞬間のようでもあった。
「工藤君ひっど! 最近の若い子はこれだから! いくら相手がおじさんだからってねぇ、そこまでじゃないから! それってオレの父親世代とかだから!」
「先に白黒テレビとか言ったのはどっちですか」
「……オレですけどー」
ふてくされたように呟く。一体どっちの方が子供なのだかと、まさか相手も高校生に思われたくはないことだろう。
狭い店内だが居心地はいい。当初の目的であった事件は情報提供を受けた甲斐もあって、とっくに解決を見せた。それでも新一は、決して家から近いとは言えないこの場所に、足繁く通ってきてしまう。
マスターもまた、笑顔で出迎えてくれる。もちろんこちらは客だ。渋い顔をされるわけもないのだが、店内の雰囲気以上に、交わす会話が何よりも心地良いものだった。テンポのいい会話。けれどその中身などさして無い。相手もまた、年齢不詳のマスターだ。新一が知っていることと言えば、その名前ぐらい。
「でも、今の子って大変そうだよね」
「そうですか?」
「遊ぶ所も少ないしさ。どこ行っても人目があるっていうか、なんかのびのびできなさそうっておじさんは思います。勉強の面においてもねぇ。英語ぐらいできて当たり前って感じじゃない?」
「英語、オレけっこう得意ですよ」
「探偵さん、逆に不得意なことってあるの? おじさんが子供の頃なんか、外人さんがいたら『ギブミーチョコレート!』って言ってたぐらいなのにー」
「……さっきよりもさらに時代を遡ってますよ黒羽さん」
このまま行けば、あと三十分後には、軽く平安時代辺りまで遡りそうだ。お歌の一つや二つ読まれでもしたらどうしようか。
肩を震わせながらに笑ったマスターは、そのまま流れるような仕草で、銀の小皿に盛られたチョコレートを出した。サービスかと思う前に、マスター自身がそのチョコを摘まみだす。
「でもね、今の子はやっぱり不健全だと思いますよ」
職業柄―――と言っていいのかはわからないが―――相手の手をよく見つめてしまうことがある。
その手の平を、指先を見れば、そうして触れれば、大体の職業の検討ぐらいはつく。今新一の前でチョコレートを摘まむ、その指先は男性にしては細く、そうして長い。キレイに爪も切り揃えられている。接客業であることを考えれば当然なのかもしれないが、その手がチョコレートではなく、そうしてティーカップでもなく、全くべつのものに触れる仕草を、新一は想像せずにはいられなかった。
小さな喫茶店のマスター。
けれど十年前は、違う姿をしていたのだ。
「こーんな店に、制服姿のまま、堂々と遊びに来ちゃうんだから、ねぇ?」
黒羽快斗。今その名を聞いて、すぐさまぴんと来る人間は少ないのかもしれない。
それでも新一は確かに記憶していた。幼い頃、両親に連れられ、確かにその人のショーを見たことがあったのだ。たった一度。けれど鮮明に記憶されている。
「……こんな店にって、ここは危ない店でも何でもないでしょう?」
情報屋としての顔を知っているのは確かにごく一部の人間であろうが、それが危ない筋のものなのかそうでないのか、その辺りの判断もつけられないのであれば、そもそも探偵などと名乗れない。
店を訪れ、その情報屋の顔を見て、信頼できると思ったからこそ、新一は依頼を持ちかけたのだ。金だってきちんと払った。高校生相手に商売はしないと、門前払いされるようなことはなかった。このマスターは、ただ面白そうに口笛を鳴らし「若い依頼人相手だと、精も出るねぇ」と笑っただけだった。
「いやいや、そうとも限りませんよって」
新一の回想を遮るように、長い指先が、新一の口にチョコを押し込んだ。
「黒……」
反射的に声を上げそうになったが、そうするとチョコが飛び出してしまいそうだ。コーヒーの味が残っていた口の中に、とたんに甘い味が広がりだす。甘味が嫌いなわけではないが、予期せぬタイミングで味わうのはまた別だった。
神妙な顔になってしまっていたのか、その指先は、つんつんと新一の眉間を突いた。
「大人っていうのは、大抵は笑顔の裏に、都合の悪い面を隠してるもんだからねぇ」
だから気をつけなさいよという、それはお節介染みた小言の一つだったのかもわからないが。
本当に都合の悪い面を隠している大人は、そんなことを言ったりはしませんよと、新一はつい心の中で言い返してしまった。
黒羽快斗。かつては若手天才マジシャンとして世間を、そして世界を騒がせた男。
そんな男が経営する喫茶店は、東都の片隅にひっそりと、今日も『OPEN』の札の一つもなく、ひっそりと店を開けているのだった。
[13.12.19]
13.10.27発行(14年1月完売) A5/オンデマ/32P/\300