付き合いだした、それからの


 タイミングは、確かに少しばかり計りかねてしまったかもわからない。それでもそれなりに考えて、そろそろいいだろうかと切り出した言葉だった。
「キスしてもいいかい?」
 まさか諸手を上げて歓迎されるとは思っていなかったし、場合によっては嫌がられる可能性も考えていたが、この返答はさすがに予想外というものだった。
「えっ、おまえそういうことに興味あるんだ? 意外ー」
「……恋人にキスをしたいと思うのは、興味がどうこう以前に人として普通の感覚だと思うけれど?」
「あーオレの中でおまえって人じゃなくて馬に分類されてるからーって、うそうそ。冗談だろ、そんな怖い顔すんなよ」
 どんな顔をしていたのだろうか。
 鏡がないため確認することはできなかったが、まあ機嫌のいい顔をしていないだろうことは確かだった。恋人に初めてのキスを求め、返って来たのがこんな反応とあれば。
「いや、だっておまえさ。今まで全然そういうこと言ってこねぇから、まあ男同士だし、そういうのは別にいいのかなって」
「付き合いだして早々に持ちだす話でもないだろう。こういうことには順序というものがあるし、早急に進めるものでもないのだから」
「クソがつくほど真面目だよなあ、おまえって。そりゃオレだって初デートでラブホ連れ込まれたら驚くけど」
「ラ……っ」
 このタイミングで何てことを言うのか。思わず飲んでいた紅茶を吹き出しそうになってしまった。そんな白馬とは反対に、黒羽はどこからか取り出したトランプで、器用にもピラミッドを作っている。呑気なものだ。
 彼の突拍子もない言動には慣れているし、そうした予想外なことばかりするところも魅力の一つだと思っている。一緒にいて飽きないし、何よりも楽しい。ころころと変わる表情からは目が離せない。かと言って、あまり近くに居過ぎると逃げられる。
 一度咳払いをしてから、もう一度紅茶を口に運んだ。おかげで味もろくにわからない。
「……それで、君の返事は?」
「返事?」
「僕のさっきの問い掛けをもう忘れたと?」
「あ、お茶のお代わりなら欲しい。あとできればさっきのスコーンお代わりしたいなーおまえんちのスコーンほんと美味いよな。まあ他でスコーン食ったことねぇけどさ」
「黒羽君」
 話の逸らし方がわざとらしい。嫌なら嫌でそう言ってくれればいいのだ。その答えも覚悟した上で、白馬は敢えて尋ねているのだから。嫌がる相手に無理にしたいと思っているわけではない。
「誤魔化そうとするのだけは止めてくれ。君の正直な気持ちが聞きたくて僕は尋ねているんだ」
「……いやあ、何かそうやって真面目な顔で尋ねられること自体オレとしては遠慮したいっていうか……」
 ではどんな顔で尋ねればいいというのか。笑いながら尋ねることではないだろうと白馬は思うのだが、大抵の場合黒羽とは考え方が違うのでわからない。もしかしたら彼にとって、これは笑いながら話す内容だったりするのだろうか。
「……まあ別に、するのは嫌じゃないけどさぁ」
 トランプを手の中で弄りながら、ぽそりと黒羽はそう言った。
 にわかには信じられず、その様子を白馬はじっと眺めた。得意のポーカーフェイスなのか、そうでないのか。
「嫌なら、何も無理はしなくていいんだよ」
 白馬の言葉に、どうしてか黒羽は気分を害したようだった。トランプの動きを止め、むっとしたようにその眉が寄る。
「何でオレがおまえのために無理なんかしなきゃいけねーんだよ? 普通に付き合ってんだから嫌じゃないって言ってんだよ。嫌だったら最初から付き合わねーっつの」
「なるほど」
 ごめんと小さく謝れば、黒羽はふんっと荒い鼻息を返してきた。到底キスをするような雰囲気ではないが、了承を得られたのだからこんな好機を逃す手はない。
 何せ、また次の機会になんてことを言えば、今度顔を合わせた時には「あ、今日は気分じゃねぇからやだ」なんてことを言われかねない。それでは困る。
「こっちにおいで」
