程良い疲労感に包まれていたとはいえ、まるで気配を感じなかった。つんつんと背中を突かれ、驚いて振り返った工藤は、そこに立っていた顔を見て小さく目を見開いた。
「黒羽」
―――工藤さん。
音も無く動いた唇が、続けて「お疲れ様」と言葉を綴る。
「こんなとこで何してんだ、おまえ」
―――買い物。
「いや、そうじゃなくてな」
この辺りで一番大きなショッピングセンターだ。平日の夕方という時間帯でも客の数は多い。黒羽が買い物に来ていたところで不思議はないが、工藤が事件を解決したそのタイミングで、偶然この場を通り掛かったというのだろうか。
『一階で買い物してたら、何か上の階で事件が起こったらしいって聞いて。もしかしたらなと思って来てみたら、やっぱり工藤さんがいたってわけ』
やっぱりとは何なのだ。
自身の事件遭遇率が異様に高いことは知っているが、何とも微妙な気持ちだ。基本的には工藤は謎を愛しているが、だからと言って四六時中事件に遭遇したいわけではないのだ。
「だけど、よくこっちまで来れたな。他の階に繋がる出入り口は、全て封鎖してたはずで……」
言いながらに気づく。
そんなものが、こいつに通用するはずもないのだと。
案の定、黒羽は意味ありげな笑顔を浮かべて工藤を見つめる。『現役』を引退したとは言っても、多少の警備の目を掻い潜ることなど、朝飯前ということなのだろう。
「……程々にしておけ」
黒羽がヘマをするとは思えなかったが、一応工藤は警察に協力する身だ。黒羽の今の行動を、そのまま許容するわけにはいかない。もっとも、大して意味のある台詞だとも思えなかったが。
「もう買い物は済んだのか?」
見張りの警官に会釈をしてから、エレベーターへと乗り込む。一階のボタンを押しながらに、黒羽はうんと頷いた。
「何を買ったんだよ。けっこうな荷物だな」
『色々。細かい調味料とかそこら辺を』
黒羽が差し出してくるのは、彼自身の携帯だ。
二人きりの時には当たり前のように声を発するようになった黒羽も、外に出れば相変わらずだ。驚いた拍子にですら、わずかな声も上げないのだから、逆にすごいものだと工藤は思う。
この小さな箱の中に、他に客の姿は無い。密室だ。そうであれば少しばかり声を出してもいいだろうと思うのだが、やはり黒羽にとっては難しいのだろうか。
「調味料って、何でまた」
一々携帯に文字を打ち込まれては、当然会話のテンポは遅くなる。
けれど、黒羽の文字打ち速度は早い。工藤の軽く数倍はあるだろうか。おかげで、こうした会話にもそれ程ストレスは感じない。
『だって工藤さんちにある調味料って、どれも古いやつばっかりだから。これから工藤さんち行っていい?』
つまり黒羽が今手にしている荷物は、工藤家用の物だというのか。
自宅の調味料が古くなっていることなんて、工藤はまるで気付かなかった。けれど、黒羽が言うならそうなのだろう。工藤は細かい調味料を使う料理などは一切しないし、ここ最近工藤家のキッチンに立っているのはもっぱら黒羽の方だ。
「ダメっつったらどうすんだよ」
いつでも好きな時に来ていいと、何度もそう言っているというのに、一々黒羽は工藤に了解を求める。家の鍵を開けるぐらい、それこそ朝飯前だろうというのにだ。
『そしたらまた今度、この荷物を持って行く』
大真面目な顔をして黒羽は言う。いや、携帯に文字を打ち込んでいく。その返信に、工藤は内心でため息をもらす。
物わかりがいいところは、長所なのかもわからないが。その場合に、せめて荷物だけでも工藤に渡そうなんて、まるで黒羽は考えないのだろう。
「……バーロ。ダメだなんて言うわけねぇだろ」
『もう今日は帰るとこ?』
「そうだよ」
エレベーターは一階に辿りつき、開いた扉を順にくぐる。
買い物はもう済んでいた。参考書を一冊買うだけの予定が、またずいぶんと時間を食ってしまった。