 隣をぽんぽんと叩きながらに言えば、黒羽はむっと唇を尖らせた。今からあの唇に触れるのだと思うと、何とも不思議な気がしてならなかった。
「おまえが来いよ」
「一人掛けのソファに行ってどうしろと?」
 そこまでは考えていなかったのだろう。一層顔を顰めてから、いかにもしぶしぶと言った様子で黒羽は立ち上がった。いじっていたトランプは一瞬にしてどこかへ消えさり、その手の中には何もない。夜毎見せられる派手なマジックよりも、こうした些細な瞬間の方に白馬はいつだって驚きを隠せない。
 隣に腰掛けた黒羽を見つめれば、どこか睨みつけるように見上げてくる。間違ってもこれからキスをしようという恋人の顔ではないなと思えば、つい口元には笑みが浮かんでしまったのだろうか。
「……なに笑ってんだよ」
「ごめん。君があまりに可愛らしいものだったから」
「目ぇ腐ってんじゃねーの? 眼科行けよ」
「眼科に行っても、恋の病に効く処方箋は出してもらえないだろうからね」
「……眼科じゃなくて、おまえ一度頭見てもらった方がいいんじゃねーの?」
 可愛くないことばかり言う唇を、塞いでやりたいとただ思う。頬を撫でれば、少しだけその身体が身構えたことがわかった。挨拶のそれを除けば、白馬にとってはこれが初めてのキスになるが、黒羽にとってはどうなのだろう。
 初めてのキスの前に、もちろんそんな野暮なことを尋ねるつもりは毛頭ないが。
 至近距離でその顔を見つめれば、睫毛が長いなと真っ先に思った。黒目もまた大きい。肌がそこらの女性よりも綺麗なのは、時たま女性に変装することがあるからだろうか。手入れもそれなりにしているのだろうかと気になったが、聞いたところで答えてくれるわけもないとわかっている。
 顔は小さく、唇は薄い。そこに触れたらどんな感触なのだろうかと、今までに数えきれない程には考えてきた。だというのに、当の本人には『意外』などと言われてしまうのだから驚きだ。彼は一体、自分を何だと思っているのだろうか。
 好きな相手に触れたいと思うのは当然なことだし、男としてはなおさらだ。正直キス以上のことを考えたことも一度や二度ではないが、それはまた時間をかけて進むものだろうと思っている。
 触れた頬は温かくて柔らかくて、こんな風に触れることができるのも自分だけの特権なのだと思えば、今更ながらに嬉しさが込み上げる。この先を知るのが自分だけならばいいのにと、そんな自分勝手なことを考えてしまうぐらいには。
 心臓が小さく、けれど強く波打って行く。
「目を―――」
 閉じてと言いかけたまさにその瞬間、おもいきり胸を押された。突き飛ばされた、と言った方が正しいのかもしれない。
「な……っ」
 突然のことに驚いたし、何より強打された胸が痛い。思わず咳こみながら視線を向ければ、当の本人も驚いた顔をしていた。
「……黒羽君?」
「あ、いや……」
 腕が勝手に動いたとでも言わんばかりの表情だった。わざとではなかったのだろう、無意識に身体が動いたのだとわかった。
 つまりそのぐらい、キスをするのが嫌だったということなのだろうか。そう考えてしまえば落ち込まずにはいられなかった。
「……嫌ならそう言ってくれればいいんだよ」
「あっ、いや、そういうわけじゃねーけど! そういうわけじゃねえんだけど、何つーか……」
 ぽりぽりと、黒羽は自身の頬をかく。ここまで焦った表情というのは、滅多に見えるものではなかった。普段は焦ったように見えても、その実余裕があるのだろうわかる顔ばかり見せられている。
「……やー、おまえの顔、至近距離で見てると何か辛いなーって」
「―――」
 自身の顔が、到底彼の好みに沿うものでないことはわかっていたが、まさかそこまでのことを思われていたとは。
 性格や行動的な面であればまだどうにかすることはできても、顔立ちとなると難しい。整形という手もあるが、そこに踏み出すのはさすがに難しい。まずは親に何と話をすればいいのか。