「今日はもう空いてるから、おまえも泊まってけよ」
黒羽の予定は確認するまでもない。元々工藤の家に来るつもりだったのだろうし、そもそも黒羽はスケジュールの詰まった暮らしはしていない。
『工藤さん、今日はもう事件に遭遇する予定もないんだ?』
にこにこと―――いや、にやにやとだろうか―――笑いながら向けられた携帯を眺めてから、工藤は頬を軽くつまんだ。
「元々、ンな予定立ててねぇよ」
あくまでも工藤は、偶然事件に遭遇しているだけだ。
その『偶然』の確立が異様に高いことは自覚しているが、かといって予定に組み込まれてはたまらない。それではとんだ疫病神ではないか。
痛い、と声には出さず黒羽は呟く。そう大した力は込めてはいない。黒羽だって、本気で痛がっているわけではないのだろう。わざとらしく頬をさすっているのだって、ただのアピールだ。
そんなアピールを横目に見ながら、工藤はさりげない仕草で黒羽が手にしていたビニール袋を奪い取った。
さりげないつもりだった。けれどもちろん、そんなことをされて黒羽が気づかないはずもない。
―――工藤さん?
大人しく手を離したものの、黒羽は首を傾げている。
そうしてから、その手をもう一度伸ばした。オレが持つよと、表情を見れば黒羽がそう言っていることはわかる。
「いいから」
手にした袋は、見た目に反してそれなりの重さがあった。調味料だと言っていたが、中を覗けば色んな小瓶が入っていた。料理酒や醤油を買ったわけではないらしい。
「重てぇだろ」
恋人が荷物を持っていたら、代わってやりたいと思うのは、男として素直な心情ではないだろうか。ありがとうと、笑って任せてく
れればそれでいいのだ。
けれど物わかりがいいように思えて、工藤の恋人はこれでなかなかに可愛くないところがある。
つんつんと工藤の腕を突いてから、黒羽は軽く腕を曲げる。力こぶを作るポーズだ。もちろんポーズだけで、本気で力を込めているわけではないのだろう。細い腕には力こぶは見られない。
それでも、黒羽の言いたいことはわかるつもりだ。自分の方が力があると、そう言いたいのだろう。
「……うるせぇよ」
漏れそうになる舌打ちを堪える。黒羽はまだしつこく腕を曲げたままこちらを見ている。先ほどよりも強い力で、工藤は頬をつねってやった。
「……少しはこっちの気も察しろって」
そっぽを向いて言えば、とたんに工藤の言葉は黒羽には届かない。そうわかっているからこそ漏らせる、本音の呟きでもあった。
黒羽の言っていることは間違っていない。腕力だけなら、確かに黒羽の方があるのだろう。そんなことはわかっている。けれどそれでも、ただ荷物を持ってやりたいと思ったのだ。男のくだらないプライドだと言われればそれまでだ。
同じ男なのだ、黒羽だってそんなことはわかるはずだというのに。
いや、同じ男だからこそ、持ってもらう謂われはないと、そう考えたのだろうか。わからない。
袖を軽く引かれる。顔を向ければ、呆れたように笑いながら、ため息をつく黒羽の顔があった。
―――かっこつけ。
黒羽の『口ぱく』にもだいぶ慣れた。読唇術などと呼べる程、工藤のそれは大したものではない。あくまでも短い単語を読みとるだけのことだ。
けれどそれが、こうした単語であるのなら、あるいは読みとれない方がいいのかもしれない。自覚しているからこそ、何と反論をしていいものかどうかもわからないだなんて。
『でも、そういう優しい工藤さんが好き』
「……オメーな」
物わかりがいいようで可愛くなくて、かと思うと不意打ちでどこまでも可愛い顔を見せる。
押し倒してやりたいと、こんな瞬間に思うのだと、果たして黒羽は理解しているのだろうか。
[13.04.26]
13.05.03発行 A5/42P/\400