「……あー、あの、白馬? 怒ってる?」
「……人の好みはそれぞれだからね、別に怒ってはいないけれど、今後どうしたものかと考えているよ」
「え、何で。つーかちょっと待って、おまえ何か勘違いしてねぇ? 別にそんな重く考えてもらうあれじゃなくてさ、ただちょっとおまえの顔が近いと……」
「好みでない顔が至近距離にあれば、それは不快なものだろうね。わかったからには、今後不用意に近づかないよう気を付けるよ」
「わー、だからそうじゃねえって!」
 大声で黒羽は叫ぶ。そうしてから、「あのなあ!」と白馬の腕を掴んできた。けっこうな力だった。
「だれもおまえの顔が好みじゃねぇとか言ってねえだろ!」
「え、じゃあ好みなのかい?」
「……そうも言ってねえけど!」
 何とも煮え切らない。どういうことなのかと眺める白馬に、黒羽自身もまた、どうやら言葉に迷っているようだった。
「……だから別に、おまえの顔が好みだとか好みじゃないとかそういう話じゃなくて、そういう次元のことを言ってるんじゃなくて、ただ単におまえの顔が近くにあると何つーか落ちつかないっていうことを言いたいわけで」
「それはつまり僕の顔が不快だという話じゃないのかな?」
「だから不快じゃねーけど! オメーの顔が無駄に整いまくってるから! だから至近距離で見たくねーの! そういう顔は近くで見るべきじゃねーんだって……!」
 怒鳴った後に、黒羽ははっとしたように口元を押さえた。押さえたところで一度飛び出た言葉が戻ることはなく、もちろん白馬の耳にもしっかりと届いてしまっている。
 届いてから、それを理解するに至るまでには、少し時間が必要だったりもしたのだけれど。
 落ちつくために紅茶を飲む。果たして飲んだところで、落ちつくことができたのかはわからなかった。ただ無駄に時間が経過しただけのような気もした。
 一つ深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「僕の顔が整っていると、君はそう思うわけだ、黒羽君?」
「……うるせえな」
「そんな僕の顔を、近くで見ると落ちつかないと?」
「うるせぇって言ってんだろ」
「僕の思い違いでなかったら、君は案外、自分で思う以上に僕のことを―――」
「だからうるせえっつーの!」
 怒鳴り声と同時に、傍にあったクッションが飛んできた。顔面でそれを受け止めながら、どうにも黒羽はこのクッションを武器の一つのように思っているようだと白馬は考える。今まで一体何度、これを顔に当てられたことか。
 頬を赤くしたまま、黒羽はもう一つのクッションをいじっている。角部分から垂れた糸を、片手で器用にも三つ編みにしているのは、わざとなのか無意識なのか。
「黒羽君」
 呼びかけても返事はない。それどころか視線すら向けられることもない。それでも怒りは沸いてこない。ひたすらに無視しようとする、そんな態度にすら愛しさを覚える。
「僕の顔を近くで見ることが落ちつかないと思うのなら、まずはそれに慣れることから始めたいと思うんだけど、どうかな?」
 予想通り返事はない。だから、クッションを手放しその身体に腕を伸ばす。見た目通り細身の身体は、実際に腕を回してもそうだとわかる。すっぽりと腕の中に閉じ込めても、珍しく逃げる素振りはない。明日は雨かなと、そんなことをふと考える。
「こっちを向いてくれると、もっと嬉しいんだけど」
 けれどそれは無理だろうともわかっている。案の定、黒羽はますます顔をそっぽに向けてしまった。予想はしていたが、あまりにわかりやすすぎる行動につい吹き出してしまう。
「……ンだよ」
「いいや、別に?」
 すぐさま睨みつけてきたその額に、軽くキスを送れば、驚いたように目を丸くさせる。当分はこの程度で我慢しようと思ったというのに、再びクッションを叩きつけられるのだから、全くたまったものではない。本当に。
[14.10.17]
14.10.12発行 A5/オンデマ/52P/\500